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乃木坂のネット配信

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 本が少なくて、スタバでの読書を中止。部屋でゴロゴロしながら、読書。だけど、集中力なく、乃木坂のネット配信にすぐ流れてしまう。
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毛沢東が起こした大飢饉 大躍進政策からの転換

『異常気象で読み解く現代史』より 毛沢東が起こした大飢饉--大躍進政策の「三割天災、七割人災」

「三年自然災害」という責任転嫁

 1960年7月、ソ連との思想闘争は決裂し、中国に在住していたソ連の技術専門家1万5000人が帰国した。海外からの入国者はほとんどなく、中国は国際的に孤立し、他の国々からは何か起きているかまったくわからなくなった。

 同じ時期、1960年の穀物生産量が59年をさらに下回ることが確実視された。しかし、共産党指導部は地方から届く報告により状況を知っていたにもかかわらず、毛沢東の動きだけを見つめていた。毛沢束自身は60年夏をほとんど何もせずに過ごした。実際に起きている惨状に耐えがたく、書斎にこもったままであったとの記録が残っている。

 1960年10月1日、《人民日報》の社説に「直近2年間、全国各地で連続して深刻な自然災害に見舞われた」との記述がみられる。これが大飢饉の発生を自然災害と結びつける最初の見解であった。以後、共産党指導部は大飢饉の原因について、もっぱら「三年自然災害」によるとし、大躍進政策の失敗と切り離す姿勢を取り続けていった。翌年1月の党第8期中央委員会第9回全体会議では、「1959年の深刻な自然災害の後、60年に再び100年に一度の自然災害に見舞われた」と報告された。

 共産党指導部は大飢饉発生の原因を自然災害だと決めつけた後、。ようやく飢饉対策に乗り出した。1960年11月3日、周恩来の主導により、「党中央委員会による農村の人民公社の目下の政策をめぐる問題に関する緊急指示」(通称「12条」)が全国に伝えられた。12条には、人民公社の社員が小規模の自留地を耕して家庭での小規模な副業を行うことを許可する、各方面で労働力を節約して農業生産の第一線を強化する、食糧を十分に用意して公共食堂をしっかり運営する、労働と休息の組み合わせを着実に実施する、腐敗防止を徹底する、といった内容が盛り込まれた。三面紅旗の方針からの転換をはらんだ内容であった。

 12条の緊急措置について、11月25日の甘粛省委員会の報告の中に毛沢東自身の発言が残っている。毛沢束は緊急措置を3度読み、「私自身も誤りを犯したので、必ず改めなくてはならない」と語ったという。

 周恩来と陳雲は食糧不足を補うためには資本主義国から輸入するしかないと考え、毛沢東を説得した。1961年に、オーストラリア、カナダ、ビルマ、フランスなどを相手国として計596万トンの穀物を輸入することとなる。外貨で支払うため、卵や肉といった食糧品から、綿製品や繊維製品に至るまで、香港で投げ売りし、3億2000万ドルを捻出した。

大飢饉対策を立案する中央工作会議

 1961年になると共産党指導部のメンバーは農村に出向き、実態を毛沢東に伝える行動に出た。地方幹部は虚偽の報告をしており、彼らを支持する毛沢束はその報告書を信じていた。このため枢要幹部は直接現地を訪れ、自らの耳目で状況を確認する必要があった。

 2月に周恩来は河北省を3週間視察した。そして、農民は働くだけの体力が残っていない実態を知り、彼らから公共食堂の廃止を考えているといった話を聞いた。

 4月、劉少奇は故郷の湖南省に帰省する際に妻の工光美ら数名と2台のジープで農村を回った。劉少奇が飢饉の現状について農民に話しかけると、彼らは地方幹部を非難した。そして、ある農民は飢饉の原因について、劉少奇に「三割は大災だが七割は人災(人禍)」と語った。

 5月31日の中央工作会議において、劉少奇は湖南省の農民の言葉を紹介した。大飢饉の発生について、一部の地域では天災が大きな原因であったかもしれないが、多くの地方においては政策の過ちや錯誤が主たる原因だと発言したのだ。湖南省の農民による3対7という直観的な比率を劉少奇は重くとらえた。そして、毛沢東が常に口にしてきた「九本の指と一本の指」という比喩への反論を考えていった。

 飢饉への救済策も具体化していった。1961年3月から広州で開催された中央工作会議で、「農業60条」と後によばれる方針が議題となった。2ヵ月間の議論を経て、小平らの意見を組み入れた草案が出来上がった。大型人民公社を分割した上で権限移譲の実施、公共食堂の廃止、家庭副業の拡大が盛り込まれた。

