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ポーランド 絶滅政策の記憶

『多文化社会読本』より ポーランドにおける多文化社会の再構築の試み

第二次世界大戦前のポーランドには、総人口約3、000万人のうち、ユダヤ人(ユダヤ教徒、「民族的帰属」としてユダヤ人を選んだ人)は約300万人が暮らしていたが、絶滅政策の結果、戦後のポーランドに帰還したのは20万人にすぎなかった。その多くもすぐにパレスチナや北米に移住したため、その数はさらに少なくなった。普通、移住には主体的な選択が伴うが、ユダヤ人たちにとっては、戦後、ポーランド人民共和国に残る、という選択もまた主体的なものでなければならなかった。親類や友人も、地域のコミュニティも、宗教的コミュニティも、何もかも失っていたからであり、そのうえ、そこは忌まわしい虐殺の地であり、ナチズムは、ポーランド社会に強い反ユダヤ主義さえ刻印して去ったからでもある。熱心なユダヤ教徒の目には、社会主義のポーランドより、北米のユダヤ人社会か、イスラエルのほうが、宗教生活にははるかに恵まれた条件を備えているようにみえただろう。

ポーランドに残ったユダヤ人は、戦時中の経験にもかかわらず「ポーランド人」としての自己認識を保っていた人か、社会主義社会の未来に期待をかけた人々であった。そのため、彼らにはユダヤ人・ユダヤ教徒としての社会的・文化的実践を行う理由も、ましてや絶滅政策の過去を想起する積極的理由もあまりなかった。また戦後のポーランド社会では、現代史は、ナチ・ドイツの苛酷な占領という「受難の物語」と、占領に対する抵抗という「英雄譚」を軸として構成されたので、絶滅政策への関わりという問いに結び付くユダヤ人の存在は、集合的記憶のなかから排除された。冷戦状況のなかで、北米やイスラエルに移住した人々もポーランドという故郷から切り離され、残ったのは虐殺と裏切りの記憶であり、度し難い反ユダヤ主義に刻印された、最果ての「東ヨーロッパ」というイメージだけであった。こうして戦後のポーランドでは、ユダヤ人の姿のあった長い歴史も、絶滅政策の経験も、語られることはなかった。

このような状況に変化が訪れるのは、ようやく1980年代末のことである。1987年には、記念碑的論文が、カトリック・リベラル系の雑誌に発表された。ヤン・ブウォンスキの「哀れなポーランド人がゲットーを見つめている」である。ブウォンスキは、ポーランドの詩人、チェスワフ・ミウォシュの詩、「哀れなキリスト教徒がゲットーを見つめている」に寄せて、こう書いている。

チェスワフ・ミウォシュは、ポーランドの詩に重くのしかかっている浄めの義務について、独特のことばで何度も書いている。「重荷を背負わされ、血で礦された祖国」を浄めることを。機れをもたらすのは他人の血である。自ら流した血、犠牲者の血は、悲しみにせよ、共感にせよ、あるいは敬意にせよ、追想をかきたてる。記憶、祈り、正義を求める。それはまた、いかに容易ではないにしても、赦しを許容する。ところが他人の血はそうではない、正義の戦いで流された血にしても。私たちには正当防衛の権利がある、しかし、それはすでに妥協でしかない。イエスはペトロに剣をおさめるよう言われた……。流された血には、省察、つぐないが必要だ。そして、他人の血はどのようなものであれ、祖国を機し、重荷を背負わせるものだとは言うことはできない。

ミウォシュが考えているのは、自分たちの血のことでも、侵略者たちの血のことでもない。彼が考えているのは、ユダヤ人の血のことであり、大量虐殺のことである。それは、たしかにポーランド国民にその責任はないが、この地で行われ、いわばこの地に永遠の刻印を残している。詩、文学、あるいはもっと一般的に、記憶や集合意識は、この血にまみれた、おぞましい徴を忘却することはできない。あたかも何事もなかったかのように振る舞うことはできない。…時として(特に若い人だちから)、この徴は何の関係もないという声を聞く。連帯責任を負うのはやめようじゃないか、と。取り返しのつかない過去にかかわる必要はないのだ。ほかのどのような不正な行為や野卑な行為を裁くのと同じように、犯罪は全体として裁けば十分なのだ、と。それに対して、私はこう答えよう。祖国というのは、その時々にやってくる客が汚したあとを掃除すれば済むような、ホテルではない、と。祖国は何よりも記憶からなっている。別の言い方をすれば、私たちは過去についての記憶によってのみ、自分自身なのだ。この過去は好きなようにつくり変えることはできない。たとえ、個々人としては、私たちはこの過去に直接の責任を負っていないにせよ。私たちは、それがどんなに不快で苦痛に満ちたものであっても、過去をみずからの中に携えていかなければならない。そして過去を浄めることに尽くさなければならない。

