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メディアの強い効果 沈黙の螺旋 滋養効果

『政治学』より 世論とメディア マスメディアの世論への影響

フレーミング効果

 一般に、人々はある争点を理解する際に、何らかの枠組み(frame、フレーム)の中で理解しようとする。したがって、どのフレームを用いるのかによって、その人にとっての情報の持つ意味が変わる。ということは、ニュースで聞いた出来事に対する評価も、その人がどのフレームを用いてニュースを理解するかによって変わるということになる。そうすると、同じ事実を伝えても、情報の送り手であるメディアが報道内容をどのようなフレームで報道するかによって、情報の受け手の意見や態度が影響を受けると考えられる。これをフレーミング効果(framing effects)と呼ぶ。

 アメリカのマスコミュニケーション研究者は、そのようなフレームとして数種類を提示している。たとえば、「紛争フレーム」の例では、アメリカ大統領選挙における共和党と民主党の争いを両陣営の紛争としてとらえて、ことさら意見が衝突する側面を強調して報道すると、受け手もそのように理解する。また、「ヒューマン・インパクトのフレーム」は、事件の被害者などに対して共感や同情といった人間性を強調した視点からその問題を報道する際に用いられる。

 情報の送り手であるメディアがどのようなフレームでその問題を報じるかによって、同一の事実でも情報の受け手である人々は異なる世論を形成することになる。たとえば、先に例に出した旧ューゴの内戦の場合も、「紛争フレーム」で報道すると、旧ューゴの内戦をセルビアとクロアチアやボスニア・ヘルツェゴヴィナといった旧ューゴの共和国間の紛争ととらえ、受け手はそれぞれの共和国の利害のぶっかり合いとして理解することになるだろう。だが、先にあげたボスニア・ヘルツェゴヴィナの市場の空爆の報道を、非戦闘員が爆撃で殺されたという「ヒューマン・インパクトのフレーム」で報道すると、セルビアが許しがたい軍事行動をとっているという世論が形成されるだろう。

プライミング効果

 政治学者で認知心理学の研究を取り入れているアイエンガーらによれば、メディアが報道するニュースは、議題設定機能を果たすだけでなく、受け手(一般市民)がどの政治的争点が重要かを判断する際の基準の形成にも影響を与えるという。これをプライミング効果(priming effects)と呼ぶ。たとえば、メディアが政治指導者の業績や政治手腕について報道する際に、外交面における業績(もしくは失敗)にばかり集中してしまうと、ニュースの受け手である市民は、外交面ばかりに注目をして(そのウェイトを大きくして)、政治指導者の評価をすることになる。

 たとえば、G. W.ブッシュ第43代米大統領(2000年に当選)は、外交音痴と言われていたが、彼が大統領としてどのような能力を持っているのかを個々の政策領域ごとに判断するのは、普通のアメリカ人には難しいことであっただろう。そのような中で、2001年9月11日にニューョークの世界貿易センタービルとワシントンD. C.の国防省が同時にテロリストの攻撃を受けた(「9.11テロ事件」)。アメリカのメディアは、テロ直後のブッシュ大統領の愛国心に満ちた声明とテロに対しての強硬な姿勢を、大きく報道した。その結果、大統領の支持率は急上昇した。この例はメディアが意図的にプライミングしたものではないが、当時の多くのアメリカ国民は、反テロのリーダーの側面に焦点を合わせた報道(プライミング)から大統領の評価をしたのである。

沈黙の螺旋理論

 議題設定機能と同じく、1970年代に新たな強カ効果論の理論の一っとして登場し注目を浴びたのが、ドイツにおける世論研究の大御所ノエル=ノイマンの「沈黙の螺旋」(the Spiral of silence)理論である。彼女は、長年の世論調査データ分析の経験とコミュニケーション研究の理論的研究の蓄積の双方から、個々人は自分の意見が世間の大多数の人々の意見と異なると感じた場合、孤立することを恐れて沈黙してしまう、という理論を提示した。すなわち、メディアがある問題を報道し、さらにその問題に関してその社会の人々の意見分布を紹介すると、自分の意見が少数派だと感じた人は沈黙し、その結果ますます多数派の意見が強く報道されるよりこなるというメカニズムを、「沈黙の螺旋」とノイマンは呼ぶ。この沈黙の螺旋理論は、ある意味ではメディアの議題設定機能の一つの側面を強調した理論とみなせるので、新強力効果論の一理論としてとらえられた。

 たとえば、アメリカは2001年の「9.11テロ事件」後に、テロ攻撃を行ったタリバン勢力をアフガニスタンから武力的に駆逐したが、2002年になるとアメリカはテロ支援国家として、イラクに対して武力攻撃を行い、フセイン政権を崩壊させた。ヨーロッパや世界各国はアメリカのテロ勢力との対決は支持したが、イラクヘの武力攻撃には慎重な姿勢を示していた。しかし、アメリカ国内では、対テロの外交政策ではブッシュ大統領の支持が高く、反対を唱えることが難しくなっている状況だったと伝えられる。このような多数派の意見の前で少数派が沈黙してしまう状況が、ノイマンの主張する「沈黙の螺旋」現象である。

