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生ちゃんという分化

生ちゃんという分化

 ピアノができれば、生ちゃんになれるかというと、そうではない。好奇心、チャレンジ心が内とダメです。楽譜通りには拘らない。誰にどのように話しかけるか。それがミュージカルになること。

 そのために、様々な経験を積むこと。それらから生ちゃんは成り立っています。これこそ、分化の大きな例です。

日本のバレーの秘策

 日本のバレーはブロックをやめることです。慎重さから打ってくることにブロックは役立たない。発射点が変わっても着地点は枠の仲だから、そちらを六人で守った方が確実です。回転レシーブ方式です。

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OCR 化した13冊

『人の国際移動とEU』

 人の国際移動とEU--ハイ・ポリティクス化、統合への挑戦、グローバル・イシューとの接点

  もうひとつの欧州統合

  負の統合への反発か?--加盟国国内政治への影響

  グローバル化との関連--複数の規範形成

  本書の目的と構成

 リトアニア・ラトヴィア--東欧のE (Im) migration問題の極端例として

  2014年欧州議会選挙と東欧の状況

  東欧における人の移動の実態

  リトアニアの状況

  ラトヴィアの状況

  全体の考察と含意

 人の移動、グローバリゼーション、国家

  イントロダクション

  人の移動とグローバリゼーション

  新たなグローバリゼーションの時代における人の移動の管理

  出現しつつある「移住国家」

『よくわかる国際社会学』

 国際人口移動のグローバル化

  非合法移民

   生み出される非合法移民

   非合法移民のパターン

   移民グローバル化時代の非合法移民

   受け入れ国の対応

 国際人口移動のグローバル化

  ディアスポラ

   ディアスポラとは

   ディアスポラの多様性

   グローバル化とディアスポラ

 超国家地域統合と人の移動

  超国家地域統合とは

  ヨーロッパ統合と人の移動

  NAFTAにおける人をめぐる国境の強化

  地域統合と人の移動の解明すべき課題

 ドイツ社会と移民③

  1990年代半ば以降

   労働力の新たな希求:1990年代後半

   帰化と二重国籍:1998年以後

 格差をめぐる問い

  競争か、平等か

   グローバル化と二極分化

   多様な格差とジレンマ

  グローバルか、ローカルか、ナショナルか

   グローバル化問題と統治形態

   3つのガバナンス

   ナショナル・ガバナンスヘの回帰・強化

   問いの設定

『日本仏教史』

 「信」と「行」

  信じる力

  「信ぜよ、さらば救われん」

  キリスト教の予定説と親鸞

  仏教徒であれば誰にでもできる「行」

 檀家制度

  切支丹禁教

  切支丹弾圧と鎖国

  檀家制度の成立

  葬式仏教

  死者のための仏教か!?

『読書は格闘技』

 イントロダクション

『カフェ・バッハの接客サービス』

 「接客サービス」がなぜ大切なのか

 接客サービスの先にある「カフェの役割」では

 地域に豊かな文化か紹介する

 人と人との絆が生まれる場所、それがカフェ

 カフェ・バッハを支えてきた接客サービス

 カフェ・バッハが接客サービスか重要視する理由どは

 「コーヒー1杯で最高のかもてなし」を目指すのはなぜか?

 基本ど個人への接客サービス。サービスには大今く分けてふたつある

 基本の接客サービスか疎かにすると不公平感が生じる

 上手に行えば強力な武器になる個人への接客サービス

 スタッフ全員がか客様になった気分でコーヒーを飲む

 来店予定表か見ながらお客の情報かスタッフが共有

 ミーティングか通してスタッフ全員が商品知識か共有する

 上手くいくかいかないかが決まる

 できることは前日の営業終了後に済ませておく

 リピーターにしたいか客様かカウンター席に誘導する

 お届け~テーブルの片付け~店内巡回

 コーヒーの名前は省略しない。長くて芯正式な商品名か声にだして提供する

 カップルのか客様は女性のオーダーからテーブルに置く

 無理はしない。最悪の事態か想定してお届けサービスを

 基本か踏壇えたうえで、お客様に合わせたサービスか心がける

 お客様から言われる前にテーブルの上か合作いに片付ける

 トイレの使用が確認できるようにランプか新たに設置

 お届けから店内巡回まで。お店の心づかいを発揮する絶好の機会!

