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未唯がちょくちょく出没

一日千円の生活費

 1年ぶりにユニクロで衣料品を買った。減益の時は、季節ごとに似たようなモノを買い足していた。今は、クツにしてもズボンにしても変わり映えしないです。自分の思考を含めて、どんどん劣化しています。

未唯がちょくちょく出没

 7月出産予定の未唯が家にちょくちょく来ます。2,3日したら、帰って行きます。ふつうにテレビの前で寝そべったり、自分の部屋のベッドで寝て、朝、奥さんに起こされています。

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豊田市図書館の30冊

751『ハンドメイドのカフェ風食器』黒ペン1本ではじめる

010.22『図書館をめぐる日中の近代』有効と対立のはざまで ⇒ 「大連図書館」の設立が書かれている。大連を散歩しているときに見つけて、中をうかがったことがあります。

375.31『高校生の参加と共同による主権者教育』生徒会活動・部活動・地域活動でシティズンシップを

319.1『日本外交史ハンドブック』解説と資料

311『法の原理』ホッブズ 人間の本性と政治体

293.6『マドリード・バルセロナ』

337.2『貨幣の新世界史』ハムラビ法典からビットコインまで

366.05『データブック国際労働比較2016』

912.7『見る前に跳んだ』倉本聰 私の履歴書

311『政治学』

289.1『石原莞爾の世界戦略構想』

382.23『移動するカレン族の民族誌』フロンティアの終演

319.04『動員を探せ 中東発世界危機と日本の文壇』

209.71『第一次世界大戦史』風刺がとともにみる指導者たち

748『DOORS 世界のドアをめぐる旅』

302.27『パレスチナを知るための60章』

311『現代政治学の世界』

361.4『アドラー心理学 あなたが愛される5つの理由』

391.6『バルテック艦隊を捕捉セヨ』海軍情報部の日露戦争

366.29『働きかたNext 選びのはあなた』

331『マクロ経済学の視点』

435『空気のはなし』科学の眼で見る日常の疑問

490.7『本当にあった医学論文③』

482『東山絶滅動物園』

420『ビジュアル物理』力、熱、波。電磁気、原子・・・高校物理のエッセンスがイラストでわかる!

675『パリピ経済』パーティーピープルが市場を動かす

141.7『行動の基礎』豊かな人間理解のために

145.4『マインド・コントロール』

141.5『子どもは40000回質問する』あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力

121.52『国学の曼荼羅』宣長前後の神典解釈
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スターバックスの危機--イノベーター企業の悪夢

『ビッグバン・イノベーション』より

スターバックスは、危うく、みずからが起こしたイノベーションの犠牲になるところだった。

あちこちの街で見かけるこのコーヒーチェーン店は、驚異的な勢いで成長した。1987年にわずか17店だった店舗数は、1999年には2500店に達した。その後、店舗数は倍加し、2007年にはさらに倍加していた。

ところが、世界中で1万5000店を展開するまでになった頃、壁に突き当たる。1971年の創業から40年近くを経て初めて、1日の来店者数が減少に転じたのである。スターバックスは、出店したときと同じくらいの速いペースで、アメリカ国内の店を閉めはじめた。その年の末、株価は40%以上も下落する。

ハワード・シュルツは、自分が築きあげた企業を救うためにCEO職に復帰し、プレミアムな価格のコーヒーにふさわしい、プレミアムな体験を提供する店を取り戻す仕事に取りかかった。事業拡大に伴い、プレミアムな体験が失われてしまっていたのだ。

スターバックスが抱える問題の原因は、その破壊的な技術にあった--スターバックス自体が先駆者となり、擁護者となってきた技術である。1980年代、日常生活のなかでカフェラテを楽しむという習慣がアメリカの消費者のあいだで浸透するのに伴い、スターバックスは、リネアと呼ばれるイタリア製のエスプレッソマシンを全店に導入した。ハイテクで馬力のある、このコーヒーマシンは、6杯のエスプレッソを同時に滝れることができた(今でもシアトルの第1号店には、リネアが置いてある)。