 都市についても課題があった。1949年の建国以来、都市人口が増え続けていたのだ。中央工作会議では、62年5月までに職員・労働者を中心に3000万人を強制的に地方に移住させる方針が決定された。61年1月から6月までの間に、職員・労働者1940万人を含めた都市人口は2600万人ほど減少した。工業労働者数の大幅な減少は工業生産の激減を招き、鉄鋼生産は60年の1886万トンから62年には667万トンに、石炭は同じく3億9700万トンから2億2000万トンヘと激減した。共産党指導部としては、飢饉対策を優先するための方針転換であった。

七千人大会での毛沢東の自己批判

 1962年1月11日から2月7日にかけて、共産党指導部から県レベルの幹部まで集めた七千人大会とよばれる中央拡大工作会議が北京で開催された。会議の目的は大躍進政策の「経験と教訓」を総括するというもので、会議の前半に劉少奇が作った報告書が討議された。

 報告書には大躍進政策の誤りが列挙された。過大な計画指標、経済バランスの失調、過大な食糧買い上げ量、工業や農業での技術面でのでたらめな指導、人民公社での共産主義思想の偏重、都市と農村での人口比率のアンバランスさなどだ。三面紅旗を否定する内容であった。

 さらに工業と農業で生産量が減少した原因について、それまでは自然災害、次にソ連からの債務の取り立て、3番目に政策の過ちをあげていたのに対し、共産党指導部による政策の過ちこそが大きな原因であったとした。まさに、大飢饉の発生原因について「三割が天災、七割が人災」との見解である。毛沢東は河北省、江蘇省では毎年農業生産量が上がっており、成功がわずかばかりとはいえないと反論した。これを劉少奇は一蹴する。失敗はけっして一本の指ではなく三本か、あるいは場所によってはそれ以上だと。そして、三面紅旗は実践する上で「試練」を経なければならないとまとめた。
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ドイツの対米開戦決定へ

『ドイツ軍事史』より ドイツの対米開戦 1941年--その政治過程を中心に ⇒ ドイツはなぜ、アメリカと戦うことになったのか。それもソ連攻撃が失敗したときに。

対ソ戦における緒戦の勝利が、ヒトラーにすでにソ連は打倒されたがごとき楽観を与えたことはすでに記した。しかし、実際には、短期戦の見通しを疑わしめるような兆候が表れはじめていたのである。一例を挙げれば、陸軍人事局長カイテル大将は1941年8月15日に、50日間で1万人、1日に200人の将校が失われたとし、1941年中に1万6000人の将校が必要であるが、補充は5000人しかいないと報告していた。

こうした兆しは現実を先取りしていた。ソ連軍の抵抗にあって、次第に短期戦の見通しは消えつつあったのである。かくて、いままで漠然としか考えられていなかった長期戦が具体的なものとして表れてきた。そこで打ち出されてきたのが、米英が反攻に出ないうち、1942年にもう一度攻撃をかけてソ連を打倒しようという発想であった。ヒトラーの承認を受けて、1941年9月1日に陸海空三軍総司令官並びに外務大臣に配付された「以後の政治的・軍事的計画の基盤としての1941年晩夏の戦略的情勢」と題する国防軍最高司令部長官の覚書をみよう。そこでは、まず対ソ戦で大戦果を挙げたものの、未だ完全にソ連を崩壊させるに至ってはいないことが確認され、41年中に対ソ戦を完了できなかったことが各国に与える影響が考察されている。続いて、今後取るべき作戦について触れられ、イギリスを屈服させる可能性が検討される。しかし、これには困難があることを確認した上でソ連打倒が重要であるとし、以下の結論を出すのである。

「ロシアの崩壊は、他の戦線から引き抜けるすべての兵力を使用して強制しなければならない。次の、決定的な目標である。それは1941年中に完全に実現しない限り、1942年の東部作戦の継続が第一となる」