ブウォンスキは、ポーランドの歴史に、ポーランド社会の集合的記憶のなかに絶滅政策という過去を正当に位置づけることを求めたのだが、それだけでも、当時は大きな論議を巻き起こした。ある人々の目には、ブウォンスキの呼びかけが、ポーランド人を道徳的に非難するものと映ったからである。しかし、1989年の体制転換を経て、絶滅政策とポーランド社会の関係を問う議論は、ますます広がりと深まりを増していった。その頂点がイェドヴァブネのユダヤ人虐殺をめぐる議論である。

1941年7月、ドイツが占領分割線を破ってソ連占領地域に進撃した直後、占領分割線のすぐ東にあった小さな町、イェドヴァブネで、ユダヤ人の虐殺事件があった。犠牲者は納屋に押し込まれ、火をかけられたのである。この事件は、1999年に出版されたポーランド出身の歴史家、ヤン・トマーシュ・グロスの著作、『隣人たち』で一躍有名になり、ポーランド社会を二分する議論を巻き起こした。グロスは、ポーランド社会にある反ユダヤ主義を告発し、絶滅政策への積極的な加担を論じることになったからである。生存者の証言からグロスが明らかにしたのは、ドイツ軍による占領の直後ではあったが、この虐殺を主導したのは占領軍ではなく、同じ町に住むポーランド人、すなわち「隣人たち」であったという事実であった。

その後の共同研究の結果、グロスの著作にはさまざまに一面的な部分があることがわかった。グロスが推測した犠牲者数1、500人に対して、400人という数字があげられ、また、事件の原因をポーランド人の反ユダヤ主義に帰して単純化した見方に対しては、イェドヴァブネ周辺地域の政治・文化や、ソ連占領下での地域社会の変化、独ソ戦開戦後の地域秩序の崩壊などを要因として考えなければならない、という意見が提出された。こうして事件を歴史的に理解する道が開かれだのは、全体として、専門家の間で、事件についての「隣人たち」の関与そのものについて、広くこれを認める見解が共有されていたからである。2004年7月、事件の60周年を記念する追悼式典で当時の大統領、アレクサンデル・クファシニェフスキは次のように述べている。

当時、60年前、1941年7月10日、この地で、当時、ヒトラー・ドイツに征服され、占領されていたこの地で、ユダヤ人に対する犯罪が行われました。それはおぞましい日でした。(中略)私たちは確かに知っています。犯罪者、実行者のなかにはポーランド人がいたことを。ここイェドヴァブネで、ポーランド共和国市民が、ほかの共和国市民の手にかかって死んだことは、疑いがありません。このような運命を、人々が人々に対して、隣人が隣人に対して、準備したのです。

60年前、ポーランドをヨーロッパの地図から消し去ろうとする者がいました。(中略)しかし、ポーランド共和国は、ポーランド人の心に生き続けるべきでした。そしてポーランド共和国市民は、文明国家の規範に従う義務がありましたし、そうであるべきでした。ポーランドは、数世紀にわたる寛容と、多様な諸民族、諸宗教の平和的共存の伝統のある国家なのです。人々を狩り集め、殴り、殺し、炎をつけた人々は、ユダヤ人という隣人に対する犯罪を行ったばかりではありません。彼らは、共和国に対して、その偉大な歴史と輝かしい伝統に対する犯罪を行ったのです。

ポーランドにおける絶滅政策については、まだまだ明らかにしなければならないことが多い。その研究は、社会主義時代から存在するユダヤ歴史研究所(かdowski Instytut Historyczny)や、2003年に設立されたユダヤ人絶滅研究センター(Centrum Badari nad Zaglada Zydow)などを中心に着実に進められている。重要なことは、ポーランド史、ポーランド社会の集合的記憶のなかに、絶滅政策の過去が、ポーランド社会の負の関与も含めて、有機的に組み込まれつつあるということであろう。上の演説にみるように、それは同時に失われたものへの関心、失われた多文化社会への志向と表裏一体に進んでいった。
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