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図書館協議会を傍聴

本棚システムという本

 本棚という前に、これって、3千冊からなる一冊の本じゃないのかな。何しろ、本の領域を突破している。未だかって、こんな本はなかったのは確かです。配置から成り立っています。

 紙ではとてもじゃないけど、ネットなら扱えます。これから、各自の言いたいことを構築すればいい。それは自由です。その一つのモデルケースが未唯空間です。

CO(コミュニティ・オーガナイゼーション)は近傍系システム

 CO(コミュニティ・オーガナイゼーション)は近傍系システム。基本的概念を具体的にできる。これも本棚のタテ表現です。それぞれを具体化して、それらを統合していく。COを提唱しているのは、蒲田。

 分化と統合はハイデッガーともつながります。

図書館協議会を傍聴

 豊田市図書館の図書館協議会の傍聴席にいます。今日のテーマは指定管理者制度導入。それ故化、30人ぐらいの傍聴席は一杯です。隣の女性は大きなバックを持ってきています。どうも指定管理者の会社の人間が泊まりがけで条件を確認に来ている様子です。

 2007年のリーマンショック後を含めて、2回、協議会委員を務めたが、膨張されたことはありません。何か異様です。

 資料は持ち帰ってはいけないと言うことで、一切、資料を見ないことにした。見なくても私は理解できます。1万冊時点で、会社の会議などで資料を見なくても会議ができるようになった。これも多読の成果です。本のDNAを抽出する習慣から、会議でもポイントアウトができるようになった。

指定管理者の意味

 豊田市図書館16年間、変わらなかった、変えられなかった。ハッキリ言って、知恵がない、やる気もない。指定管理者だろうとなんだろうと、変わることに意味がある。

 そのために、司書を多くする、開館時間を拡げるために指定管理者にすると言うことや恣意。イイが関係は恣意的ですね。まあ、市での能力の限界を正直に認めればいいのに。

 元々、新刊書購入額は1億3千万円から始まって、2007年のリーマンショックで7千万になって、今はたぶん、5千万円ぐらいでしょう。これ以上は下がらないでしょう。下げられないでしょう。

図書館の先行き

 それにしても、図書館の先行きの姿が見えていません。メディアも変わるし、クラウドの世界でネットワークも変わっていく。そして、市民も変わっていく。

 そこで、図書館は何をするのか。一番はアウトリーチです。中に入っていてはダメでしょう。市に職員では発想できない。指定管理者よりも図書館長がキーマンになります。もっと、市民自体が変わってくるような要素を創らないと先行きはないでしょう。

図書館協議会の中身

 それにしても、傍聴者が多いこと。男性は資料回収にだけ拘っている。大きな声を出すところが間違っている。自分がそこで考えたこと、感じたことを残すだけです。それを発信すればいいだけです。

 協議自体自身はループしているだけです。おきまりの文句で終わります。それで2時間ですか。人気はあと一年あると言うから、来年、チャレンジしようか。だけど、年数回の協議会では何も変わらない。分科会を創って、集中的に市民を巻き込まないと事態は変わらない。

 それよりも、図書館をどう持って行くのか、というよりも、情報発信をどう持って行くのか、市民との関係をどうしていくのか全然わからない。彼らはノーアイデアですね。

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政治体の必要性とその定義について

ホッブズ 『法の原理』より 政治体の必要性とその定義について

一 人間は相互にその安全が確保されるまでは、〔自然の諸〕法が存在していてもなお戦争状態にあるということ  二 戦時下にある自然法は、名誉以外になんの力も持っていないということ  三 多数者が一致してまとまらなければ安全は確保されないということ  四 多数者を一致させるには、かれらすべてが畏怖するような権力がなければ維持しえないということ  五 人間ではなく理性を欠く動物たちのあいだでも一致して集合している理由  六 一致を保持するためには連合が必要であるということ  七 連合体が作られる方法  八 政治体の定義  九 団体の定義  一〇 主権者と臣民の定義  一一 二種類の政治体、家父長制とコモンウェルス

