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フランス 「移民」という不安

『多文化社会読本』より フランス共和主義とイスラーム嫌悪

1989年と1994年には、国論を二分するほどに大きな議論となった公立学校のスカーフ問題だが、公立学校における女子生徒のスカーフ着用それ自体は1980年代には広くみられていたといわれ、ことさらに社会問題視されることはなかった。つまり、スカーフが問題視される契機は、ムスリム女子生徒のスカーフ着用それ自体にあるのではなく、それを問題視するようになった社会の側にあることになる。言い換えれば、「移民」の子女であることの表徴でしかなかったスカーフが、ムスリム系住民によるライシテの侵犯にしてフランス社会への同化拒否の象徴と見なされるようになった転機が、1980年代終盤から90年代にかけてあったわけである。

この時期のフランスといえば、戦後の高度成長が1970年代のオイルショックによって終わって以降、経済の低迷が続くなか、内外で大きな社会変化に向き合わねばならなかった。 1981年から始まったミッテランの社会党政権は、経済を立て直すべく種々の社民主義的政策を試みたが、ことごとく失敗して経済の停滞は慢性化した。一方で、東西冷戦は終焉して国際状況が激変するなかフランスの対外的なプレゼンスは低下し、国内では非ヨーロッパ系移民の流入および定住に伴って社会の多文化化が進んだ。他方で、国際的にはEUの創設によって超国家的な地域統合が行われて国家の自律性は低下した。このため「一にして不可分」という固有性を標榜してきた先進的文明国フランスの威信とアイデンティティはゆらぎ、社会不安が高じたのだった。実際、移民排斥と反EUを訴える極右政党「国民戦線」が選挙で得票数を伸ばして一定の政治勢力となり、既存政党も、人気を集める国民戦線のポピュリズムを看過できず、ときに追従すらしていくようになるのがこの時期である。

ここで考えてみたいのは、なぜこうした社会不安がマグレブ系住民というエスニック・マイノリティの排除に転化するのかということである。主流社会と異なる文化をもつとはいえ、居住それ自体が社会的な素乱になるわけでもなく、そもそも政治的な力を発揮できるほどの資格を与えられておらず、多くが社会の底辺で暮らすがゆえに周縁化され、不可視化されてきたマグレブ系住民が、蔑視や差別の対象であることを超えて、フランス(的価値)を毀損するがゆえに駆逐すべき存在と見なされ、公然と社会的暴力を振るわれて排除されるようになる理由はいかなるものなのか。ここに関わるのは、失敗した植民地支配のトラウマと、1980年代終盤から90年代にかけて進展したグローバリゼーションとによって毀損されたナショナル・アイデンティティに対する憐潤的かつ攻撃的な自己防衛であるといえる。

今日ではあまり意識されなくなっているが、往時のフランスは英国に次ぐ版図をもつ帝国であり、アジア、アフリカの所々に植民地をもっていた(海外県はその名残である)。なかでも注力していたのが地中海対岸にあるマグレブ地域(アルジェリア、モロッコ、チュニジア)で、とりわけ1830年に占領が始まり、1847年には抵抗運動を制圧して完全なフランス支配下におかれたアルジェリアは、フランス人をはじめとする多くのヨーロッパ人が入植し、フランスの一部として本土同様の行政単位である県がおかれるほど(モロッコ、チュニジアは保護領)、重要な支配地として位置づけられた。しかし、第二次世界大戦後は独立運動が再燃して激化し、1954年にアルジェリア戦争が勃発して、1962年のアルジェリア独立までに100万人以上の死者を出す壮絶な戦闘が行われた。文明の下賜の名のもとで「善意」として合理化され、推進されてきたアルジェリア支配が被植民地人に根本から否定され、宗主国としての威光や自尊心は粉砕されたわけである。

と同時に、この戦争はアルジェリアだけでなく、フランス本土にもさまざまな内乱を引き起こしてフランス人同士が殺し合うまでになり、深い亀裂を生み出すことになった。フランス国内のアルジェリア独立運動が社会を紛擾させ、在仏アルジェリア人が官憲によって虐殺される事件が生じる一方、極右民族主義者の武装地下組織OAS(Organisation de l'Armee Secrete : 秘密軍事組織)はアルジェリア独立の承認を阻止すべく政権に対してクーデターを企て、政治家やフランス軍・警察に武装闘争やテロを行った。対する政権側も徹底的にOASを取り締まった(OASのメンバーには拘禁刑はもとより、死刑、地位の剥脱、公職追放の判決が下され、海外逃亡する者も出た)。ピエ・ノワールと呼ばれるアルジェリアからのフランス人引揚者は家と財産を失い、父祖の地を追われながらも本国では疎んじられた。アルジェリア戦争でフランス軍に参加したアルキと呼ばれるアルジェリア人は、戦後に渡仏してもフランス社会で隔離されてほとんど顧みられることがなかった。しかもこうした「汚点」と亀裂の総体は、当局によるメディア統制や隠蔽、何よりフランス人自身の否認もあって可視化されることがなく、そのトラウマだけが深く社会に沈潜することとなったのだった。

