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パートナーの仕事の動き方

久しぶりの読書集中

 新刊書32冊持って、7時からの元町スタバです。本当に空いていて、邪魔されない。

パートナーの仕事の動き方

 主人公は彼女だと言うこと。何しろ、行動することよりも提案することを中心にします。そして、成果を求めます。そんなモノが簡単に得られるはずがない。動いてはダメです

 動くのは本当の代表者を相手にした時だけです。そういう彼女らがいかに動けるようにするのがメーカーの組織のできることです。そこにあるのは、動いてもいいんだという確信。

自動運転は技術ではなく、インフラだということ

 青木さんにしても自動運転を技術と捉えています。グーグルなどは社会を変えることを考えています。私は当時からインフラと考えています。いかにインフラを人の為に使うのか。

 そこから出てくるのは、自動運転で10倍の交通量を求めるモノです。反対にすると、車は1/10で済む世界です。公共というモノと個人的なモノを融合させることで、最大限の効率を求めて、いかに生き延びるかです。その前提には危機意識がある。

 あるべき姿が、車から発するのか、地域から発するかで異なります。

エコットのあるべき姿

 今のエコットにとって、最大の課題は「エコ」そのものの活動が広がっていないと言うことから、何か大きなモノが違うのではないかと見直すことです。考えることより、その問題意識をオープンすることです。

環境意識の衰退

 飽和状態に達した半官製商業主義のエコから脱するには。まず、自分たちから考えることです。従来の延長線上からではダメです。存在の力、なぜ、そこにいるのか、から考えることです。

 環境意識があるのであれば、まず、クルマから考えるべきでしょう。豊田市が車の町というのであれば。

 この重層型の社会システムにしても、個人もサービスも出てこない。メーカーの立場で、従来やってきたところから見ている。未来から見ていない。

「読書が格闘技」の意味

 「読書が格闘技」の意味は、勝てば総取り、負ければ従属。まあ、いいとこ取りですね。金曜日に新刊書に群がってくる、ハゲタカはそれだけの覚悟があるのか!

文ちゃんのかき氷はいつも「ミル金」400円

 かき氷にも色々あります。マンゴ-とか台湾風とかあります。もっと、これは工夫出来ます。それ以前に、食べ方を工夫しないと、こぼれます。
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図書館流通センター(TRC)による指定管理者

『歴史に見る日本の図書館』より 今後の日本の図書館 図書館業務の外部化と図書館の将来

図書館流通センター(TRC)

 こうした図書館業務の外部化をリードし、PFI(Private Finance Initiative:民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律:PFI法と言われる)による図書館を新設し、指定管理者として図書館業務の執行者責任を多くの自治体に供給した先駆事例である(株)図書館流通センターの事例を紹介する。

 これより以前に、日本図書館協会(日図協)は、主に公共図書館を対象とした出版物の販売・納入とそれら図書類の印刷目録カードの販売事業を行なっていたが、多額の営業損失が発生していた。この経営状況を打開すべく、公共図書館向けの出版物の販売・納入業務と印刷目録カードの販売を日図協から切り離した。切り離された業務と、一九六一(昭和三六)年に創業し学校図書館を主なマーケットとしていた(株)学校図書館サービスの事業を引き継ぐ形で、出版業界の支援も得て、新たに(株)図書館流通センター(以下TRCと略記)が一九七九(昭和五四)年に発足した。

 TRCは既存の出版流通基盤を原則として尊重しつつ、出版界と図書館界との協力・良好な関係を維持して、公共図書館への専門的出版物流通システムの開発によって流通コストを低減させ、出版物ならびに出版情報(書誌データ)の円滑な供給を図ることを目的に事業を開始した。一九七〇年代末の時点ではまだ公共図書館の新規開館は多く、それらの新規開設館では開館に合わせ出版物とその目録(書誌)データの迅速な納入が求められていた。この要求に応えるには出版流通コストは通常のコストを大幅に上回らざるを得ず、これが図書館側に転嫁されると、図書館サービスは利用者の期待にそぐわないものとなるという状況にあった。