 お客様がより気持ちよく快適に過ごせるように努める

 何のために店内巡回するのか。問題意識を持って実践する

 お客様に関心を持つことが店内巡回の基本中の基本

 店内巡回を上手く利用して営業につなげる

『歴史に見る日本の図書館』

 今後の日本の図書館

 デジタル時代の図書館--機械化図書館か、電子図書館か

 図書館とデータベースのあり方

 図書館業務の外部化と図書館の将来

  図書館業務の外部化

  図書館流通センター(TRC)

  図書館サービスの実態

『よくわかる生涯学習』

 指定管理者制度に関する課題

  指定管理者制度とはなにか

  指定管理者による社会教育施設の運営

  指定管理者制度の課題

 ドイツの生涯学習

  生涯学習?継続教育?

  フォルクスホッホシューレとは

  ドイツにおける成人教育のあゆみ

  現在の課題

 デンマークの生涯学習

  学習社会の優等生

  デンマークの国民高等学校

  デンマークのアソシエーション

  多文化化という課題

『自死』

 若者を潰すブラック企業

 「名ばかり店長」という装置

 経営者はサムライ

 ニワトリの頭になりたい

 孤立化と「自死」

『地球環境戦略としての充足型社会システムへの転換』

 「環境の取り組み」は閉塞状態に

 飽和状態に達した半官製・商業主義の「エコ」

  この国の「エコ」

  半官製・商業主義の「エコ」はピークを過ぎた

 市民への「丸投げ」路線で「環境したいことがない人」急増

  国民・市民が主役の環境取り組みにー「参加」・「協働」-

  環境の取り組み「したい人」減少、「したいことがない人」急増

  「暮らしの中での工夫や努力」の定着も危うい

  国は自治体に「丸投げ」、自治体は市民に「丸投げ」

 原発依存の温暖化対策の破綻で「国民総環境疲れ」、「CO2増加」

  大キャンペーンにもかかわらず省エネ行動は減退

  原発に依存した温暖化対策の破綻が原因

 世界の中で最低クラスの日本人の「環境危機意識」

『逆行の政治哲学』

 自由のないデモクラシー トクヴィル:「行政の専制」

  プロローグ--「民主」と「専制」

  「専制」の来歴  西洋の政治文化の連続と断絶

   古代から近代ヘ--「同意」という罠

   専制批判の再興と権力の分立

   ナポレオンの登場と新しい専制

  民主的専制の誕生 行政権力の集中

   集権の論理と心理

   行政の役割の拡大

   行政の専制の性格

  自由のあるデモクラシーの条件 自己統治と自己制約

   自治と習慣

   宗教と尊厳

   司法と形式

   エピローグ--デモクラシーの未来、自由か専制か?

 全体主義的思考を超えて アーレント:国家への問いかけ

  プロローグ

  襲いかかる「政治」 反ユダヤ主義・シオニズム・ナチズム

  シオニスト/アーレントの理論と実践

  国民国家のパラドクス

  異郷の政治哲学に向けて

『数学ガイダンス2016』

 数学科を語ろう

 位相幾何学と多様体論

  ホモロジー論

  基本群とホモトピー論

  多様体論

  他分野との関係

『多文化社会読本』

 フランス共和主義とイスラーム嫌悪

  共和主義ナシオンの「他者」

  「移民」という不安

  国民国家の弱体化と不寛容の操作

 「ユダヤ文化」の復興?

  ポーランドにおける多文化社会の再構築の試み

  廃墟をめぐって一記念碑と忘却碑

  東ヨーロッパの絶滅政策

  絶滅政策の記憶

  「ユダヤ文化」への関心

  「失われた文化」の復興?