リネアは〝職人向け〟のマシンだ。入念な訓練を積み、熱心に練習を積んだバリスタだけが使いこなせ、常に美味しいコーヒーを滝れることができる。ところが、新規出店のペースが速すぎて、高い技術を要求する職人技がネックとなり、客は待たされ、バリスタによってコーヒーの質に大きな差が出るようになってしまった。

そこで2000年、シュルツが最初にCEO職を退く前に、全店のリネアをセミオートマチック式のベリズモ801に替えた。この新しいエスプレッソマシンは、自動で豆を挽いてヲーヒーをプレスし、最先端のセンサーを駆使して、その日の温度や湿度、気圧などの微妙な変化に応じてコーヒーを抽出する。ペリズモを使えば、バリスタは最低限の訓練で、いつも同じ味のコーヒーを手早く提供できる。それがスターバックスの爆発的な成長を支えた。

だが、コーヒーマシンで滝れたエスプレッソが充分に美味しいとき、消費者はバリスタが滝れたコーヒーにわざわざ高い金額を支払いたいだろうか。スターバックスの売上げに刺激された、マクドナルドやダンキンドーナツなどのファストフードチェーンは、同様のマシンを導入してコーヒーを提供しはじめた。一部のレビュアーによれば、スターバックスに引けを取らない美味しさで、しかも値段はかなりお手頃だという。

2007年、マクドナルドは、店舗の一角で展開するマックカフェの事業を拡大する計画を発表する。そして全米1万4000店のほとんどに、エスプレッソマシンを導入した。マクドナルドが採用したのは、完全自動式のマシン。豆を挽くことはもちろん、挽いた粉を適量だけ抽出機に投入し、理想的な温度の湯を注ぎ、スチームミルクをつくってコーヒーに加える。この〝豆からカップまで〟のマシンを、次のように評した関係者もいる。「バリスタを雇う人件費をかけることなく、いろいろなコーヒーメニューを提供するバリスタの複製品」と。

対するスターバックスは、競合を真似ることで彼らを迎え撃った。ブレックファスト用のサンドイッチメニューの充実を図り、ドライブスルー店を増やしたのである。

だが、その戦略にシュルツが激怒した。朝食メニューの充実にはかねてから反対だったうえに、コーヒーの香りを台なしにする、店内に漂う焦げたチェダーチーズの匂いには我慢ならなかったのだ。「焦げたチーズのどこに魔法があったのか?」

シュルツは重役会メンバーを痛烈に批判するメモを書いたー店はJマンスとドラマ〃を浪費し、会社は〝その魂を失って〟しまった。これまでスターバックスが下してきた意思決定の多くが、事業を拡大するためだったことは、自分も承知している。だが、(イエンドなコーヒーというアイデアを軽卒にもコモディティ化し、同じ技術を用いた競合につけ入る隙を与えて、我が社の価値を傷つけてしまった--。こう書いたシュルツのメモが社外にリークされると、重役会は白旗を揚げ、シュルツにCEOへの復帰を要請した。

こうしてシュルツは、イノベーションを推し進めた。彼が掲げた7つの目標のなかには、全米600店舗の閉店や、13万5000人の従業員の再教育も含まれた。店内のレイアウトにもバリエーションをもたせ、〝近所の店の居心地のいいぬくもり〟を演出した。事業規模は縮小した。

とりわけ重大な改革は、シュルツがベリズモの使用を廃止して、近代的なデザインのコーヒーマシンを採用したことだろう。メタリック仕上げの新しいマシンには、上部に透明の〝大きな空飛ぶ円盤〟がついていて、なかに入れたプレミアムな豆を顧客もじかに見ることができた。新しいマシンは全自動ではないため、バリスタは豆の挽き方や湯を注ぐタイミングをうまくコントロールし、スチームミルクもこしらえなければならない。今回のマシンは、ペリズモよりも18センチほど背が低いため、顧客はまた以前のように、注文したコーヒーができあがる様子をカウンター越しに眺めたり、バリスタに話しかけたりできるようになった。

