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アーレント 異郷の政治哲学に向けて

『逆行の政治哲学』より 全体主義的思考を超えて アーレント:国家への問いかけ

アーレントの豊饒で複雑な政治哲学をくまなく見渡すことは、もとより不可能であるのはいうまでもない。ここでは、必ずしも著作に即すかたちではないにせよ、それ以後の彼女の探究が分け入ってゆく問題群のいくつかを取り上げて、読者がみずからアーレントの思索の跡をたどる際の手がかりとなるよう、そのごく大まかな見取り図をスケッチしておくことにしよう。

アーレントの思考が政治哲学へ向かう動機は、一言でいうならば、反ユダヤ主義がいかにして成立し、最終的に人類史上空前の破局へと至りえたのかを理論的に解明することだった。この課題は最初の大著『全体主義の起原』(1951年)でとりあえず果たされる。ナチズムとスターリニズムに代表される全体主義が成立するには、これまで述べてきた国民国家のパラドックスに加えて、19世紀には揺るぎない存在だった階級社会が次第に解体し、流動化した原子化した個人から成る大衆社会の成立が不可欠だった。物質的利害はもちろん、価値観、世界観などの共有によって統合されることのなくなった個人は、かつてない孤立した状況に追いやられることになる。なるほど大衆のなかにあっても、人間は物理的には他者とともに生活し世界を形づくっていることに変わりない。あるいは、独房のなかでひとり孤独に時を過ごしているとしても、他者と連帯感を分かち合い、世界と強くかかわっていることもありえるだろう。しかし20世紀以後、日常的に意識のなかに他者も世界も存在しないほど孤立し、見捨てられている人びとが大量に出現するようになったことも確かなのだ。ユダヤ人とはまた異なる要因によってではあるが、非ユダヤ人も同様に無世界性のうちに投げ出されるようになったわけである。そこでは、私のアイデンティティも危機に瀕することになる。

私は私であるというアイデンティティをもつことができるのは、他者によって承認される私と、そこからはみ出している私が私のなかで絡まり合って存在し、しかもそのような私と他者が共有する世界が存在することに支えられているはずである。そうした自己、そして自己と他者の関係はいかにして存在しうるのか、世界はいかなる構造をもち、その現実性が確保されうるのはいかにしてか。アーレントは生涯この問題を追求し続けることになる。

人間の様々な行為のあり方の解明を主題とし、アーレントの主著とみなされることも多い『人間の条件』(1958年)は、世界について論じた作品でもある。世界には、「仕事」を通じて産出される物によって形成される層だけでなく、物を介すことなく人間と人間のあいだに成立する「共通世界」という層も存在する。この共通世界は、「活動」、具体的には主に言語によるコミュニケーションを通じて、私と他者がそれぞれの個人の問題からは切り離された共通の事柄をめぐってかかわり合う世界の次元であり、それを公的空間と呼ぶこともできる。「活動」は、私が私であるためには他者が不可欠であるということ、すなわち複数性に条件づけられている。複数性は人間が人間であるための条件であり、何より優れて政治の条件でもある。

ところで、『人間の条件』では、この公的空間が古代ギリシアのポリスを範例として論じられている。そのため、複数性を同質的な共同性と同一視したり、失われた政治の黄金時代への郷愁をそこから読み取ろうとする向きもあるかもしれない。しかし、それは当を失している。暴力によってではなく言葉と約束によって国家を創設するアメリカ革命を主題とし、共和主義的な政治観がいっそう前面にせり出してくる『革命について』(1963年)でも、事情は変わらない。市民の同質性とその基礎となる共通善によって特徴づけられる古典的な共和主義とアーレントの政治的思考とのあいだには深い溝がある。国民国家すら終焉を迎えている時代に、帰るべき「故郷」などどこにもない。政治体の構成員が同質的ではなく多種多様であること、単一ではなく複数であることは、アーレントが政治哲学を展開するにあたって、暗黙の、そして最大の前提条件である。それは、若きアーレントの経験と思考の軌跡を想い起こせばむしろ当然のことだろう。「アーレント的政治哲学」なるものがもしあるとすれば、それはこうした多種多様な人びとの共生を可能にする条件を探究する、いわば異郷の政治哲学以外ではありえない。

ユダヤ人等の絶滅計画は、もちろんそれを立案し主導した一握りのナチ高官の働きだけで現実のものとなることはない。その計画に賛同しているにせよ、たんに異を唱えないだけにせよ、とにかく命令を忠実に遂行する多くの人員がいなければ実現不可能なことである。また、たとえ直接そうした職務にかかわりはないにせよ、あるいはナチのイデオロギーに強く共鳴しているわけではないにせよ、巨大な犯罪計画の実行をそのままやり過ごしている大衆の存在があって初めて成り立つことである。そうした大衆は、先にふれたようにすでに意識のなかに他者や世界への関心を失っている。自己と他者のあいだへの関心、すなわち世界への関心の代わりに大衆の関心を占めているのは、疑似科学的なイデオロギーを除けば、自分の内部にある生命と生活にまつわる問題である。ここにいる膨大な人びとは、個人として見るかぎり、おそらく大部分はとくに悪人などではないに違いない。彼らは、自分と家族の生活やそれとかかわる自分の仕事や出世に没頭しており、そうした私的な幸福と安全を守るためであれば、いかなる職務でも異を唱えることなく遂行することにさして疑念を抱かない。このような無思考性の集積が生み出す悪という、優れて現代的な問題の解明も、アーレントの生涯にわたる課題のひとつとなる。

絶滅収容所へのユダヤ人移送の責任者だったナチ官僚アイヒマンをこうした無思考性の範例として、アーレントは『イェルサレムのアイヒマン』(1963年)で検討する。そこでアーレントは、共生する他者は本来だれにも選択できないはずであるにもかかわらず、それを選択する権利があるかのように振る舞うことによって他者の複数性を守る義務に反したという理由で、アイヒマンを断罪する。しかし、善悪の判断がつかず思考不能に陥っているのがアイヒマンだけではないことはいうまでもない。権威や伝統のような思考にとって手摺りの役割を果たすものは、失われてすでに久しい。それでは、私たちがみずから思考することができるためにはどうすればよいのか。世界で生じている出来事を想起し、他者に聞かれる言葉に換え、記憶され、物語にすること、とアーレントは示唆している。人類史上最も暗い時代を生き抜いたアーレントは、苦難のなかで人間とその行為のかけがえのなさを確かに終生物語ったのである。

20世紀の秩序の全面的な解体を描ききり、その廃墟から建ち上がるべき政治を構想しようとしたアーレントの試みは、当然のことながら、断片的なものに終わり、無数のひびが入っている。しかし、その瓦篠のそこかしこに未来を切り拓くかけらが見いだせることも明らかだろう。
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