『経済法』

 知的財産権と独占禁止法

 知的財産権と競争政策の関係

  知的財産権の本義

  知的財産権の種類と分類

  知的財産権の他の分類

  知的財産権と独占禁止法の関係

 知的財産の創出と知的財産権の利用の実態

  事業活動としての研究開発

  知的財産権のライセンスの実態

  知的財産権のライセンス契約上の制限

 知的財産権と独占禁止法違反行為

  私的独占

  不当な取引制限

  資産としての知的財産権と企業結合規制

  不公正な取引方法

  適用除外

  独占禁止法違反に対する規律
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知的財産権 私的独占

『経済法』より 知的財産権と独占禁止法違反行為

JASRAC事件

 音楽著作権団体の音楽著作権の使用料金の決定方法が、新規参入者を排除する効果をもつとして私的独占の排除に問責された例がある。

 JASRACの料金は、音楽ューザーであるラジオ、テレビ放送事業者の収入に一定率、例えば1.5%を乗じる方法で算定して徴収していた。これは音楽の実際の放送回数が反映されない料金制度(「包括徴収」制度)である。公正取引委員会は, JASRACの料金の決定方法が、音楽ューザーが放送回数を減らしJASRACに支払う料金を節約して他の音楽著作権団体が管理する楽曲を使うというインセンティブを殺いでいるから、私的独占の排除に該当するとして、これを取りやめる排除措置命令を出した。

 JASRACはこれを不服として審判を請求した。公取委は、排除効果があることの実質的証拠がないとして、自らの排除措置命令を取り消す審決を下した。これに対し、審決の名宛人でないイーライセンスが、公取委の事実認定には誤りがあるとして東京高裁に審決取消訴訟を提起した。東京高裁は、イーライセンスの原告適格を認めた上、排除効果があることを示す証拠はあるとしてイーライセンスの主張を認め、公取委の審決を取り消す判決を下した。

 公取委は、上告受理の申請を行い、受理されたが、最高裁は、JSRACの行為は「排除性」があるとし、特段の事情がない限り、通常の競争手段の範囲を逸脱するとみとめられるので、2条5項の「排除」に当たるとして、公取委の請求を棄却した。現在、本件は、公取委で再び審理中である。この問題は, JSARACとイーライセンスの審判手続外の交渉で解決される可能性があり、その場合、この審判は違法宣言審決となるにとどまり、特段の措置はとられないであろう。

ぱちんこ機メーカー(特許プール)事件

 複数の事業者の特許権を共同で特定の事業者に管理委託する方式が濫用された事件がある〔ぱちんこ機メーカー事件〕。ぱちんこ機メーカー10社は、日本遊戯機特許運営連盟と共謀して、ぱちんこ機製造業の分野への新規参入を妨害する目的で、10社を含む工業組合の組合員以外の事業者には特許ライセンスを与えないとする排他的な管理を実施した。それが10社と連盟の通謀による排除行為として、私的独占に問われた。

 「権利の行使と認められる行為」(独禁法21条)は、個々の単独の特許権者のみが行うことができる。特許権者が特許プールを組織し集積した特許権に基づいて行う共同の意思による権利の行使は、外形上または形式的には権利の行使であっても、権利の行使の実質をもたない。「排除」行為とされるのを避けるために、なんらかの開放性が確保されなければならない。

 特許プールは、同一業界に複数存在し、その間で、特許の集積競争、ライセンスの競争、さらに研究開発競争を含む競争が行われていることが望ましいだろう。

その他の排除行為

 「排除」行為には、違法な計画の一部に知的財産権を流用する行為も含まれる。都立病院の病院用のベッドの仕様入札に、事情に疎い入札担当者に働きかけて自己が実用新案権をもっベッドの仕様を指定させて、他社を入札参加できなくした例がある〔パラマウントベッド事件〕。新しい新聞社が自己の地域に進出するのを阻止するための一連の排除行為の一部として、進出者が使用する可能性のある複数の商標を先んじて商標権出願した例〔北海道新聞社事件〕がある。