シュルツの改革は、みずから築いた帝国を救った。スターバックスはプレミアムなブランドを取り戻し、コーヒーだけでなく、店内での体験やバリスタの優れた技術を提供し、力強いイノベーションに挑むイメージも打ち出した。シュルツがCEOに復帰した2008年以降、店舗数は横ばいだが、売上げは危機の前と同じようなペースで伸びている。
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世界史 イスラムの変容(一〇〇〇一一五〇〇年)

『世界史Ⅰ』より

イスラムの変容(一〇〇〇一一五〇〇年)

 南西アジアの経済的発展の障害となったのは、中国やヨーロッパと比較できるほどの航行可能な水路が内陸部に存在しなかったことだ。ラクダを使ったキャラバンでは比較的小さな荷物しか運ぶことができなかった。まず中国で、続いてヨーロッパで商業を支えたのは一般の人々が消費するかさの高い商品だったが、南西アジアではそれを長い距離にわたって輸送できなかったのだ。このような制約のためイスラムの船や商人は、航海術を同じように改良し、イスラム教をアフリカや南東アジアの新しい地域に伝え続けてはいても、中国がしたように南西アジアの地域社会を変容させることはできなかった。さらに、南西アジアの半乾燥地帯の中心部全域で農業に大きなダメージを与えたものとして、牧草地の拡大という要因は確実にあったし、おそらく気候変動も影響を及ぼしたのだろう。また、十四世紀に流行した黒死病も大きな被害をもたらした。

 一方でイスラム諸国は、キャラバンによる交易を補助する方法を独自に編み出していた。イスラム教徒は信仰上の功徳を施すために、各地を巡回する商人やラクダの食糧として、たいてい最大三日分の農産物を隊商宿(キャラバンサライ)に寄付することが認められていた。このような寄付は税金を免除されており、農村部をキャラバンが通過する際、夜間に作物をラクダに荒らされる心配がなくなるというメリットもあった。もちろん草原や砂漠では、ラクダは翌日の行程に備えて野生の植物から栄養を摂っていた。要するに隊商宿への寄進は、農民の定住地域でも無料でラクダに餌を与えられるということを意味した。したがって、適切な寄進を受けた隊商宿が点在している場所なら、キャラバンで商品を運ぶ直接の費用はかなり軽減された。

 ただし、これによってラクダがもっと重い荷を運べるようになったわけではない。そのため、南西アジアの地域間を結ぶキャラバンにとっては、依然として高価な贅沢品が重要な品目だった。地代や物納する税に苦しみ、遊牧民の襲撃にもしばしば脅かされた小農民は、辛うじて近くの都市の市場に参加できるだけだった。ナイル川を除いて、イスラムの土地にある河川はほとんど航行に適さなかった。要するにキャラバンの陸路輸送能力が限られていたため、イスラム世界のほとんどの農村地帯では、中国やヨーロッパの一部が一〇〇〇年以降に内陸の水路を利用して成し遂げたような商業化は達成できなかった。

 インド洋沿岸をたどるイスラムの海上貿易にはこうした制約がなかった。海岸部のいくつかの地域では、完全に商業化された農業と職人による製造業が遠方の市場を当て込んでますます盛んになっていった。だが、インドやアフリカの内陸部となると、輸送費と安全を守るためのコストが相変わらず高くついて、商業はなかなか浸透しなかった。ガンジス川のような有望な水路に沿った地域でさえ、中国の巨大な河川の流域で起きたような、小農民の暮らしの大きな変化が生じることはなかった。

