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ローマクラブはなぜ間違ったのか

『資源の循環利用とはなにか』より 現れないオオカミ--二重の資源の枯渇問題を考える-- 天然資源は枯渇するのか

ローマクラブの予想とマルサスの悪魔

 ローマクラブとは、著名なビジネスマンや科学者からなるグループで、経済・天然資源・自然環境などに関する地球規模での問題に対処するために一九六八年ローマで設立された。ローマクラブの名前を日本で一躍有名にしたのが、デニス・メドウズらの執筆による報告書、『成長の限界』(一九七二年)である。この本は、出版直後ベストセラーになった。

 『成長の限界』の内容は、筆者流の解釈によると概ね次のようになる。欲望が解き放たれた現代社会では需嬰の増加にとめどがなく、また資本制生産に基づいた市場経済においては、天然資源の枯渇を考慮することなく短期的利益を目指した生産活動が続けられる。こうして果てしない発展成長に向かって経済は突き進む。さらに発展途上国を中心に、多産多死から多産少死への転換もあって人口が爆発的に増加する。ところがこうして大きくなり続ける経済の規模に比して、自然環境の容量は相対的に小さくなるばかりである。天然資源の賦存量は減少し、いずれは枯渇する。それと同時に、経済活動から副産物として産み出される残余物、すなわち排出ガス、廃水、固形廃棄物の量は増大し続ける。天然資源は枯渇する一方、大気汚染や水汚染などの公害が深刻化するために経済は破綻状態になり、世界経済は一〇〇年ともたないというわけである。つまるところ、このままでいくと二重の資源問題で経済は破綻をきたすというのが『成長の限界』の警告なのだ。

 この本が出版された頃、先進国は深刻な公害を経験していたときであり、加えて出版後まもなく起こった第一次石油ショック(一九七三年)もあって、『成長の限界』は多くの人々の心を捉えた。筆者も当時、もうこのままでは経済はもたないのではないかと思い、資本主義の将来に大きな不安を感じていたものだ。経済成長懐疑論が幅を利かせ、「くたばれGNP」などというキャッチフレーズが新聞紙上を賑わせたのも、ちょうどこの頃のことである。

 だが『成長の限界』の出版から四〇年以上経過した今、天然資源の枯渇は起きていないし、少なくとも先進国では、深刻化する公害で健康の維持が難しいなどということもない。幸いなことに『成長の限界』の予想は見事に外れたのである。なぜ外れたかを論じる前に、これと似たような議論が一八世紀末、既にあったということを述べておきたい。それは言わずと知れた、マルサスの『人口論』(一七九八年)である。

 初版と第二版ではトーンが多少異なるものの、概ね次のような悲観論としてまとめられる。基本的には人間の性欲は抑えることができないために人口は等比級数的に増加する傾向があるが、食糧生産は等差級数的に増加するのが精一杯だ。しかも耕作を拡大していくと地味(耕作地としての土地の性質)の薄い劣等地まで耕作せざるを得なくなるから、食糧生産量は比例以下にしか伸びない恐れもある。つまり、食糧資源の相対的枯渇により経済発展・成長は停止せざるを得なくなる。時には、堕胎や間引きなどの悪徳さえ起こるかもしれない。これを「マルサスの悪魔」とか「マルサスの罠」とか言うことがある。人類はこの悪魔から逃れられないというのが、マルサスの悲観的結論である。

ローマクラブの誤算

 しかしマルサスの悪魔はもちろんのこと、ローマクラブの『成長の限界』の予測も外れた。現在の段階では地球規模での食糧不足はないし、枯渇が間近だという天然資源の話も聞いたことがない。ピークアウトの懸念はあるものの、原油もまだなくなるということはなさそうだ。入り口の資源問題はさほど深刻化していないようにも見える。では出口の資源問題はどうか。少なくとも先進国では一九六〇-七〇年代の公害は、完全とは言えないにせよかなりの程度克服された。二〇一〇年代の東京の大気の状態は、一九六〇-七〇年代のそれよりはるかに良い。当時と比べて、大気中の二酸化硫黄濃度は五分の一以下にまでなった。