一 第一二章第六節〔原文の一六節は誤り〕において、人びとは、その行動から受け取る報酬や処罰にかんする考えによって、「かれらの」意志をこれらの行動に向かわせまた決定させていることを示してきました。したがいまして、すべての人間が平等かつ自分自身の裁判官であることが許されている状態にあっては、各人が相互に有する〔他人への〕恐怖心は平等であり、各人は、自分自身の手腕と力量に〔安全への〕希望を託しております。そこで、だれかが自然的情念によって、自然法を侵害しようと駆り立てられたばあいには、その他の人はだれであろうと、そのことを予想して先手を打つ以外に自分自身を防衛する手段はないのであります。このような理由から、自分自身の眼から見て善と思われることをなす各人の権利を、(人は平和への志向を持っていながらも)自身の保存にとって欠くことのできない手段として、かれの手もとに保有し続けるのです。したがいまして、お互いが自然法を守るという保証が人びとのあいだでできるまでは、人びとは依然として戦争状態にありますから、自分自身の安全と便益のためになることをなすのはなんら不法なことではありません。そして、こうした安全と便益は相互に援助し合うことにありますが、それによってまたお互いに〔相手に〕恐怖心を抱くことにもなるのです。

二 武器のなかにては法は沈黙する、ということわざ風のいい方があります〔キケロー「友人ミローヘ」四の一〇〕。〔戦時下にあっても〕各人が生きていること、また各人が幸福であることが、行動の原則であります。戦時下では、人びとは、相互に法を遵守すべきであるとはほとんどいわれません。しかし、戦時においても自然法は、現在の残酷な感情を満足させてはいけないと命じます。そんなことをしても将来なんの益にもならないということが、良心においては生きているからです。残酷な情念は戦争をする精神のあり方であって、好戦欲を示すものであり、自然法に反するからであります。わたくしたちの知るところでは、古代においては、略奪は生命のやり取りでありましたが、にもかかわらず、略奪する人びとの多くは、かれらが侵略した人びとの生命を奪うようなことはなく、その人びとの生命を保存するために必要なものは残していたのであります。たとえば、すべての家畜や資産は持ち去りましたが、牛や耕作道具のようなものは取り去りませんでした。略奪でもしなければ生命を維持することが保障されないようなばあい、略奪そのものは自然法の許すところでした。しかし、同じ自然法も残虐な行為は禁じました。なぜならば、恐怖以外のなにものも人の生命を奪うことを正当化しえないからであります。そして、恐怖〔を人に与えること〕は、自分自身の弱さの意識を暴露する不名誉な行動以外のなにものでもありませんから。勇気や雅量という情念においてすぐれた人物は、残虐な行為を差しひかえていたのであります。その限りでは、戦争において、それに違反することが法を侵害するようなことはありませんが、その違反が不名誉であるような法は存在したのであります。したがいまして、ひとことでいえば、戦争における行動の唯一の法は名誉〔を守ること〕であり、戦争をする権利は慎慮である、ということであります。

三 そして、平和を確保するには相互間で恐怖心を持つことが必要であり、防衛のためには相互援助が必要であるならば、わたくしたちは、人びとがお互いにたいして容易に企てることができないほどの防衛と相互間での〔攻撃への〕恐怖心を惹き起すためには、どれほど大きな援助が必要かを考察すべきであります。まず第一に、二、三の人びとが相互に援助し合うだけでは、ほとんどなんの〔平和の〕保障にもならないことは明らかであります。事実、他方の側がひとりかふたり優位であれば攻撃を仕掛けるに十分な勇気を与えることになるからであります。したがいまして、人びとがお互いに支援を受けて十分な保障をえるには、その数は、敵が持ちうるわずかな数的な差を確実で実際的な優位にしないだけの大きさでなければなりません。