 インドでもイスラム世界全体でも、このような状況を生むのに大きく関わったのは戦争と政治だった。遊牧民と、かつて遊牧民だった人々の侵略に激しくさらされた農業は大きなダメージを受け、一〇〇〇年から一三五〇年にかけてィスラム世界の農村地帯のほとんどは経済が停滞した。遊牧民は濯漑の整った農地よりも草地を好んだため、乾燥地帯の濯漑システムはとりわけ襲撃の的になった。さらに、神との神秘的な出会いを目的とする集会がイスラム世界全般に普及して、こうした宗教的な潮流も人々の注意を物質的なものからそらすことに寄与した。このような傾向によって、イスラムは以前よりも感情面で豊かになったが、神を身近に感じ世俗の事物を軽蔑する神秘主義者は、日々の生活における型にはまった保守性を強化する役割を果たした。

 一〇〇〇年から一五〇〇年までの重要な政治的出来事は、イスラム中核地域へのトルコ人の進出が加速したことだった。それと並行してペルシャ時代の文化意識とアイデンティティが復興し、この二つが混合して生じたのが、いずれもトルコ=ペルシャ的なスタイルの、宮廷文化、政府、戦争だった。やがて、イスラムの征服者たちはインドのほぼ全域にこれを強いるようになった。北アフリカでは、内陸の砂漠に住んでいたベルベル人がトルコの勢力拡大にも匹敵する動きを示し、ベルベル人の兵士は地中海沿岸地方や南スペインで宗教改革運動を立て続けに引き起こす力になった。だがトルコ人やペルシャ人と違って、ベルベル人の征服者は独自の文学を生み出すことはなく、聖なるアラビア語を使用するのを好んだ。

 トルコの膨張は騎兵を使った戦闘に熟達したことに起因する。成熟した形態のトルコの軍隊は、ステップ地帯の射手という古いスタイルと、パルティア人が発明した重騎兵を組み合わせたものだった。疾走するウマにまたがったままかなりの面確さで弓を射る、鎧をつけない射手の大部隊に加え、敵の歩兵の隊形を一気に突き崩す、鎧を身につけて大型のウマに乗った少数の騎兵がいるという組み合わせは恐るべき破壊力を発揮した。

 モンゴル人は圧倒的な力で一二四五年からコー五八年の時期に南西アジアの大部分を征服したが、トルコの進出はこの時期を挟んで二回あった。セルジュク族は一〇三七年以降、ステップ地帯から家畜の群れを連れてイスラムの中核地帯に進攻した。辺境の濯漑されていない土地では(イラン、シリア、メソポタミア、アナトリアにはこのような土地がたくさんあった)、こうした部族民の侵入により、定住型の農業は駆逐される傾向があった。その理由の一部は、気候の変動によって農耕よりも牧畜の方が生計を立てる手段として確実になったということだろう。セルジュク・トルコはイスラム教スンニー派で、バクダッドのアッバース朝のカリフや都市のエリート層から歓迎された。彼らはイスラム教シーア派から深刻な挑戦を受けていたからだ。シーア派のうち最大の脅威となっていたのはエジプトのファティマ朝で、最も急進的だったのはイラン東部を拠点とする(一〇九〇-一二五六)、いわゆる暗殺教団だった。

 ある意味でセルジュク・トルコの流入は、イスラムに最初のポ事的勝利をもたらした、遊牧民の戦士と都市住民の同盟関係を回復させる役割を果たした。以前と違っていたのは、イスラム初期の栄光の時代に支配権を握ったのがメッカの都市エリート層だったのに対し、十一世紀に政治権力をしっかり握ったのはセルジュク・トルコの戦士だったことだ。だがステップ地帯を出るはるか前から、セルジュク族は商人の流儀を尊重して利益を得るようになっていた。そのため彼らは、都市のエリート層が自分たちの問題を管理することをかなりゆるやかに許容していた。その見返りとして、彼らはイスラム聖法における政治的正当性をバクダッドのアッバース朝のカリフに認めさせるようスンニー派の学者たちに要求した。

