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『数学者たちの黒板』

 『数学者たちの黒板』

なぜ数学者には黒板が必要なのか
フィールズ賞受賞者を含む数学者109人の板書の写真その黒板にまつわるエッセイを収録。数学者たちの黒板への情熱に溢れた、唯一無二の「数学エッセイ」×「黒板の写真」集!

数学者は数学が何かを知っているが、彼らにとって、それを説明するのは難しい。私が数学について見聞したことを挙げてみよう。数字は、演繹法と抽象化を用い、古い知識から新しい知識を創造する技術だ形式的なパターンの理論」「数学は数の学問」「自然数や、平面と立体の幾何学を含む分野」「必要な結論を導き出す科学」「記論理学」「構造に関する学問」「時を超えた宇宙の構造を説明する「論理的なアイデアの詩」「公理の集合から、命題あるいはそれらの否定の集合までに至る、演繹的な経路を探す手段」「目に見えない、想像の中にしか存在しないものに関する科学」「正確な概念装実在のものであるかのように扱うことができるアイデアの学問」「明示的な構文規則に従い、一次言語の無意味な記号を操作すること」「理想化された対象の性質とその相互作用を調べる分野」「目的のために発明された概念と規則を用いた、巧みな演算の科学」「何がおそらく正しいのかに関する予想、問い知的な推測、発見的な議論」「多大な労力の上に作られた直観」「我々の文明によって構築された、貫性のある、最大の人工物」「完成に向かうにつれて、あらゆる科学がそうなるもの」「理想的な現実」「たかだか形式的なゲームにすぎ「ないもの」「音楽家が演奏をするように、数学者がすること」。

数学のことを、「何千年にもわたって書き綴られてきた物語で、常に加筆され、決して完成することのないもの」と捉える数学者もいる。これほど古い『経典』はないだろう。数学は、人類が自身について書き残している記録であり、歴史以上の長さを持つ。歴史には、修正されたり、改ざんされたり、消されたり、失われる可能性がある。でも、数学はずっと変わらない。A-B-Cは、ピタゴラスが彼の名前をつける以前から真であり、太陽がなくなっても、そのことを考える人が誰もいなくなっても真だ。そのことを考えるかもしれない、いかなる地球外生命にとっても真であり、彼らがそれについて考えるかどうかに関係なく、真だ。数学を変えることはできない。上下左右、空と水平線のある世界がある限り、それは侵すことのできない存在であり、いかなるものよりも真だ。

バートランド・ラッセルは数学のことを、「私たちが何について話しているのかも、私たちの言っていることが正しいのかどうかも、「分からない学問」と言った。他の科学者の言葉についても言及しよう。ダーウィンは、「数学者とは、真っ暗な部屋で、そこにいない黒猫を「探している盲人だ」と言った。ルイス・キャロルは、四則演算(足し算、引き算、掛け算、割り算)を、打算、注意散漫、醜怪化、あざけりと書いている。状況を複雑にしているのは、数学を、特に高等な範囲で、理解するのが難しいことだ。それは、単純な共通言語(数を数えることは誰にでもできる)として始まったが、専門化された方言に変わり、あまりにも難解になったため、世界で数人しか話せなくなってしまったのだ。

これらはいずれも、私自身の考えではなく、常套句のようなものだが、そうだとしても私は数学に惹かれる。数学者たちは、確かな世界の中で生きている。他の分野の科学者も含め、残りの人が住んでいる世界において、確実性とは、「自分の知る限り、ほとんどの場合は、このような結果が起こること」を示す。証明に対するユークリッドの主張のお陰で、数学では、分かっている範囲内で、毎回、何が起こるかが分かる。

数学は、謎を説明するために私たちが持っている、最も明示的な言語だ。物理学の言語としての数学は、実際の謎(自然界で、はっきりとは分からないが、正しいと推測し、その後、正しいと確認される謎)架空の謎(数学者の心の中にのみ存在するもの)を記述するものだ。

では、これらの抽象的な謎はどこに存在するのだろう?その縄張りはどこか?人の心の中に住んでいると言う人もいるだろう。つまり、数学的対象(数字や、方程式、公式など、数学の用語集や装置全体を意味する)と呼ばれるものを思いつき、それらを存在せしめているのは、人の心であり、それらの振る舞いは、私たちの心の構造を反映したもの、ということだ。私たちは、自分の持っているツールと整合する形で、世界を検証するように導かれている(例えば、私たちに色が見えるのは、表面からの光の反射をそう捉えるように脳が構造化されているからだ)。これは、確かな情報に基づいてはいるが、少数派の見方であり、神経科学者や、根本原理に偏った一定数の哲学者や数学者が、主に持つ考えだ。(ほんの少しかもしれないが)より広く支持されているのは、数学がどこに存在するのかは、誰も知らない、という見方だ。どこかを指さして、「数学はそこから来た」、と言える数学者や自然主義者はいない。数学は、私たちの内面以外のどこかに存在し、創造されるものではなく発見されるものだという信念は、プラトンの信念にちなんで、プラトン主義と呼ばれる。彼は、時空を超えた、完璧な形をとる領域が存在し、地球上に存在するものは、その不完全なコピーにすぎないと信じた。定義上、時空を超えた領域は常に存在してきたもので、時間と空間の外側にあり、いかなる神が創造したものでもない。第3の見方は、数学は神の心の中に宿るというもので、歴史的にも現在においても、少数ではあるが無視できない数の数学者がそう考えている。集合論の創始者であるゲオルク・カントールは、「神の持つ最上の完璧さは、無限集合を創造する力にあり、それを可能たらしめるのは、その計り知れない高「潔さだ」と述べている。そしてシュリニヴァーサ・ラマヌジャンは、「神の考えを表すものでなければ、方程式は私にとって意味をなさない」と言った。