四 また相互防衛のためにいかに多くの人びとが集合したとしても、かれらすべてがその行動を同一目的に向けていなければ効果はありません。こうした同一目的への方向づけこそが、第一二章第七節で同意と呼ばれたものであります。かなり多くの数の人びとが結ぶ同意(もしくは一致)--現に起っている侵略への恐怖とか、現に征服し、そこでの戦利品をえる希望が存続する限り続く行為による--があっても、名誉を求めお互いに優越しようとする本性と、相手の大多数の人びとの多様な判断と情念によって、相互の人びとのあいだになんらか共通の恐怖心が生まれなければ、敵にたいして相互に助け合おうという同意からだけでは、かれら自身のあいだに平和状態を持続することは不可能であります。

五 しかし、これとは反対のばあいがあります。それは非理性的であるにもかかわらず、平和と利益とを防衛するためこれ以上のことは考えられないほどに、共通の利益のためによい秩序と統治のもとで継続的に生活していて、みずからのあいだで騒乱や戦争を免れているある生き物たちについての経験をあげることができます。その経験とは、蜜蜂のような小さな動物にみられるもので、したがいまして蜜蜂は政治的動物のひとつに数えることができます。では、一致することが利益になることを予見できる人間が、なぜ〔小さな〕動物たちと同じように、強制されなくとも継続的に一致することができないのか。それには、次のように答えることができましょう。すなわち、〔まず〕他の動物たちのあいだにおいては、人間のあいだにおけるようには、かれら自身の種の優越を求める問題も、名誉や相互の知恵〔の優越〕を認め合うことをめぐっての争い--そこから、相互のあいだに嫉妬や憎悪、騒乱や戦争が生じます--もありません。第二に、これらの動物たちは、それぞれが、自分たちすべてに共通する平和と食物の確保を求めます。しかし人間は--あらゆる人に顕著にみられますが--、争いの火種となる〔人を〕支配したり、〔人に〕優越しようとしたり、私的富を求めたりするのであります。第三に、これらの動物は理性を持ちませんので、統治にかんする欠陥を見つけたしたり、見つけだしたと考えたりするのに十分な学習をしていないので、その統治に満足しているのであります。しかし、人間の多くは、自分自身が他の人びとよりも賢明であると考え、誤っていればそれを変えようとする者がつねに存在し、それぞれの人が異なった方向に変えようとして戦いを起すのであります。第四に、それらの動物は言葉を持たず、お互いをそそのかして徒党を作ることができません。
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Facebook、Twitter、Wikipedia

『拝啓 市長さま、こんな図書館をつくりましょう』より 共有財産としての図書館

2011年にエジプト、チュニジア、アラブ諸国で起きた反政府デモは、『フォーカス』誌の表紙を飾りネットマニアを活気づけた。「人間の大群」という表題のもと、「無数の人がウェブ上でつながり、超-個人を生み出す。音速で思考しコミュニケーションを図る集団は、総理大臣であろうとたった今解雇された労働者であろうと同時に到達でき、世界各地で起きていることを人々にライブで見せて説得する」と主張している。

なにもこれは新しい発想ではない。1880年、大衆誌『サイエンティフィック・アメリカン』には、「あちらこちらに散らばる文明共同体の一人一人が、電話通信により四肢に通う神経組織のように結びつく時代がすぐそこまで来ている」と書かれている。その80年後、マクルーハンは「今日、私たちは中枢神経を地球規模のクモの巣のように拡張し、この地球上から空間も時間も廃止させた」と書いた{。

テクノロジー賛美者のもう一人の代表者、ジュゼッペ・グラニエーリは「2011年のデジタル世界は2006年の10倍以上になると見込まれる。(・・・)ネットワークにはさらなる人が関わり、つながり、環境はさらに強力なインターフェイスと装置(おそらくより感覚的な)で整備されることだろう。さまざまな学問の研究が示すように、(…)私たちは今後、これまでの均衡が変質し追求されるのを目撃するだろう。そしてそれは政治から経済、製品としての文化、共有価値としての文化まで、あらゆる分野で起こるだろう」。すでに2011年は過ぎた。しかし世界は2006年と大きく変わったようには思われない。ただし、2007年からの経済危機を引き金とした何百万という人々の生活・労働条件の明らかな悪化を除いては。社会構造、習慣、権力関係を度外視するテクノロジーの楽観主義は、結局のところ例外なく事実によって反証されるのである。