 外れた予測に対していろいろ言い訳はあるだろう。「当時のままで経済が突き進めば破綻するという予測なのであって、軌遠を修正するための何らかの政策がとられれば結果は異なるはずだ」と言い逃れをすることもできる。あるいは、「入り口・出口双方の資源問題はこれから深刻化するのだ」ということもできる。どちらにしても苦しい言い訳だ。

 皮肉なことに、本書の執筆時点(二○一四年九月)で世界経済が突きつけられている深刻な問題は、経済発展・成長を追求することからくる問題というよりも、経済発展・成長を実現できないことからくる問題なのだ。アジアやアフリカなどにある一部の元気のよい国々を除けば、ほとんどの国々がデフレ、失業、賃金カットなどへの対策で頭を悩ませている。とりわけ先進諸国の経済トラブルは深刻で、経済成長の活路を見出せずにいる。経済は二重の資源問題による制約で発展成長できないのではなく、むしろケインズが喝破したように、有効需要(貨幣の裏付けを持った需要、実需)の不足からくる制約によって伸び悩んでいるのであり、純粋な意味で経済的な問題を突き付けられているのである。

 しかしローマクラブが物事の本質を完全に見誤ったかというと、そうでもない。否、むしろ二重の資源問題をしっかり見据えたという点ではやはり先見の明かあったと言うべきなのである。二重の資源問題は厳然として我々の目の前に存在するのだ。ただし、二重の資源枯渇による制約は真綿で首を絞めるように徐々に現れる。どこで限界を超えたかがわからないから困るのだ。もう一つ重要な点がある。それは、市場を支える法制度的枠組(後でこれを「制度的インフラストラクチャー」として定義する)をうまく設計してやると、しなやかな市場の動きを利用して二重の資源問題を克服できる可能性がある、ということだ。『成長の限界』ではこのことが見逃されていたのだ。

2015年06月08日(月) 統一ベトナムと中国:対立の表面化

『中国の歴史』より ベトナム史から見た中国近現代史

文化大革命と中ソ対立:中越関係のきしみ

 1964年10月にフルシチョフが解任され65年にコスイギン・ソ連首相が訪越した後、北ベトナムは中ソ間でバランスをとるようになった。北ベトナムは「現代修正主義」批判を公の場で発言しなくなり、援助を中ソ双方に積極的に求めていく方針をとった。国際共産主義運動の組織的な分裂、中ソ両党決裂の起点は65年から始まっており、翌66年には中国は公式の場で「社会主義陣営」という表現を使わなくなった。中ソ両国は中ソ論争を激化させていったものの、同時に北ベトナムヘの支持と支援を競いあうことになった。ソ連は65年初から軍事支援物資を船で北ベトナムに送りけじめ、4月に入って、中国ルートを経由してミサイルとその発射装置を輸送し始めた。65年7月、ソ越間で「ベトナムの経済発展および防御能力強化に関する援助協定」が調印され、ソ連は北ベトナムに対する援助を増強した。65年は中越関係の転換点となり、これ以降、北ベトナムはソ連への依存を強めていくことになった。

 1966年夏に中国国内で文化大革命が始まると、中国と北ベトナムの国内外政策に本質的な相違が生まれ、北ベトナムの中国離れをうながす原因となった。北ベトナムに対して中国は文革を輸出して毛沢東思想に従うことを強い、べトナム国籍中国人青年で「紅衛兵」を組織して「現地造反」をあおり、北ベトナムの路線・政策に反対するという内政干渉を行った。67年以降、華僑学校が現地のベトナム学校に吸収合併され、党政軍部門に就職した華僑幹部も重要ポストからはずされ始めた。同じ時期から、ベトナム指導部は中国側に軍隊の状況や正確な兵力数について説明しなくなったといわれる。これは事実上、50年代に始まった中越両党両国指導者間の共同協議の停止を意味した。

 1969年以降、中国の対外政策に変化が見られ、西側接近の姿勢か強まり、反帝闘争支援の姿勢が弱まっていた。69年3月、中ソ国境の珍宝島での両軍武力衝突のあと、中国はソ連を「社会帝国主義」と呼ぶようになり、ソ連を「主敵」とし、社会主義陣営の存在を否定し無用視する[三つの世界]論を70年代初頭に提唱するにいたった。「三つの世界(米ソ両超大国、西側先進諸国、中国を含むアジア・アフリカ・ラテンアメリカの発展途上国)」論の主たるねらいは反ソ・反覇権であり、これに対し、北ベトナムの提唱する「三つの革命潮流(社会主義陣営、帝国主義諸国の労働者と勤労人民、新|日植民地の被抑圧民族)」論では、主要な敵は「米帝国主義」である。