 この課題にTRCはその前身の学校図書サービス時代に蓄積したビジネス・モデルを利用して、新たな出版物納入とそれに付随する目録データ(書誌情報、TRC‐MARC)の納入のビジネス・モデルを採用することで、多くの自治体の要求に応えることができた。このような出版ビジネス・モデル対応は常勤・非常勤を問わず、自治体公務員や、いわゆる司書の馴染んだ仕事ではなかった。そのような仕事は図書館の外部にいるTRCの社員が担当することで可能になることに注目が集まり、人材の派遣が始まったと見ることができる。反対に自治体側から見ると、このようにして派遣されてくる職員は、従来の司書や公務員よりも有効・有能という判断をしたと考えられる。こうして、一九八二(昭和五七)年当時わずかに三自治体で始まった汎用書誌データベースの提供は急速に各地の図書館に広がり、一九九〇(平成二)年には概数で公共図書館八五〇館、大学図書館二一〇館、専門図書館五〇館となっている。

 一方、派遣側では、仮に契約期間が短期で終了しても、図書館は変わっても同一の図書館業務に派遣する等で、職員の業務の熟練度を確保できる。またそのような職員に派遣業者専門の研修も実施することで、職員の更なる能力開発が可能になる。現状でも、児童サービス担当者に保育研修を受けさせたり、出版流通についての研修等、通常の司書の研修や養成教育にはない研修が行われたり、公務員の司書等に比較して能力面での優位性をもつことが特徴である。

 唯一の懸念すべき問題点は派遣される職員の待遇面での問題であるが、業務の外部化事業者において、一定の条件の下での派遣要員の正職員化か実現できれば、この問題は解決できるし、派遣事業の競争が激化したり、派遣要員の相対的不足感が強まれば待遇、給与面での上昇も期待できる。さらに「同一労働同一賃金」実現の動きも着実に前進している。

 このように図書館業務の外部化がこれからの図書館等の世界では増大することが見込まれる。また大学等で図書館専門職(司書)養成教育で養成される人材の就職市場の拡大充実も可能となる。

図書館サービスの実態

 図書館業務の外部化に対して図書館界ではいまだに根深い反対論がある。しかし、日本の図書館界が直面している状況や、図書館サービスがどのように提供されているかの実態をまずよく知る必要がある。図書館での館内閲覧一冊にあたりサービスコストは二七七円、レファレンスサービスとして本の所在の調査を依頼すると、一件あたり九一三円、貸出図書の返却についての延滞督促には一八四四円、講演会や映画会等の図書館の催事に参加すると一人一回当たり一万四九一二円のコス卜が平均で発生している。

 今日の日本の図書館界に関わる者はその立場のいかんを問わず、いかにコストが発生しようと、図書館の利用を奨励し、図書館のサービスの充実・発展を促進することに異論はない。しかし、そのコストを担う図書館を財政的に支える自治体もほとんどすべての自治体で、財政赤字額が増大しているし、さらに自治体を支援すべき国も財政赤字額が一〇〇〇兆円を超えると言われ、財政再建は日本社会の直面する重大な課題となって、我々の前に立ちふさがっている。

 この状況の下では、公的な図書館の運営には抜本的な改革が求められる。それがなければ日本の図書館はいかに利用者がそのサービスを望もうが、崩壊に瀕し、存立しえない。そこでの抜本的な改革の一案が図書館業務(執行)の外部化によるコストの削減である。そして外部化のための条件の整備が社会的にも着々と整備されている現在、これに背を向けて、外部化反対を呼ぶだけで、図書館の明日に期待が持てるであろうか。