検索エンジン等における双方向市場の独占化

 悪手と買手の間にたち、取引を媒介するアマゾンや楽天のような電子商取引の事業者は、デジタル・プラットフォーム(以下、単に「プラットフォーム」とする)といわれる。プラットフォーム事業は、売手を買手に仲介をする事業と、買手を売手に仲介をする事業を接続させるので、それらは双方向市場(もしくは2面市場)といわれる。双方向市場においては、概して、買手側の参加者が増加すれば、売手側の参加者も増え、逆に、売手側の参加者が増えれば、買手側の参加者も増えるという効果が発生しうる(いわゆる「ネットワーク効果」)。そのことから、プラットフォーム事業は、一般に、急速に独占を形成する傾向が認められる。 LineやFacebookのようなソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)は、ユーザーの数が多いことがューザーに大きな効用をもたらすので、このような効果は顕著である。

 検索エンジンも、検索連動型広告により、広告主と買手をつなぐことから、双方向市場のプラットフォームの1つであるが、GoogleやYahooのような検索エンジンが独占傾向をもつのは、直接には、検索技術の卓越性によるものであろう。ユーザーの数が多いのはその結果である。そしてユ-ザーの数の多さが検索連動型広告事業において成功を生み出している。

デジタル・プラットフォームにおける排除行為

 プラットフォーム事業は、ユーザーが増えても、サービスを提供するのに追加的費用がかからないことが多い(経済学に言う「限界費用ゼロ」)。そこで、一方の市場でサービス料を無償としてユーザーを増やし、プラットフォームのユーザー規模を大きくすれば、他方の市場の様々なサービス業者が高い料金を支払ってもプラットフォームに加盟することが期待できる。ユーザーを獲得するための競争は激しく、独占企業でも厳しい競争にさらされる。そのプロセスで破綻し、他の企業に買収される独占企業も少なくない。

 無償で提供される検索サービスは、独禁法上の不当廉売に該当するとはされない。双方向市場の一方でサービスを無償としても、他方の市場で利益を得ており、これは不合理な競争行為ではないとみなされる。無償サービスに、ポイント制を付加して、限界費用以下でサービスを提供する行為もある。このような行為が排除効果をもつとしても、「正常な競争手段の範囲を逸脱するような人為性」を有するかの否かの判定は難しく、独禁法が過剰な規制とならないような配慮が求められる。

 そのようななかで、競争当局は、支配的な検索エンジンが独占力を濫用した疑いのある行為に対しては、独禁法の積極的な適用を行っている。欧州委員会は, Googleが、商品・サービスの価格比較サイトの検索結果の表示順位において, Google系のサイトを上位に表示させるプログラムを組んでいるという疑いで、市場支配的地位の濫用の調査を始めている。
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ポーランド 絶滅政策の記憶

『多文化社会読本』より ポーランドにおける多文化社会の再構築の試み

第二次世界大戦前のポーランドには、総人口約3、000万人のうち、ユダヤ人(ユダヤ教徒、「民族的帰属」としてユダヤ人を選んだ人)は約300万人が暮らしていたが、絶滅政策の結果、戦後のポーランドに帰還したのは20万人にすぎなかった。その多くもすぐにパレスチナや北米に移住したため、その数はさらに少なくなった。普通、移住には主体的な選択が伴うが、ユダヤ人たちにとっては、戦後、ポーランド人民共和国に残る、という選択もまた主体的なものでなければならなかった。親類や友人も、地域のコミュニティも、宗教的コミュニティも、何もかも失っていたからであり、そのうえ、そこは忌まわしい虐殺の地であり、ナチズムは、ポーランド社会に強い反ユダヤ主義さえ刻印して去ったからでもある。熱心なユダヤ教徒の目には、社会主義のポーランドより、北米のユダヤ人社会か、イスラエルのほうが、宗教生活にははるかに恵まれた条件を備えているようにみえただろう。