『フォーカス』の記者は「どのように」集団が集い、「いつ」こうした集団が力を発揮するかについて問題提起をしていない。残念なことに、ショートメッセージがデモの呼びかけに有効だとしても、そのデモの目的が正当かどうか、正しい時に行われるかどうか、効果をもたらすかどうかを保証するものは何もない。「それでこの先どうなるのだろうか?」とジグムント・バウマンは問う。

「エジプト人やチュニジア人は、未来について考えはあるのだろうか?」と。TwitterやFacebookは、リビアのカダフィ政権を倒すのに半年間のNATO軍による爆撃を必要とし、エジプト・タハリール広場の「人間の大群」は、旧政権組織の抵抗により阻まれ、真の民主化に向かうのに苦労している。複雑な議論には、共有された政治文化から形成される公共圏が必要とされ、その公共圏は機能するものでなければならないだろう。自由平等の概念をWikipediaで学ぶことはできない。政治思想の古典を理解し、適切な方法で表明し意見交換することで、はじめて歩みを進めることができるのである。

Linuxの無料オペレーションシステムとともに、10年間でWikipediaは人々の協力という他に例を見ない可能性を示し、クリス・アンダーソンがマスのボランティアと趣味が交錯するすばらしい現象と定義するものの象徴となった。「私たちは新時代の幕開けに立っている。それはあらゆる分野の生産者の大部分に賃金が支払われない時代である。生産者とその脇役の主な違いは、仕事に対する野心を拡張するために投入できる資金の差(これも縮まりつつある)である。生産するのに必要な道具をどんな人でも使えるようになった時、すべての人間が生産者になる」

しかしながら、生産者の大部分に賃金が支払われない「新時代」は、近年どうやらいくつかの困難に直面しているようである。そのうちの一つとして、まずWikipediaは真にマスの現象になったことはない。「生産者の大部分」を巻き込むどころか、数多くのシンパではなくごく少数の本物のマニアによって支えられていた。スペイン語版では90%の編集が8%程の積極的な利用者によって行われている。はるかに利用度の高い英語版では75%の編集が2%、つまり1500人により行われ、半分の編集は利用者の〇・7%、つまり524人によって行われている。

これが意味するのは、当初からWikipediaは逆さまのピラミッド式に機能してきたということである。世界中を夢中にさせ巻き込む術を心得てはいたが、実際はわずかな人を基に成り立っている。つまり、かなり脆いということになる。2011年には若いネットマニアも年をとることが判明し、家賃を払ったり、家族を養うための仕事を見つけなければならず、ITボランティアは二の次となった。ジミー・ウェールズ自身、2011年8月イスラエルのハイファで行われたWikimaniaの会議でそのように発表し、危機を認めている。つまりWikipediaが充分に更新されなくなったのは、その協力者の中核が失われつつあるからなのである。

ウェールズは、Wikipediaの成功を決定づけた若者の世代は成熟し、別の活動や興味に向かうようになったので、新たな世代の活動サポーター、とりわけ女性のサポーターが必要だろうと述べた。というのもこれまでWikipediaは男性(平均年齢は26歳)からのクリックに限られてきたからである。トスカーナ州の興味深い試みに、州の図書館員に協力を呼びかけ、記事の質の向上を図るとともに、参加者の質をより安定させようとしたものがある。しかし、意義ある発展があったかどうかを言うにはまだ時期尚早だろう。