 直面している図書館運営上の喫緊の課題は、図書館設置母体の財源が縮小悪化する中で、いかに図書館運営コスト(資料費や人件費がその指標となりうる)を縮小し、優秀な人材を確保し、サービスの水準を維持・向上させるための対策の立案である。突き詰めれば、図書館職員の削減の中で、労働の質を向上させ、人件費を圧縮しながらサービス水準の向上を図ることにある。大学図書館を例にとると、職員の専任・臨時職員の推移は図7-3に示す通り、国・公・私立大学別に見ても、一九九〇年代の後半を頂点に下降に転じ、臨時職員ですらも下降傾向にある。

 特に多数を占める私立大学図書館の職員は二一世紀に入って以降、専任・臨時ともに下降しており、図書館運営上、従来の発想を根本的に変革する必要に迫られている。この図と、先の図を合わせると、図書館の維持・発展を図るためには根本的な図書館運営の方針転換が可及的速やかに求められていることが明らかになる。

 さらに前節で述べたように、図書館業務の中核的基盤をなす書誌調整のための出版物のメタデータの作成∴付与の問題についても、今やJAPANMARCはTRCMARCに代表される民間MARCにとって代わられ、NIIの CiNii Books の今後のサービス体制も先行きが気がかりである。従来、日本のメタデータの基盤を形成した国立国会図書館や国立情報学研究所といった公的機関は、メタデータの作成・提供サービス業から撤退もしくは静観的態度に移行しつつある。日本社会におけるサービス提供事業は官公庁や研究組織より、民間組織による担当が適しているのかもしれないし、国の「標準」は官が定めなければならないとする考え方は根強いが、なによりも職務の遂行主体が官・民のいずれかでなければならないという固定的な見方はもはや時代に合わない。

 今や、既得権益にこだわらず、関係者は事態を直視する勇気を持たなければならない時になっているのである。
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「接客サービス」から高度サービス化

『カフェ・バッハの接客サービス』より

「接客サービス」がなぜ大切なのか

 カフェ・バッハではある意味、コーヒーよりも接客サービスを大切にしてきました。それは、「カフェの役割」を果たすための基礎になるのが、接客サービスだからです。

 接客サービスはたいへん難しいテーマで、私自身、カフェ・バッハを開いて45年以上になりますが、試行錯誤の連続でした。失敗も数多く経験しています。良かれと思った接客が、相手を不快にさせてしまったことも一度や二度ではありません。しかし、私はめげませんでした。カフェにとって何よりも大切な「役割」を果たすためには、接客サービスが必ず必要になるからです。だから私はママやスタッフだちと接客サービスについてとことん語り合い、カフェ・バッハなりの接客サービスを築き上げてきました。当たり前のことが当たり前にできて初めて、その先にあるカフェの役割を果たせるのだと思います。

接客サービスの先にある「カフェの役割」では

 カフェ・バッハでは、自家焙煎のコーヒー、コーヒーに合うお菓子やパンと真摯に向き合い続けてきました。カフェにとってコーヒーやお菓子はとても大切です。実は、私がそれ以上に大切にしてきたことがあります。それがカフェの役割です。

 東京の山谷(現在の台東区日本堤)と呼ばれた場所にカフェを開き、地域の人たちに、また社会に何かできるのか。創業当時は、漠然としながらですが、そんなことを考えながら、日々営業していました。

 そんな漠然としたものを、確固たる考えとして認識することができたのが、1980年のヨーロッパの視察旅行でした。

 フランス、イタリア、チェコスロバキア、オーストリア、旧東西ドイツの国々を見て周りました。これらの国々を周って感じたのは、カフェが人々の生活の一部になっていることでした。

 日本にカフェが登場したのは明治の中頃の1888年で、上野に『可否茶館』が開業したのが最初と言われています。そのもっと以前に、ヨーロッパにカフェが登場しています。古くから受け継がれ、今も愛されているカフェは決して少なくおりません。

 かつてパリのカフェは、市民生活の一部を担い、人々が集ってコーヒーを飲みながら情報を交換し、その中から世論なり思潮を形成するサロン的な役割も果たしていました。

 また、ヨーロッパを周って、美術館には必ずカフェが併設されていることも分かりました。そこでは、コーヒーを味わいながら、絵画について語り合う人たちの姿がありました。カフェが文化と密接に結びついていることに気づかされ、改めてカフェの役割について考えました。