 セルジュク族は一〇七一年にビザンティンの国境を突破し、アナトリアの大半の地域を素早く占領した。するとギリシャ語を話すキリスト教徒の農民たちは相次いでイスラム教に改宗し、トルコ語を話す住民がこの地域の主流を占めるようになった。ところがエーゲ海からアラル海にまで達する広範な地域に及んだセルジュク・トルコの領土では、中央政府などと呼べそうな統治機構を維持するのはとうてい不可能だった。そのため、セルジュク・トルコの最後の偉大な指導者が死亡した一〇九一年以降、対立する勢力闘で地域的な紛争が相次ぐことになった。
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世界史 ギリシャとローマの文明

『世界史Ⅰ』より

日常的な取引が貨幣を通じて行なわれるようになったことで、分業による生産が容易になり、ギリシャの技術、富、知識は急速に進歩した。しかし市民たちはそれから約三世紀にわたって、祖先から受け継いだ社会的連帯と個人の自由をことのほか重視し続けた。フエニキア人、エトルリア人、アッシリア人も同じように、鉄器時代の侵入者だった祖先から受け継いだ伝統に基づいて都市や国家を築いた。旧約聖書に出てくる預言者たちはイスラエルの王に義と公正を要求し--それが聞き入れられることはほとんどなかったがI同じように平等主義的な伝統に立ち返ろうとした。だがギリシャ人は、職業や生活様式がますます細分化したにもかかわらず、それぞれのポリスにおいて市民の間で生き生きした共通の感覚を維持することに、同時代の他民族よりもずっと成功した。

言うなればギリシャ人は、部族的、村落的な連帯感と都市文明の技術や富の、両方の利点をうまく組み合わせたのだった。この仕組みがうまく機能したのは二、三〇〇年の間だけで、やがては--他の文明化した民族がはるか以前に経験したのと同じように--ギリシャの社会も上流と下流に階層が分かれてしまった。それでも、社会が展望と行動を共有していた間にギリシャ文明が達成した表現の形式は、外国の人々に強烈な印象を与えた。そのため数世紀の間(特に、ギリシャのポリスが紀元前三三八年にマケドニアの征服者に破れ、独立性を失った後は)、ヨーロッパ、西アジア、北アフリカの多様なエリートたちにとってギリシャの生活様式は非常に魅惑的に映った。

古典古代(前五一〇-前三三八)を通じて、ファランクスによる戦闘は市民意識を涵養する主要な場であり続けた。いくつかの都市が海上交易を守るために海軍も組織したとき、地上戦に必要な装備を用意できない貧しい市民に新しい役割が生まれた。ガレー船の擢を漕ぐのに必要なのは、強靫な背中とソズム感覚だけだった。したがって、ファランクスを構成する土地所有者の市民たちが、土地を持だない住民と協力してポリスの防衛に携わるようになると、古典時代のアテナイの民主主義はさらに実際的で公正な、欠くことのできないものとなった。

ポリス社会にとって決定的な試練が訪れたのは、紀元前四八〇年にペルシャ帝国の軍隊が、フェニキアや小アジアから徴用した船や船員の力を得てギリシャを侵略したときだった。大方の予想に反して、ギリシャの二〇ほどの都市からなる鉄壁とは言えない連合軍が、サラミスの戦いでペルシャ軍を打ち破った。そして翌年、プラタイアイにおける陸上での戦いでもギリシャ側がペルシャ軍に勝利した。驚嘆すべき勝利に対する熱狂の中で、民主アテナイの市民たちはギリシャ文明の到達した高みを不朽の作品に表現した。政治活動や美術もその一部だったが、その後何世紀にもわたって古典として受け継がれたのは、何よりもまず文学作品だった。

ホメロスの英雄詩は紀元前七〇〇年頃、フェニキアからギリシャにアルファペット文字が伝わった直後に書かれた。この業績に刺激されて、その後ギリシャでは文学が栄えた。ポリスが拠り所としたのは常に正義の追求だったが、名誉、真実、美の追求もそれに劣らず重要だったからだ。そうした強い思いから、詩、演劇、歴史、哲学といった分野で信じられないほど多くの作品が次々と生まれ、後代のギリシャやローマの市民に善なる生き方を示す指針となった。