ポーランドに残ったユダヤ人は、戦時中の経験にもかかわらず「ポーランド人」としての自己認識を保っていた人か、社会主義社会の未来に期待をかけた人々であった。そのため、彼らにはユダヤ人・ユダヤ教徒としての社会的・文化的実践を行う理由も、ましてや絶滅政策の過去を想起する積極的理由もあまりなかった。また戦後のポーランド社会では、現代史は、ナチ・ドイツの苛酷な占領という「受難の物語」と、占領に対する抵抗という「英雄譚」を軸として構成されたので、絶滅政策への関わりという問いに結び付くユダヤ人の存在は、集合的記憶のなかから排除された。冷戦状況のなかで、北米やイスラエルに移住した人々もポーランドという故郷から切り離され、残ったのは虐殺と裏切りの記憶であり、度し難い反ユダヤ主義に刻印された、最果ての「東ヨーロッパ」というイメージだけであった。こうして戦後のポーランドでは、ユダヤ人の姿のあった長い歴史も、絶滅政策の経験も、語られることはなかった。

このような状況に変化が訪れるのは、ようやく1980年代末のことである。1987年には、記念碑的論文が、カトリック・リベラル系の雑誌に発表された。ヤン・ブウォンスキの「哀れなポーランド人がゲットーを見つめている」である。ブウォンスキは、ポーランドの詩人、チェスワフ・ミウォシュの詩、「哀れなキリスト教徒がゲットーを見つめている」に寄せて、こう書いている。

チェスワフ・ミウォシュは、ポーランドの詩に重くのしかかっている浄めの義務について、独特のことばで何度も書いている。「重荷を背負わされ、血で礦された祖国」を浄めることを。機れをもたらすのは他人の血である。自ら流した血、犠牲者の血は、悲しみにせよ、共感にせよ、あるいは敬意にせよ、追想をかきたてる。記憶、祈り、正義を求める。それはまた、いかに容易ではないにしても、赦しを許容する。ところが他人の血はそうではない、正義の戦いで流された血にしても。私たちには正当防衛の権利がある、しかし、それはすでに妥協でしかない。イエスはペトロに剣をおさめるよう言われた……。流された血には、省察、つぐないが必要だ。そして、他人の血はどのようなものであれ、祖国を機し、重荷を背負わせるものだとは言うことはできない。

ミウォシュが考えているのは、自分たちの血のことでも、侵略者たちの血のことでもない。彼が考えているのは、ユダヤ人の血のことであり、大量虐殺のことである。それは、たしかにポーランド国民にその責任はないが、この地で行われ、いわばこの地に永遠の刻印を残している。詩、文学、あるいはもっと一般的に、記憶や集合意識は、この血にまみれた、おぞましい徴を忘却することはできない。あたかも何事もなかったかのように振る舞うことはできない。…時として(特に若い人だちから)、この徴は何の関係もないという声を聞く。連帯責任を負うのはやめようじゃないか、と。取り返しのつかない過去にかかわる必要はないのだ。ほかのどのような不正な行為や野卑な行為を裁くのと同じように、犯罪は全体として裁けば十分なのだ、と。それに対して、私はこう答えよう。祖国というのは、その時々にやってくる客が汚したあとを掃除すれば済むような、ホテルではない、と。祖国は何よりも記憶からなっている。別の言い方をすれば、私たちは過去についての記憶によってのみ、自分自身なのだ。この過去は好きなようにつくり変えることはできない。たとえ、個々人としては、私たちはこの過去に直接の責任を負っていないにせよ。私たちは、それがどんなに不快で苦痛に満ちたものであっても、過去をみずからの中に携えていかなければならない。そして過去を浄めることに尽くさなければならない。

ブウォンスキは、ポーランドの歴史に、ポーランド社会の集合的記憶のなかに絶滅政策という過去を正当に位置づけることを求めたのだが、それだけでも、当時は大きな論議を巻き起こした。ある人々の目には、ブウォンスキの呼びかけが、ポーランド人を道徳的に非難するものと映ったからである。しかし、1989年の体制転換を経て、絶滅政策とポーランド社会の関係を問う議論は、ますます広がりと深まりを増していった。その頂点がイェドヴァブネのユダヤ人虐殺をめぐる議論である。