芸術家のように、数学者はしばしば、自分の知識の縁、すなわち、薄明かりしか差し込まない領域で研究する。取り組む価値のある問題に到達することは、時に、内面の冒険であり、多くの努力を必要とし、多くの領域を包括する。すべての冒険が意識的なものではない。古くて、由緒ある問題に向き合うのは、最後の砦に立ち、(それを試みた他の多くの人たちの報告によると)不可能に見える状況で、攻撃の計画を立てるのと少し似ている。

ワインの写真は、複雑な数学的推論の領域から厳選されたものの集まりだ。人間の思考の最前線、すなわち、まだ検討中で、現在進行形の問題を表した写真もある。説明的な写真や、物語的な写真、推測を含んだ写真もある。数式や描画は、あたかもそれ自身が生きているかのように揺れている。若い頃にLSDを服用し、小さな木片に書かれた、かろうじて読める文字を見て、「これが理解できれば、すべてが理解できるだろう」と考えたときの幻覚を思い出す。

これらの図を描き、公式や説明を書いた人々は、すべてを理解しているわけではないとしても、新しい知識を追究している。追究の多くは、数学を拡張する以外に実用上の目的はないかもしれない。とはいえ、控えめに言っても、彼らが研究していることは、これまでに誰も知らなかった何かである可能性がある。

黒板に書かれたものは、記号であり、これらの記号に残された指針を辿れば、そのときの思考の結論に戻ることができるし、一連の思考を再構築することもできる。黒板に書かれた文書は、数学という普遍的な言語以外では互いに話すことができない人々によって、世界中のどこででも再構築することができる。黒板に書かれたものを消してしまっても、それらは、数学という大薯の中の項目として、依然として存在するだろう。

これらの写真は、何年にもわたる研鑽と思考を記録したものだ。肖像画がそうであるように、そこには、心の状態や性格、内面の働きに関する何かが体現されている。飾り気のないこれらの写真を見ると、20世紀初頭にディスファーマーがアーカンソー州のアトリエで撮影した、農家と農作業員、その家族の写真を思い起こす。ワインの撮影した、これらの図表や方程式は、ディスファーマーの写真のように、あなたを見つめ返す。まるで撮影されたものの本質を明らかにするかのように、余分なものを取り除いた質を帯びている。あたかもワインがダンスの流れを辿ったかのように、そこには、思考が行われた、活気に満ちた様子が描かれている。彼女は目を閉じて、1行1行を追っているようだ。写真には、文書のような固定化された感覚があるが、その文書を書いた手の動きも感じ取ることができる。それらはすべて、数学者が、歴史的に、美と関わりを持ってきたことを象徴している。ある生き物と、そのホームグラウンドで遭遇したような臨場感もある。あまりにも魅力的で、ワインが最初に見たときに息を呑むほどだったであろうと思える黒板の写真もある。彼女の関心は、形式的な外観だけでなく、それぞれの黒板が示唆する意味の層にも及んでいる。それらの第一印象には、はっきりした意味があるが、消去された跡や、描き直されたもの、推論が進展してゆく過程には、さらなる意味があり、時間の経過とともに明らかになってゆくかのようだ。

数学者のアラン・コンヌは、数学において「存在する」という語は、矛盾の対象とならないことを意味する、と言った。これらのエレガントな写真には、人の厳密な思考というキャンバスに描かれた絵が、詳細に保存されている。

全体として、これらの写真はある種の証言であり、人の思考がより高い能力を持つことを信じた記録だ。ほとんどの抽象的な数学がそうであるように、たとえ明確な形で役に立たなくても、そのよらな推論的な思考には価値がある。時に詩人が、自分の文章を、散文よりも高尚なものと見なしたように、純粋数学という呼び名には、19世紀の俗物性の意味合いが(おそらく意図的に)含まれる。そうは言っても、純粋な思考と実践的な思考は区別しなければならない。それは、例えば、詩と簡単な報告書の間に存在する区別のようなもので、プラトンも同様の区別をしたであろう。数学が芸術なのか科学なのか、あるいはその両方なのかを判断するのは難しい。

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コメント
 
 
 
自然数の本性([1]の存在量化(∃))  (三文字(i e π)寄れば文殊のヒフミヨ)
2024-07-11 17:50:40
 ≪…上下左右、空と水平線のある世界がある限り、それは侵すことのできない存在で…≫から、数学の基となる自然数(数の言葉ヒフミヨ(1234))を大和言葉の【 ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と 】の平面・2次元からの送りモノとして眺めると、[数のヴィジョン]になるとか・・・

 岡潔数学体験館で、自然数のキュレーション的な催しがあるといいなぁ~ 
 
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