ポリスの市民が言葉で記された法に従って人生を秩序づけているのなら、自然界も言葉で表現できる法則に従っているのかもしれない--そう考える大胆な思想家たちが登場して、医学や自然科学も同時に新しい方向に進み始めた。こうした大胆な推測から、闇に差し込む光のように、たとえば物質は原子でできているといった、後の時代に大きな意味を持つようになる多くの考えが生まれた。科学者や哲学者は、ホメロスやヘシオドスなどの詩に登場する神々についての互いに相容れない混乱した物語には目もくれず、自分たちの言葉による推論の力を信じた。

こうした展開が可能だったのは、祖先から伝えられた神々に関する雑多な考えに意味を与えようとする、権威ある神官が不在だったためだ。宗教的な儀式を執り行なうポリスの行政長官たちは、教義の一貫性よりも儀式の壮大さや華々しさを重視した。その結果、天空および地上の現象と、人間の行動に対する鋭い観察以外の何ものにも縛られない、推論による思考が解き放たれるに至った。数世紀にわたって一部の哲学者たちは、言語や数学による推論を人間の行動や自然現象に自由に適用した。それがきわめて巧みだったことから、後代の哲学者たちは今日に至るまで彼らの著作を研究し続けている。やがてギリシャの哲学や科学思想は対立し合うさまざまな学派によって整理され、上流階級の人々の生活に役立つ指針となった。プラトン(前三四七没)の提出した真摯な問いかけを経て、アリストテレス(前三二二没)が先人たちの論じたほぼすべての問題に論理的で妥当だと思われる答えを提出すると、初期の知的探求における対立も次第に収まっていった。

アリストテレスが活躍したのは、紀元前三三八年にマケドニアがギリシャを征服し、ギリシャの都市の政治的、軍事的な独立に終止符が打たれたのと同時期だった。その後、芸術、文学、思想を開花させたギリシャの社会体制は次第に衰えたが、それでも--特に科学の分野における--貴族の後ろ盾によって、医学、天文学、地理学では新しい重要な考えがなおも生まれ続けた。

ポリス社会に笏りが生じて古典の時代が終わりを迎えるはるか前から、ポリスの理想が内包する深刻な矛盾が明らかになっていた。あるポリスが熱心に自分たちの栄光を追求することは、ともすれば他のポリスの自律性を損なうことになった。これはギリシャ人の心に深く根ざした正義の概念と衝突するものだった。まずアテナイ、続いてスパルタが試みた帝国の建設は、他の都市国家が同盟を結んで対抗したため、どちらも失敗に終わった。その後テーバイが覇権を求めたが、マケドニアの征服者たち--フィリッポス王(前三三八にテーバイを撃破)と、その息子アレクサンドロス(在位は前三二六-前三二三)--によって頓挫した。政治的自立が失われた結果、ポリスの生活は大いに揺らいだが、ギリシャ文明の影が薄くなることはなかった。むしろマケドニアのアレクサンドロスがペルシャ帝国を征服した紀元前三三四-前三三一年の間に、南西アジアやエジプトの古くからの中心地は急にギリシャ文明の強い影響を受けるようになった。というのも、アレクサンドロスの帝国を分け合ったマケドニアの将軍たちは、自らの王国を運営するために何千人ものギリシャ人の手を借りたからだ。

アレクサンドロス大王の帝国は、ギリシャ文化の表面的な部分--スポーツ、演劇、ワインを飲むことなど--だけでなく、不朽の芸術様式や科学、哲学思想を遠くインドまで広く伝えた。さらに重要なのは、主としてペルシャの王族が貯め込んでいた財物からアレクサンドロスの後継者たちが貨幣を作り、ギリシャの都市型の市場を南西アジアとエジプトに根付かせたことだった。
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パレスチナ オリーブと生きる