他方で、フランスの戦後復興を下支えすべく低廉な単純労働力として移入されていたアルジェリア人労働者は、アルジェリア独立によってフランスとアルジェリアどちらの国籍を選択するのか迫られることを皮切りに、変転するアルジェリアとの外交関係にその身分は翻弄された。フランス定住を選んだものたちは、アルジェリアから家族を呼び寄せることは認められたものの、経済の停滞によって真っ先に解雇されて失業が常態化し、市民としての社会的救済を十分に受けることのないまま、高度成長期に建設されて、1970年代の経済低迷後はスラム化していく大都市郊外の低所得者用集合住宅に集住し続けることになった(今日“郊外”と呼ばれているのはこうした地域である)。職場と家庭におおむね生活空間が限定されていたために社会から暮らしが隔離されていた移民1世たちと異なり、フランス生まれの移民2世たちは、生活が地域に深く関わるがゆえに否応なしに社会を多文化化していったが、アルジェリア戦争をめぐる歴史は抑圧され、移民が移入された経緯は等閑視されることで、移民の抱える問題は移民それ自体のせいにされ、移民の居住地域である“郊外”は「移民」--マグレブ地域に出自をもつことや、ムスリムであること、移民であることが渾然と一体化した「他者」の表象である--の流入によって引き起こされる社会問題の温床と一方的に見なされることになったのである(社会問題のエスニック化)。

こうしたなか進展したのが、グローバリゼーションである。グローバリゼーションは、諸国家に経済と流通の徹底的な開放を求め、国境を越えて産業、文化、市場を統合することで、国家から経済を中心とする諸活動の自律的な統制機能を奪っていく。いきおい、グローバリゼーション下で国力を確保しようとする国家は、富力を増大させる企業に好適なプラットフォームと化す経済政策を採ることになる。そして、国家がその経済基盤を国民ではなく企業に重点をおくとき、国家を持続的に成長させるためのリソースであった国民全般の労働生産性の維持と向上は顧みられなくなり、イノヴェイティヴと見なされない大半の国民はコストと見なされて、景気の調整弁にその存在価値を縮減されてしまう。しかも「職」は一般国民にとって経済活動のみならず社会関係の基盤でもあるため、雇用が常態的に不安定化することは、国民に生活不安を抱かせるだけに終わらず、自らが社会から落伍する不安、すなわち、社会的に否定されることへの恐れを生み出すことになる。

こうしたことから、1980年代終盤まではマイノリティでしかなかった移民が、社会の不穏分子に見なされるようになった事態を理解することができる。国家の政治と経済の主体性が外部の力(グローバリゼーションやEUといった超地域的統合)によって脆弱化するとき、先進国の国民であれば市民権(国民権)という社会に存在するための特権--難民を思い浮かべれば、これが特権であることは理解できよう--を平等かつ無条件に与え、保証してくれるという国家の擬制的な超越性を内面化している人々は国家に同一化して、国家の脆弱化とそれに伴う市民権の質の低下をアイデンティティの崩落と感じて不安を抱くことになる。現実に、経済、雇用、治安、社会福祉などの劣化を目にすることで、そうした不安には根拠が与えられてしまう。こうしたとき、移民の流入が地域社会で可視的な(負のイメージの)変化をもたらすと、そうした社会変化は「外圧」による国家の変化とないまぜになり、「移民」は社会を悪化させる「汚染」の象徴となる。と同時に、マグレブ系移民の存在は、フランスの文明国としての威信を失墜させた植民地支配の挫折/戦争の敗北という忌まわしい過去とその責任を突きつけるものでもあったため、二重にその存在は否定されることになった。しかも1991年に、アルジェリアでイスラーム原理主義政党のイスラーム救国戦線が選挙で勝利すると、世俗主義を標榜する軍部がクーデターを起こしてアルジェリアは内乱状態となったが、フランスはこの軍部政権を支持したため、内乱がフランス国内に飛び火し、アルジェリア戦争時を彷彿させる爆弾テロが起きて、「移民」に対する不安・敵視は増幅されることになったのである。

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