カフェ・バッハを支えてきた接客サービス

 カフェ・バッハは、束京・山谷に開業し、45年以上にわたって営業を続けています。お陰様で、コーヒー自家焙煎店として評価していただき、全国的に知られる存在になりました。

 これまでに雑誌やテレビなどでもたびたび紹介され、地域の人たちだけでなく、全国からもたくさんのコーヒー愛好家の方に来ていただいています。

 これもコーヒーひとすじに一所懸命取り組んできたことが、お客様からの高い評価につながっていると考えています。

 これからカフェやコーヒー自家焙煎店を開業しようと考えている人、また現在それらの店を営業している人にぜひ知っていただきたいのは、今日のカフェ・バッハを支えてきた大きな柱があるということです。それが、接客サービスです。

 コーヒーと接客サービス。このふたつの柱があって、今日のカフェ・バッハがあります。

 カフェ・バッハでは、創業以来、コーヒーと同じように、いやそれ以上に接客サービスを大切にし、力を注いできました。

カフェ・バッハが接客サービスか重要視する理由どは

 カフェ・バッハが、接客サービスをたいへん重要視しているのには理由があります。それは、カフェという業種特性ゆえのもので、お客様の来店動機が希薄であるということです。

 分かりやすいように、車を購入する時のお客様の動機と比較してみましょう。大金を払って購入する車は、なぜその車を選んだのかその理由がはっきりしています。

 例えば乗り心地が良いから、燃費が良いから、デザインがかっこ良いから・・・など購入時の動機がはっきりしています。

 これに対して、カフェを利用するお客様の来店動機は?もちろん、コーヒーがおいしいからというお客様もいるでしょう。しかし、どうしてもその店を利用しなければならない、といった明確な来店動機がいまひとつ希薄なのも確かです。

 それだけに、自店にお客様を呼ぶには、〝ぜひその店へ行ってみたい″と思わせる魅力づくりが必要不可欠になってきます。その魅力づくりの土台となるのが、接客サービスなのです。

「コーヒー1杯で最高のかもてなし」を目指すのはなぜか?

 カフェ・バッハでは、「コーヒー1杯で最高のおもてなし」に挑戦してきました。1人何万円もする三つ星レストランと同じようなおもてなしを目指してきました。

 こうしたやり方を見て、同業者の中には、「1杯500円のコーヒーを売っているコーヒー自家焙煎店が、1人何万円もする料理を提供しているレストランと同じ接客サービスをして意味があるの?」ということを言う人もいます。

 でも、これは少し違うと思います。コーヒーは1杯500円でも、カフェ・バッハを気にいって来店されるお馴染みのお客様は1ヵ月に何度も来店してくれます。仮に2日に一度の割合で来店していただいたとします。500円×15日=7500円 1ヵ月で7500円、2ヵ月で1万5000円、3ヵ月で2万2500円。たいへん大きな金額をカフェ・バッハで使っていただくことになります。

 これは高級レストランに3ヵ月に1回来店されるお客様とほぼ同じくらいの金額になると言えないでしょうか。ということは、1杯500円のコーヒーを楽しみに来店されるカフェ・バッハのお客様も、高級レストランを利用されるお客様も使っていただく金額は同じということです。だから、カフェ・バッハでは、「コーヒー1杯のお客様に対しても最高のおもてなし」ができるように努めています。

基本と個人への接客サービス。サービスには大きく分けてふたつある

 接客サービスには大きく分けてふたつある--カフェーバッハではそのように考えています。

 ふたつの接客サービスとは、基本の接客サービスと個人への接客サービスです。

 基本の接客サービスとは、例えば、挨拶でいえば、「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」「失礼致します」といったものです。必要最低限だが、決して疎かにできない挨拶です。