Wikipediaは今後、もう一度成功するかもしれない、しかし同時に新しさの魅力はすでに消耗され、協力という流行は廃れてしまうかもしれない。もしそうであればWikipediaの場合だけでなく、新しい経験が与えられる共同体に属しているという喜びから生まれる無償の仕事という哲学そのものが、危機に陥ることになるだろう。報酬のある仕事を探さなければならない(日々困難になりつつある)社会構造の「重さ」は、資本主義と無償の経済を両立させるのがいかに難しいことかを示している。

Wikipedia の凋落が確実であるとするなら、それは重要な教訓になるだろう。つまり、「制度化された」組織だけが長期的に生き延びるということである。熱狂や流行、ボランティアを基礎にした実験のサイクルはかなり短命である。そうであるなら、今から280年程前の1731年に、ベンジャミン・フランクリンが初めて本の貸出を目的としたフィラデルフィア図書館会社を創設した頃と同じように、今日も図書館は必要とされていると考えられる。その理由は、フランクリンが図書館創設から数十年後に行った考察にある。「これらの図書館は、商人や農民をごく普通のインテリにし、アメリカ人の国論の質を向上させ、おそらく植民地で彼らの権利を擁護する際、その立場を表明するのに何らかの貢献をしたのである」。

これを言い換えると、もし植民地で当時のヨーロッパでは考えられない程の高い識字率に達していなかったとしたら、アメリカ革命は起こらなかったかもしれないということである。読む力や、食堂、広場、教会で議論する力が政治状況を変え、イギリスにアメリカの独立を受け入れさせた。100年後、アンドリュー・カーネギーは個人資産でアメリカ全土に図書館を建設し、今日でもなおピッツバーグの「パブリック・ライブラリー」の正面玄関には、「Face to the people」と誇り高くも刻まれている。
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みんなの図書館? それともみんなのGoogle?

『拝啓 市長さま、こんな図書館をつくりましょう』より 共有財産としての図書館

ソーシャルテクノロジーが発達した環境のなかで、図書館はいったい何の役に立つのだろうか? たしかにサンソムの小説の少年たちの言い分は、正しいのかもしれない。フランスで近年発行された図書館員のための手引書「今日の図書館 新しい空間の獲得」の表紙でさえ、抗しがたい進化を暗示している。その表紙には、3人の図書館員がやけくその風情で、紙の本がびっしり並んだ巨大な書棚を押し出そうとしている傍らに、若い女性が3台のパソコンと2台のiPadを台車に載せて運んでくる場面が描かれている。この絵を描いたイラストレーターのオレルは、次の場面でおそらく彼女にこう言わせるだろう。本はすべて古本市に出して下さい、利用者にはインターネットに繋がった機器だけを使ってもらいます、と。

フィラデルフィアのドレクセルの大学は、まさにそのようなパソコンだけを配置した大学図書館をオープンさせた。しかし現実は、イタリアの新聞が「ようこそ本のない図書館へ」という見出し記事で取り上げた様子より、もう少し複雑なようである。

残念ながらその大学図書館は、「すべてヴァーチャル」というのがそう単純な話ではないことを明かさなかった。つまり、ホームページでは「配管検査のためテラスは立ち入り禁止」と告知され、学生はこれまで図書館に置かれていた電子レンジが撤去されたことに抗議していたのである。どうやら私たちにとって図書館は、見過ごすことのできない物質性を保ち続けている場所のようである。コンピューター、インターネット、サーバーはプラスチックや金属でできているため、過熱すると回線不通になってしまう。したがって安定した電流と作業員による定期点検は必須事項である。なるほど市長は建物の維持費がどれだけ負担になるか、よく心得ているのである。

学生たちは、ヘンリー・ジェイムズを読むため、メールを書くため、Facebookを更新するために図書館に行く。トイレが使え、カフェテリアもオープンしていなければならない。大学近くの角にあるチャイニーズレストランは学生に人気で、みんなヌードルをテイクアウトしていた。だから電子レンジが必要だったのである。