1941年7月、ドイツが占領分割線を破ってソ連占領地域に進撃した直後、占領分割線のすぐ東にあった小さな町、イェドヴァブネで、ユダヤ人の虐殺事件があった。犠牲者は納屋に押し込まれ、火をかけられたのである。この事件は、1999年に出版されたポーランド出身の歴史家、ヤン・トマーシュ・グロスの著作、『隣人たち』で一躍有名になり、ポーランド社会を二分する議論を巻き起こした。グロスは、ポーランド社会にある反ユダヤ主義を告発し、絶滅政策への積極的な加担を論じることになったからである。生存者の証言からグロスが明らかにしたのは、ドイツ軍による占領の直後ではあったが、この虐殺を主導したのは占領軍ではなく、同じ町に住むポーランド人、すなわち「隣人たち」であったという事実であった。

その後の共同研究の結果、グロスの著作にはさまざまに一面的な部分があることがわかった。グロスが推測した犠牲者数1、500人に対して、400人という数字があげられ、また、事件の原因をポーランド人の反ユダヤ主義に帰して単純化した見方に対しては、イェドヴァブネ周辺地域の政治・文化や、ソ連占領下での地域社会の変化、独ソ戦開戦後の地域秩序の崩壊などを要因として考えなければならない、という意見が提出された。こうして事件を歴史的に理解する道が開かれだのは、全体として、専門家の間で、事件についての「隣人たち」の関与そのものについて、広くこれを認める見解が共有されていたからである。2004年7月、事件の60周年を記念する追悼式典で当時の大統領、アレクサンデル・クファシニェフスキは次のように述べている。

当時、60年前、1941年7月10日、この地で、当時、ヒトラー・ドイツに征服され、占領されていたこの地で、ユダヤ人に対する犯罪が行われました。それはおぞましい日でした。(中略)私たちは確かに知っています。犯罪者、実行者のなかにはポーランド人がいたことを。ここイェドヴァブネで、ポーランド共和国市民が、ほかの共和国市民の手にかかって死んだことは、疑いがありません。このような運命を、人々が人々に対して、隣人が隣人に対して、準備したのです。

60年前、ポーランドをヨーロッパの地図から消し去ろうとする者がいました。(中略)しかし、ポーランド共和国は、ポーランド人の心に生き続けるべきでした。そしてポーランド共和国市民は、文明国家の規範に従う義務がありましたし、そうであるべきでした。ポーランドは、数世紀にわたる寛容と、多様な諸民族、諸宗教の平和的共存の伝統のある国家なのです。人々を狩り集め、殴り、殺し、炎をつけた人々は、ユダヤ人という隣人に対する犯罪を行ったばかりではありません。彼らは、共和国に対して、その偉大な歴史と輝かしい伝統に対する犯罪を行ったのです。

ポーランドにおける絶滅政策については、まだまだ明らかにしなければならないことが多い。その研究は、社会主義時代から存在するユダヤ歴史研究所(かdowski Instytut Historyczny)や、2003年に設立されたユダヤ人絶滅研究センター(Centrum Badari nad Zaglada Zydow)などを中心に着実に進められている。重要なことは、ポーランド史、ポーランド社会の集合的記憶のなかに、絶滅政策の過去が、ポーランド社会の負の関与も含めて、有機的に組み込まれつつあるということであろう。上の演説にみるように、それは同時に失われたものへの関心、失われた多文化社会への志向と表裏一体に進んでいった。
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フランス 「移民」という不安

『多文化社会読本』より フランス共和主義とイスラーム嫌悪

1989年と1994年には、国論を二分するほどに大きな議論となった公立学校のスカーフ問題だが、公立学校における女子生徒のスカーフ着用それ自体は1980年代には広くみられていたといわれ、ことさらに社会問題視されることはなかった。つまり、スカーフが問題視される契機は、ムスリム女子生徒のスカーフ着用それ自体にあるのではなく、それを問題視するようになった社会の側にあることになる。言い換えれば、「移民」の子女であることの表徴でしかなかったスカーフが、ムスリム系住民によるライシテの侵犯にしてフランス社会への同化拒否の象徴と見なされるようになった転機が、1980年代終盤から90年代にかけてあったわけである。