 店によっては、今日入店したアルバイトの人でもできるようにマニュアルを作って、徹底的に教え込んでいるところもあります。

 カフェ・バッハでも、この基本の接客サービスはたいへん重要に考えて大切にしています。

基本の接客サービスか疎かにすると不公平感が生じる

 個人店でよく見られるケースですが、「個人のキャラクターを生かせばいいだろう」ということで、基本の接客サービスを疎かにしていることです。

 例えば、お馴染みのお客様と話し込んで、初めて来店したお客様にきちんと挨拶しない。本人はまったく気づいていないようですが、これは個人店が地域社会の中で商売していくうえでたいへん危険なことです。

 〝なんで私にだけ挨拶がないの″という気持ちをお客様に抱かせ、不公平感が生じるからです。この不公平感が、お客様を失う大きな要因になります。
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「読書は格闘技」で未唯空間を創出

『読書は格闘技』より イントロダクション ⇒ 2010年からこの言葉を表出している。そして、21000冊と闘ってきて、未唯空間を創造している。

 まず、読者の皆さんに一つ聞いてみたいことがある。皆さんは、本をどのように読んでいるだろうか。例えば、文芸作品であれば、文字を読みながら、頭の中にイメージを作って、作品の世界にどっぷりつかっていく、そんな読み方もあるだろう。著者との対話を楽しむような読み方をする人もいるだろう。ひょっとしたら、朗読する人もいるかも知れない。また、本をとても速く読む人もいれば、ゆっくり読む人もいるだろう。

 本の読み方は実に多様であり、ある種の速読スキルは現代人に必須であるし(興味のある人は「瀧本哲史 速読」でインターネット上で検索してみて下さい)、最近は、オーディオブックという聞く読書もある。ちなみに、オーディオブック最大手のオトバンクは私の投資先だ。

 しかし、本書で私が強調したいのは、「読書は格闘技」だということである。これは、自著『武器としての決断思考』で強調したことでもあるが、書籍を読むとは、単に受動的に読むのではなく、著者の語っていることに対して、「本当にそうなのか」と疑い、反証するなかで、自分の考えを作っていくという知的プロセスでもあるのだ。元々、世の中には最初から何らかの真実があるわけではない。それは、様々な考え方を持っている人達が、議論を戦わせることを通じて、相対的に今の時点でとりあえず正しそうなものが採用されているに過ぎない。今日正しいとされる考え方も、明日には新しい考え方に取って代わられるかも知れない。だからこそ、読書をするときも、自分の今の考え方と、著者の考え方を戦わせて、自分の考え方を進化させるために読むというぐらいの気持ちで臨むのが良いのだ。

 ドイツの哲学者ショウペンハウエルはその著『読書について』で、読書に対して、とても皮肉に満ちた批判をしている。いわく、「読書は、他人にものを考えてもらうことである。/一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く」という主張で、たくさん読書することは、他人の考え方を自分に流し込むだけで、それでは、自分の頭で考える時間を減らしてしまうというのだ。ショウペンハウエルはなかなか辛辣な哲学者で「低劣な著作家の大多数は、新刊書以外は読もうとしない民衆の愚かさだけをたよりに生きているにすぎない」と主に十九世紀に生きた人物でありながら、今日の出版事情を予見しているかのようでもある。

 しかしながら、先述した「読書は格闘技」という考え方からすると、ショウペンハウエルの批判は、一面的だと言える。というのも、私の考える読書においては、著者の考えをそのまま無批判に流れ込ませるのではなく、著者が繰り出す攻撃を読者が受け止めたり、さらには、打ち返したりするからだ。現に、ショウペンハウエルの『読書について』を読むときにも、私はショウペンハウエルの繰り出す「読書批判」攻撃をはね返し、彼の考えを私の中で咀聯して、新たな考えを生むきっかけにしたくらいなのである。つまり、ショウペンハウエルを読むことで、読書の持つ危険性を認識し、ショウペンハウエルの考え方と真逆な「読書は格闘技」という考え方を進歩させることができたとさえ言えるだろう。