 1972年のニクソン訪中、カーター政権下での米中関係の正常化(78年12月)は、北ベトナムから見ると、中国はアメリカによる中ソ分割の策略に乗せられ、社会主義陣営の分裂と世界の革命勢力の弱体化に手を貸し、「三つの革命潮流」に逆行する行動をとっていることになる。ベトナムはベトナム戦争後も「三つの世界」論に基づく中国の世界戦略、とりわけソ連敵視政策に反対した。中国が従来とくに力を入れていた東南アジアの共産ゲリラヘの支援は、アメリカの対中軍事圧力を分散させ牽制するのがおもなねらいであった。そのため、米中が接近し、主要な軍事的脅威がソ連に移った70年代半ば、中国は東南アジア諸国の共産ゲリラヘの支援をしだいにとりやめ、現地諸国の政府との外交関係の樹立に転換した。

統一ベトナムと中国:対立の表面化

 1975年のベトナム戦争終結は、戦争中におさえられていたベトナムと中国の対立を表面化させた。べトナムは南北統一を達成したからといって、進んで中国と対立・抗争するつもりはなかった。戦後経済復興と発展には中国の援助が必要であったし、国境問題をはじめとして交渉によって解決すべき重要問題があったからである。第二次5ヵ年計画(1976~80年)では、中ソをはじめとする社会主義諸国からの経済・技術援助はもとより、西側諸国や国際金融機関からの資金導入を前提として立案されていた。中越敵対関係の長期化はベトナムにとって過重な負担であり、経済復興と発展を大幅に遅らせるものであった。

 ベトナム戦争中より、べトナムは隣国カンボジア・ラオスと「特別な関係」を維持してきたが、これは自主独立の立場維持に必要な政治的・経済的基盤をインドシナに築こうとしていたからである。べトナムのこの動きに対して、中国はベトナムがインドシナにおける覇権を唱えようとするものだとして警戒的になり、カンボジアのポル・ポト政権にてこ入れして、べトナムを牽制しようとしてきた。1978年2月、ベトナムは対カンボジア強硬政策をとることを決定し、打倒ポル・ポト政権のために直接介入をはかろうとした。また南部において、3月に家族経営レべル以上の全私営企業の社会主義改造に着手した。これはすべての商業・製造業を対象としていたが、主たるターゲットはホーチミン市在住の華僑であった。そのため南部の急激な「社会主義化」に反発した華僑が国外に流出するようになり、その後この動きは北部の華僑にも波及し、中国本土への華僑の大量脱出が発生した。

 ベトナムの強硬な反中姿勢を「懲罰」するため、中国はポル・ポト政権の反ベトナム感情を利用して、国境武力紛争を続発させ、また「華僑事件」を口実に対ベトナム経済・技術援助を全面的に停止した(1978年7月)。78年11月、べトナムは「べトナム・ソ連友好協力条約」を締結し、反中・親ソの姿勢をはじめて明確にした。78年末、ベトナム軍は中国の盟友カンボジアに侵攻した。ポル・ポト政権を首都プノンペンから駆逐し、翌79年1月に親ベトナム政権を樹立した。それに対し、同年2月、中国は「小覇権主義」ベトナムを「懲罰」する国境戦争を発動し、その後、両国の国境摩擦と敵対的関係は約10年間続いた。さらに、日米など西側諸川は中国側に加担してベトナムのカンボジア侵攻を非難し、ベトナムに経済制裁を行った。これはベトナムの経済にとって大きな痛手となった。

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コメント
 
 
 
Unknown (kojimatti)
2024-07-19 07:19:39
ローマクラブの名前は、40年以上前に何かで読んだ覚えがあって、胡散臭い予測をする役に立たない団体という評価を自分の中でしていた筈。。記憶も薄れてるのでハッキリとは覚えていない。昨今、ビーガンや反ワク代表の方達が、やたらとローマクラブの話題を拡散しはじめたので、ちょっと調べてみようかとは思います。なんなんですかね。。
 
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