この覚書に端的に示されているように、ドイツの戦略に残された選択肢は、米英のドイツの背後への攻撃が本格的にならないうちに一刻も早くソ連を打倒することであった。しかし、西方における状況はドイツにとって独ソ開戦当時よりも一層厳しいものになっていた。というのは、41年夏以降のアメリカのドイツに対する姿勢は、「宣戦布告なき戦争」へとエスカレートしていたからである。1941年9月4日、ドイツ潜水艦U‐652は米駆逐艦「グリーア」に追跡され、魚雷を以て反撃した。その規模からすれば単なる小戦闘であったが、この小競りあいは上記の如き状況から単なる偶発的戦闘とはみなされないこととなった。ワーズヴェルトは9月H日に、ドイツ海軍の行動は海賊行為であるとし、この事件を契機として、護送海域においては独伊艦船に対し発見次第発砲すると宣言したのである。こうして、10月17日には米駆逐艦「力1ニー」の被雷撃、10月31日には同「ルーベン・ジェイムズ」の沈没と、一連の遭遇戦が生じ、以後大西洋における独米紛争はより緊迫した状態を迎えることとなる。これに加えて、アメリカの軍備は1942年には完成をみるというかつての情勢判断が、ドイツの国家指導者たちの脳裡に浮かんだであろうことは容易に想像がつく。

ドイツの戦略において、かようなアメリカの参戦への傾斜を抑制する役割を担っていた日本の態度も未だ不鮮明であった。松岡の後任外相豊田貞次郎は、日本は三国同盟の側に立つと言明しながらも、日本の進路について言質を与えるようなことはしなかったのである。そのため、日本が枢軸を離脱してアメリカと和解するのではないかという疑念は、この時期のドイツ外政につきまとって離れぬ問題であった。

以上の状況をまとめるならば、独米の対立は高まる一方であり、それを抑制すべき日本の動向は定かではない。ドイツにとっての諸困難を打開するはずであった対ソ戦の勝利も41年中には達成できそうもない。いわば、ドイツ外政の状況は閉ざされてしまい、取るべき手段を失ってしまったといえる。

かかる状況の下で、それぞれの政策参画者たちの活動もまた従来打ちだしてきた政策を繰り返し主張するのみとなっていた、海軍は米艦船攻撃制限の緩和を言い、外務省伝統派はアメリカの参戦意図について警告する。が、結局は手詰まりなのであり、彼らの活動が新味を欠いていたことは否定できない。こうした閉塞状況をヒトラーもまた切実に感じていた。彼は戦争を有利に展開する決め手に欠けることを自覚していたと思われ、11月19日のハルダーとの会見においては、両陣営とも互いに相手を撃滅することはできないという認識から交渉による平和に至ることが期待されるという退嬰的な情勢判断をしている。

このように他の政策参画者たちが停滞している間、リッベントロップにおいては注目すべき政策の転換が行われていた。彼は日本の対ソ参戦推進から、独米戦争に日本を参戦させることに政策を転換したのである。ペティヒャーのアメリカの軍備は未完成という報告に囚われていたリッペントロップも、アメリカが大西洋において事実上の戦争を仕掛けてくるに至り、独米戦争はもはや不可避であると考えたらしい。その転機は枢軸国艦船に対し視認次第発砲するという前述のローズヴェルト声明であった。9月13日、リッベントロップはオットに指令を出している。そこでは、ローズヴェルトの声明は大西洋での偶発的戦闘から戦争に突入するきっかけを作ろうとする試みであるとされ、かかる挑発から独米戦争が勃発した場合には三国同盟に基づく参戦義務が日本にあることを確認せよとされているのである。この外相の政策転換をドイツの政府内政治の観点からみるならば、対米戦争を肯定するという点において、ヒトラー、リッベントロップ、海軍の政策連合が潜在的に成立したことを意味する。しかも、かかる連合に参加する政策参画者たちの積極性の度合いは様々であるにせよ、この政策連合は、アメリカの参戦政策強化により、妥当性を失っていた外務省伝統派の隠忍自重政策を圧倒したのであった。従って、対日・対米政策をめぐって分裂と競合の様相を呈していたドイツ外政は、この9月のリッベントロップの政策転換によって、密かに対米戦争という針路に向けて再結集していたといえよう。

しかし、ドイツ外政はなおも閉塞状況にある。対米戦争を是認する潜在的政策連合がその具現化をみるには、その状況を開くための環境の変化が必要とされるであろう。かかる変化の動因は極東よりもたらされることになる。日本の政治過程はそれまで混迷を極めてはいたけれども、ようやく開戦という決定を導きだそうとしていたからである(1941年11月2日の大本営政府連絡会議)。だが、11月15日に決定された「対米英蘭蒋戦争終末促進二関スル腹案」によく示されているように、日本の戦争指導は独伊の対英勝利を前提としていたのだった。ために、日本はドイツに向けて積極的なアクションを取り始めるようになる。かくて、外政上のイニシアチヴにおいて、日独はところを替えるのである。
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