この時期のフランスといえば、戦後の高度成長が1970年代のオイルショックによって終わって以降、経済の低迷が続くなか、内外で大きな社会変化に向き合わねばならなかった。 1981年から始まったミッテランの社会党政権は、経済を立て直すべく種々の社民主義的政策を試みたが、ことごとく失敗して経済の停滞は慢性化した。一方で、東西冷戦は終焉して国際状況が激変するなかフランスの対外的なプレゼンスは低下し、国内では非ヨーロッパ系移民の流入および定住に伴って社会の多文化化が進んだ。他方で、国際的にはEUの創設によって超国家的な地域統合が行われて国家の自律性は低下した。このため「一にして不可分」という固有性を標榜してきた先進的文明国フランスの威信とアイデンティティはゆらぎ、社会不安が高じたのだった。実際、移民排斥と反EUを訴える極右政党「国民戦線」が選挙で得票数を伸ばして一定の政治勢力となり、既存政党も、人気を集める国民戦線のポピュリズムを看過できず、ときに追従すらしていくようになるのがこの時期である。

ここで考えてみたいのは、なぜこうした社会不安がマグレブ系住民というエスニック・マイノリティの排除に転化するのかということである。主流社会と異なる文化をもつとはいえ、居住それ自体が社会的な素乱になるわけでもなく、そもそも政治的な力を発揮できるほどの資格を与えられておらず、多くが社会の底辺で暮らすがゆえに周縁化され、不可視化されてきたマグレブ系住民が、蔑視や差別の対象であることを超えて、フランス(的価値)を毀損するがゆえに駆逐すべき存在と見なされ、公然と社会的暴力を振るわれて排除されるようになる理由はいかなるものなのか。ここに関わるのは、失敗した植民地支配のトラウマと、1980年代終盤から90年代にかけて進展したグローバリゼーションとによって毀損されたナショナル・アイデンティティに対する憐潤的かつ攻撃的な自己防衛であるといえる。

今日ではあまり意識されなくなっているが、往時のフランスは英国に次ぐ版図をもつ帝国であり、アジア、アフリカの所々に植民地をもっていた(海外県はその名残である)。なかでも注力していたのが地中海対岸にあるマグレブ地域(アルジェリア、モロッコ、チュニジア)で、とりわけ1830年に占領が始まり、1847年には抵抗運動を制圧して完全なフランス支配下におかれたアルジェリアは、フランス人をはじめとする多くのヨーロッパ人が入植し、フランスの一部として本土同様の行政単位である県がおかれるほど(モロッコ、チュニジアは保護領)、重要な支配地として位置づけられた。しかし、第二次世界大戦後は独立運動が再燃して激化し、1954年にアルジェリア戦争が勃発して、1962年のアルジェリア独立までに100万人以上の死者を出す壮絶な戦闘が行われた。文明の下賜の名のもとで「善意」として合理化され、推進されてきたアルジェリア支配が被植民地人に根本から否定され、宗主国としての威光や自尊心は粉砕されたわけである。

と同時に、この戦争はアルジェリアだけでなく、フランス本土にもさまざまな内乱を引き起こしてフランス人同士が殺し合うまでになり、深い亀裂を生み出すことになった。フランス国内のアルジェリア独立運動が社会を紛擾させ、在仏アルジェリア人が官憲によって虐殺される事件が生じる一方、極右民族主義者の武装地下組織OAS(Organisation de l'Armee Secrete : 秘密軍事組織)はアルジェリア独立の承認を阻止すべく政権に対してクーデターを企て、政治家やフランス軍・警察に武装闘争やテロを行った。対する政権側も徹底的にOASを取り締まった(OASのメンバーには拘禁刑はもとより、死刑、地位の剥脱、公職追放の判決が下され、海外逃亡する者も出た)。ピエ・ノワールと呼ばれるアルジェリアからのフランス人引揚者は家と財産を失い、父祖の地を追われながらも本国では疎んじられた。アルジェリア戦争でフランス軍に参加したアルキと呼ばれるアルジェリア人は、戦後に渡仏してもフランス社会で隔離されてほとんど顧みられることがなかった。しかもこうした「汚点」と亀裂の総体は、当局によるメディア統制や隠蔽、何よりフランス人自身の否認もあって可視化されることがなく、そのトラウマだけが深く社会に沈潜することとなったのだった。