『パレスチナを知るための60章』より オリーブと生きる★土地とのつながり、人々の暮らしの象徴★ ⇒ ソホクリスのレバノン・ワイナリーの発展の鍵を握るのはパレスチナかもしれない

青い空、オリーブの樹々の緑の葉、宝石のようなオリーブの黒い実、肥沃で黒い土。休日、家族揃っての収穫では、お昼には樹の下でお弁当を広げる。素晴らしく美しい初冬の風景である。

2000年10月、アル・アクサー・インティファーダ(第二次インティファーダ)が始まった直後、ガリラヤ地方でのオリーブ収穫に参加したときにも、同じ風景があった。しかし、ふと見上げれば、丘の上の町からユダヤ系イスラエル人が双眼鏡でこちらを監視していた。パレスチナ人にとって特別なシンボルであり、実際にも生活に密着しているオリーブは、パレスチナの状況を映し出している。

パレスチナ地域におけるオリーブの歴史は古い。ジェリコからは1万年前のオリーブの種子や8000年前のオリーブオイルの容器が出土している。ペリシテ人の町エクロンからはオリーブ圧搾機などが発見されており、3000年前、ベリシテ人は広大なオリーブ林を持ち、オリーブオイルを交易品として出荷していたと考えられている。古代から民族・文化が混じりあい一貫しているわけではないが、オリーブオイルは、古くから、食用、薬用、美容、儀式、ランプの燃料などさまざまな用途に使われてきた(若ぃ緑色のオリーブの実を塩漬けに、油分の多い熟した黒いオリーブの実をオリーブオイルにすることが多い)。

また、オリーブオイルの二番搾り(搾りかすをもう一度搾る)からオリーブ石けんを作ってきた。500年前のイブン・バットゥータの旅行記にはナーブルスのオリーブ石けんに関する記述がある。ナーブルスの石けんは何百年も前から近隣諸国にも輸出されてきた特産品である(現在は、遠心分離機などを使うので油分はたぃして残らない。石けん用の質の低い輸入オリーブオイルから作ることが多いが、地元の食用オリーブオイルを使った高品質のオリーブ石けんを製造している工場もある)。

オリーブの木細工は、ベツレヘムの特産品である。木皿などもあるが、クリスマスの馬小屋や、十字架、イエス・キリストの像など、宗教的なものが多い。

オリーブの搾りかすや葉は燃料、畑の肥料、羊のえさなどに使われ、無駄がない。

もともと生活に根ざしていたオリーブだが、イスラエルの建国、占領に伴い、オリーブはさらに、土地とのつながりの象徴、抵抗の象徴の意味を強めていく。

村に住むパレスチナ人は、たいてい、先祖代々のオリーブの木を所有している。村の郊外にオリーブ林が広がっていて、その一部が自分たちの家族のものだ。何の区切りもないが間違えることはないそうだ。他の相続と同様に、オリーブの樹(その土地)は子どもたちに等しく分割相続されるが女性は相続を放棄し兄弟に譲ることが多い。また、オリーブの木を数多く所有するが人手がないというときには、畑を貸して収穫したオリーブを折半するという(収穫だけ手伝ってもらい、オリーブの実で支払う、ということもある)。シェアクロッパーの仕組みはオスマン帝国時代にもあった。

また、いまはなくなったようだが、以前は、学校にオリーブ収穫休みがあったという。日本にも、昔は田植えや稲刈りのための休暇があったのと似ている。現在は、平日はおじいさん、おばあさんが収穫し、休日には家族総出で収穫する、というパターンだ。若者たちには面倒くさいお手伝いという面もある。そもそも、オリーブ収穫は見ている分には美しいが、実際にたくさんの小さな実を穫っていくのは意外に重労働で、朝はみんなでおしゃべりしながら収穫していても、夕方には無口になっていく。