これらすべてのことは、ドレクセルの大学図書館が物理的空間としては閉館し、自宅から接続する純粋なヴァーチャル図書館に変わっていたなら問題にならなかっただろうか? おそらくそうではないだろう。それには次の三つの理由が考えられる。まず図書館には「手助け」がある。図書館員はどの学術雑誌が有益か、アルメニア語の辞書や南スーダンの地図はどこにあるかを知っている。日々増加する情報を、図書館はネット上(専用サイトやFacebook)でも利用できるように公開しているが、そのオンライン・システムに滋養を与えているのはまぎれもなく図書館員その人である。

二つ目は、アメリカの大学生が図書館に「行きたい」のは、自室や近隣のカフエより図書館の方が過ごしやすいからである。これはイタリアの学生にとっても同じことである。アメリカの大学図書館は、公共図書館と同様、採光に優れ、入りやすく、食事をしたり、超難関の科学の試験について友人に助けてもらうことのできる社交の場である。朝8時に入館し、山積みになった参考図書の間でうたた寝をし、翌朝8時に退館することもできる。紙の本があろうとなかろうと、これが本当の「知の広場」なのである。

三つ目は、学外からのネット接続には脆さがある。2011年7月の時点で、ProQuestシステムは「技術的問題があります」と大学図書館のサイト上に告知されていた。そのため学外からの接続に支障をきたしていたのである。もちろんこの問題はいずれ解決されるだろうが、もし地域に中央図書館がなく、こうした障害が試験の一週間前に起きていたなら、アメリカの学生は問題が解決されるまで学長室を占拠したことだろう。なぜなら彼らは大学のサービスを利用するために何千ドルという登録料を払っており、そこにはいつでも利用できる図書館サービスも含まれているからである。

インターネットは「グローバル図書館」とよく言われる。しかしこの喩えは見当違いだろう。なぜなら、「確実さ」と「所蔵資料の安定性」を欠いたインターネットは、決して図書館にはなり得ないからである。確実さとは、図書館にあるイタリア詩人モンターレの本は、たとえ海賊版であろうと、作者の書いたものに一致するということを意味する。ネット上では、モンターレの詩の一節に簡単な「カット&ペースト」を施し、改ざんすることも可能である。

所蔵資料の安定性とは、国立図書館にひとたび所蔵されたものは、火災や盗難や戦争、不運な紛失などに遭わなければ、三世紀後にもまだそこにあることを意味する。ネット上では、昨日あったものが三年後にもあるだろうが、同じ内容であるという保証はない。ブロガーは過去の投稿記事を好きなように変えられるし、Wikipediaは政治的・経済的関心から引き起こされる激しい書き換えの対象である。事実、「ガリバルディ」「ナポレオン」「地球温暖化」「コカコーラ」といった項目はつねに編集されつづけている。

言い換えれば、インターネットは無類の情報へのアク七スと、世界中からの同時利用を可能にするが、情報操作や改ざんが容易なメディアであるために、完璧さや永続性は保証されないということになる。図書館の放火を企てるより、デリートキーを押す方がはるかに手軽なのは明らかだろう。

ネット上の情報がいかに脆弱であるかを知るには、Googleが中国では利用しにくいことを考えてみるといい。中国では一般的な検索エンジンとしてBaiduが利用されており、このブラウザでは政府要綱にしたがって適切に書き換えられたウェブページにューザーを向かわせる。そこでは1989年の天安門事件はなかったことに、ダライラマはペテン師に、中国には反政府勢力もいなければ、検閲もないことになっている。

Baiduがこうしたことをするなら、Googleも同じように政府の権威に気に入られるようにならないわけがない。私たちの民主主義政府は、9・11のような国家非常事態時にはどうなるだろう? 経済摩擦のときは? インターネットはあらゆる検閲官の夢であり、今日彼らはそれを存分に利用できる。まさにオーウェルの『1984年』で描かれたように、過去を書き換えるのに有効な手段なのである。
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