他方で、フランスの戦後復興を下支えすべく低廉な単純労働力として移入されていたアルジェリア人労働者は、アルジェリア独立によってフランスとアルジェリアどちらの国籍を選択するのか迫られることを皮切りに、変転するアルジェリアとの外交関係にその身分は翻弄された。フランス定住を選んだものたちは、アルジェリアから家族を呼び寄せることは認められたものの、経済の停滞によって真っ先に解雇されて失業が常態化し、市民としての社会的救済を十分に受けることのないまま、高度成長期に建設されて、1970年代の経済低迷後はスラム化していく大都市郊外の低所得者用集合住宅に集住し続けることになった(今日“郊外”と呼ばれているのはこうした地域である)。職場と家庭におおむね生活空間が限定されていたために社会から暮らしが隔離されていた移民1世たちと異なり、フランス生まれの移民2世たちは、生活が地域に深く関わるがゆえに否応なしに社会を多文化化していったが、アルジェリア戦争をめぐる歴史は抑圧され、移民が移入された経緯は等閑視されることで、移民の抱える問題は移民それ自体のせいにされ、移民の居住地域である“郊外”は「移民」--マグレブ地域に出自をもつことや、ムスリムであること、移民であることが渾然と一体化した「他者」の表象である--の流入によって引き起こされる社会問題の温床と一方的に見なされることになったのである(社会問題のエスニック化)。

こうしたなか進展したのが、グローバリゼーションである。グローバリゼーションは、諸国家に経済と流通の徹底的な開放を求め、国境を越えて産業、文化、市場を統合することで、国家から経済を中心とする諸活動の自律的な統制機能を奪っていく。いきおい、グローバリゼーション下で国力を確保しようとする国家は、富力を増大させる企業に好適なプラットフォームと化す経済政策を採ることになる。そして、国家がその経済基盤を国民ではなく企業に重点をおくとき、国家を持続的に成長させるためのリソースであった国民全般の労働生産性の維持と向上は顧みられなくなり、イノヴェイティヴと見なされない大半の国民はコストと見なされて、景気の調整弁にその存在価値を縮減されてしまう。しかも「職」は一般国民にとって経済活動のみならず社会関係の基盤でもあるため、雇用が常態的に不安定化することは、国民に生活不安を抱かせるだけに終わらず、自らが社会から落伍する不安、すなわち、社会的に否定されることへの恐れを生み出すことになる。

こうしたことから、1980年代終盤まではマイノリティでしかなかった移民が、社会の不穏分子に見なされるようになった事態を理解することができる。国家の政治と経済の主体性が外部の力(グローバリゼーションやEUといった超地域的統合)によって脆弱化するとき、先進国の国民であれば市民権(国民権)という社会に存在するための特権--難民を思い浮かべれば、これが特権であることは理解できよう--を平等かつ無条件に与え、保証してくれるという国家の擬制的な超越性を内面化している人々は国家に同一化して、国家の脆弱化とそれに伴う市民権の質の低下をアイデンティティの崩落と感じて不安を抱くことになる。現実に、経済、雇用、治安、社会福祉などの劣化を目にすることで、そうした不安には根拠が与えられてしまう。こうしたとき、移民の流入が地域社会で可視的な(負のイメージの)変化をもたらすと、そうした社会変化は「外圧」による国家の変化とないまぜになり、「移民」は社会を悪化させる「汚染」の象徴となる。と同時に、マグレブ系移民の存在は、フランスの文明国としての威信を失墜させた植民地支配の挫折/戦争の敗北という忌まわしい過去とその責任を突きつけるものでもあったため、二重にその存在は否定されることになった。しかも1991年に、アルジェリアでイスラーム原理主義政党のイスラーム救国戦線が選挙で勝利すると、世俗主義を標榜する軍部がクーデターを起こしてアルジェリアは内乱状態となったが、フランスはこの軍部政権を支持したため、内乱がフランス国内に飛び火し、アルジェリア戦争時を彷彿させる爆弾テロが起きて、「移民」に対する不安・敵視は増幅されることになったのである。

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