なお、この場合、収穫したオリーブの実を数日分まとめて圧搾工場に持っていくことになり、オリーブが酸化してしまう。高品質なオリーブオイルを生産し出荷する農家は、オリーブ収穫後、24時間以内に工場に運んで圧搾する。しかし、土地と水が奪われている現状では、農業だけで食べていくことは困難だ。

イスラエルに故郷を追い出された人々とその子ども・孫たちは、オリーブの木を所有していない。しかし、故郷にあった美しいオリーブ林の話は、イチジク、レモンなどとともに、受け継がれている。

そして、パレスチナ人のオリーブ林は、イスラエル建国前後から、絶え間なく、破壊され続けている。「セキュリティのため」という名目で、ユダヤ人の町・入植地の建設地とその周辺、分離壁や入植者用道路の建設地のオリーブ林が伐採され、土地が没収されていく。また、入植者の嫌がらせで、オリーブの樹々が抜かれたり、オリーブ林が焼かれる事件も頻発している。オリーブ林で収穫しているパレスチナ人を入植者が襲う事件も何年も前から続いている。破壊されたオリーブの木は、アル・アクサー・インティファーダ以降だけで100万本といわれる。

破壊された自分のオリーブ林の前に立つ人の写真はよく見られるが、どの写真でも、人々はとても悲しい苦悩した表情をしている。経済的な打撃だけでなく、先祖代々受け継いできた大事なオリーブの木を守れなかった、という深い精神的な打撃を受けるのである。だからこそ、イスラエル軍、入植者はオリーブ林を意図的に破壊しているという側面もある。

伐採されたらまた植える。地元の団体だけでなく、YWCAなど国際組織の支援による植樹キャンペーンも行われている。入植者の嫌がらせを防ぐため、イスラエル人や外国人ボランティア・活動家が収穫に参加している。また、殺害や逮捕により男性の人手が足りなくなった第一次インティファーダ時には援農で収穫の手伝いがあったという。その流れを受けてなのか、ビールゼイト大学では、オリーブ収穫の手伝いがボランティア単位になっていた。筆者自身、留学中に母子家庭のオリーブ収穫に他の学生たちとともに参加した経験がある。

そして、人々は詩や歌、絵画にオリーブを描いていく。それらは、美しく、誇らしく、悲しみも背負いながら、パレスチナにあり続けることの象徴だ。一例を挙げれば、詩人でありナザレ市長でもあったタウフィーク・ザイヤードは「逮捕状が出て家宅捜査の危険もあるから、中庭のオリーブの樹にすべての苦難と秘密を刻もう」という内容の詩を書いた(「オリーブの幹の上に」)。

町や村のマーク、大学の紋章などにオリーブの樹が使われていることもある。オリーブの木をかたどったペンダントトップのネックレスもよく見かけるが、プラスチック製の安価な子ども用のものもシルバー製など大人向けのものもある。これは、パレスチナの旗、地図、ハンダラ君(ナージー・アル・アリーの風刺画のキャラクタ-)、カギ(奪われた故郷の家の象徴)などを組み合わせたキーホルダーなどの「パレスチナ・グッズ」と一緒に売られていることが多い。

いま、世界のオリーブオイル需要が増える中、美味しい高品質なオリーブオイルを生産し、フェアトレードで海外に輸出する動きも広がっている。パレスチナ農家の置かれた厳しい条件の中で、付加価値の高い農業をしていかないと立ち行かなくなるという農家の危機感、瓶詰め・出荷などで仕事を作り出すこと、オリーブオイルをてこに地域を活性化する試みなどが重なりあった活動である。筆者自身、15年以上パレスチナとのフェアトレードにかかわる中で、世界に誇れるいいモノを輸出し、世界の人たちとつながることは、パレスチナの人々を本当に元気にする、と感じる。そして、パレスチナは本来、作物も文化も豊かな地域であることがオリーブオイルを通じて世界の人々に伝えられる。いまや、オリーブは、パレスチナと世界の人々をつなぐ存在でもあるのだ。
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