 「読書は格闘技」という考え方に立つと、「良書」の定義も変わってくる。普通、「良書」というと、書いてあることが正しいものであり、正しい考え方であると思われる。しかしながら、書いてあることに賛成できなくても、それが批判するに値するほど、一つの立場として主張、根拠が伴っていれば、それは「良書」と言える。私は筋金入りの資本主義者であるが、そうした立場からしてもマルクスは読むに値する「良書」と言える。ニーチエの言を借りれば、「すくなくともわが敵であれよ!」(竹山道雄訳『ツァラトストラかく語りき』「友」新潮文庫)ということである。また、私の研究室時代の指導教官は、その師にあたる教授の論文について、「初めて読んだときは、凄い論文だと感動したが、今では全ての行に反論が書き込んである」と言ってびっしり書き込みの入った論文を見せてくれたことがある。「良書」「良い論文」とは、批判に値し、乗り越える価値があるもののことを言うのだ。

 もう一つ、確認したいことがある。私は、インタビューや、たまに行う講演会で、いろいろな質問を受けて、そのたびにそれなりに質問者に満足してもらえる回答をしている自負があるが、一つだけ答えに窮する質問がある。それは、「好きな本を一冊だけ教えて欲しい」というものだ。というのも、一冊の本がそれほど大きい意味を持つとは思わないし、質問者と私の状況はかなり異なっているから、私にとって良い本がその人にとって良い本である保証はない。そういった質問者は、「一冊の本との出会いで人生が変わる」的なものを求めているのかも知れないが、それは全くの幻想である。さらに言えば、一つの重要な問題に対して、一冊の意味ある本が存在しているとなると、「読書は格闘技」の考え方からすれば、その本はある強い立場を表明している本であるから、それだけに依拠するのは危険である。だから、私はそういう質問に対して、特定の本を挙げたりすることはない。それでも、本書では様々なテーマについて、本を紹介し論評していくことになるだろう。いかにして、この矛盾を解決することが出来るだろうか。

 そこで考えたのが、あるテーマについて、全く異なるアプローチの本を二冊紹介し、それを批判的に、比較検討するという形態で話を進めていこうというものだ。そして、これがもう一つの「読書は格闘技」という意味である。つまり、互いの本が評論の中で、激しく格闘を繰り広げる、そういう組み立てにしていこうと思う。私の役割は第一義的にはこの格闘技のレフェリー、審判であるが、私が読むという行為自体が格闘技であるから、三者間でバトルロイヤルを展開していくということになる。というのも、本の価値はその人の置かれている状況によって、かなり異なるものであるし、同じ本であっても、人生の違うステージで読み返せば、全く異なる感想を抱くはずだ。であるから、一例として、その本との格闘によって、現時点での私の中でどのような気づき、成果があったかを同時にお話しした方が、本書の意図もより明確になると考える。またショウペンハウエルを引くが、「学者とは書物を読破した人、思想家、天才とは人類の蒙をひらき、その前進を促す者で、世界という書物を直接読破した人」との言葉のように、私は学者ではなく投資家として、「世界という書物を直接読破」した話の方が価値があると考えるからでもある。

 最後に、読者と本書との関係についても、述べておきたい。この評論を読むということ自体も「読書」であるから、読者はこのアプローチの異なる本と私との間のバトルロイヤルの観客で終わることを許されない。読者自身が、読書を通じて、この「評論」という名の格闘技に「参加者」として、主体的に関わって頂きたい。つまり、批判的に比較し、それまでの自分のものの見方と戦わせて頂きたい。なかにはすでに読んだことがある本も含まれるかも知れないが、他の本や私との格闘にあなた自身が参加することで、また、新しい学びが生まれるかも知れない。そして、その学びを是非「世界という書物を直接読破」することに役立てて頂くことを切に願っている。
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