 この「沈黙の螺旋」理論によれば、軍国主義国や、全体主義国において、その政府の方針に対して疑念をいだいた個人がいたとしても、反対の声をなかなかあげられないのは、政府による弾圧への恐怖からだけではない。その社会全体の大多数が賛成している方針には声をあげて反対を叫ぶことが難しいと考えるのである。第二次世界大戦前から大戦中のドイツや日本で、政府の方針に内心は反対だった人がいたにもかかわらず、声に出せずに沈黙してしまったのはこのためでもあったと考えることもできる。

 「沈黙の螺旋」理論を突き詰めて考えると、情報の受け手である一般市民は、自分の意見がその社会の多数派と異なってしまう場合に、その社会の中で孤立し、何らかの不利益を被る(たとえば、就職ができない、会社の中での昇進が止まるなど)と考えるので、多数意見に同調すると考えられる。そうすると、「沈黙の螺旋」によって自分の意見を多数派に同調させる市民は、合理的に状況判断をしている市民ともいえる。彼らはメディアを、世間の多数派の意見分布を示す窓(もしくはモニター画面)のようにとらえているのだろう。

メディアの滋養効果

 1970年代以降の新たな強力効果論の中でも、メディアが人々へ与える影響が、短期的なものではなく、長期的なものであるとしたのが、「涵養効果」(cultivation effects)論である。これまでに見てきた新強力効果論は、「議題設定機能」理論、「フレーミング効果」論、「プライミング効果」論のどれも、ある程度短期的にメディアの影響が人々の政治的態度や意見に影響を与えると考えてきたものである。それに対して「涵養効果」論は、長期的な影響を想定した理論である。また涵養効果の研究は、メディアの中でもテレビの影響に注目したのであった。

 アメリカのガーブナーらは、1970年代に、長期にわたってテレビを長時間見ていると、ある一定の価値観を身にっけることになるのではないか、という仮説を示した。彼らはこの涵養効果の研究を長らく続けたが、テレビのニュースやドキュメンタリーなどの報道番組ではなく、主にドラマ番組に焦点を合わせて、どのような内容を放送しているかを分析したにのょうな分析を内容分析(content analysis〉と呼ぶ)。その結果、アメリカのテレビドラマには現実社会よりもずっと暴力行為が頻繁に出てくることが統計的に示された。さらに、ガーブナーらは視聴者の意識調査を行い、長時間テレビを見ている者の方が、短時間テレビを見ている者よりも、自分が実社会で暴力に巻き込まれる可能性が大きいと考える比率が高いことを示した。このように、テレビは人々の社会に対する認識に長期にわたって影響を与え、ある程度はその認識を形成していると考えられたのである。

 そのように考えると、長年にわたって、ニュース報道で汚職に手をそめる政治家ばかりを見てきた日本の有権者が、「ずるい、汚い」という政治家像を形成してきた可能性はあるだろう。
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「市民社会」論のリバイバル

『政治学』より 市民社会と国民国家 「公」と「私」

近年、「市民社会」(civil society)という言葉が政治学のさまざまな領域で言及されるようになった。欧米先進国、旧社会主義国、また非欧米諸国や第三世界における市民社会の有無、その性格や成熟や衰退の度合いが分析され、また市民社会の可能性や限界が論じられるようになったのである。しかしながら、市民社会とは何か、ということに関しては、論者によってかなり意味するところが異なり、またこの言葉そのものが長い歴史を持つことも加わり、いささか議論が迷走気味である。大ざっぱに述べれば、現在盛んに用いられる市民社会の観念は、一方におけるばらばらの個人、他方における政府または国家とを媒介する位置にある特別な領域、具体的には、市民団体、宗教団体、労働組合、利益集団、大学、親睦のためのクラブ、スポーツや文化や趣味の会といったさまざまな団体(典型的には自発的結社)のネットワークを指す場合が多いと言えよう。また、通常は家族は市民社会の中には含まれない。市民社会とは、権力を媒介とする支配服従関係と乱また個人的な愛情を基礎とする家族関係とも異なる、独特な人間関係が存在する場である。ただし、のちに詳しく見るように、論者によっては、市民社会を構成する要素として何を選ぶかの基準が微妙にずれているため、実際のところ市民社会と呼ばれるものの外延はあいまいである。

だが、市民社会という言葉が意味する対象はさまざまであっても、市民社会が論じられる文脈にはある共通項がある。その文脈において、まず第1に、市民社会とは、政府や国家から(少なくともある程度までは)独立した別の領域であり、政府との関係において、それをコントロールしたり、支えたり、時には鋭く対立したりするものと想定されている。また第2に、市民社会とはばらばらの個人を何らかのかたちで束ねる単位であり、そのためある種の公共的機能を担うものと想定されているのである。

近年における市民社会論のリバイバルの一つのきっかけは、旧東側諸国における民主化運動において、市民社会の観念が一つのキーワードとなったことである。反体制派によれば、旧東側諸国の共産主義システムとは、国家と党がその官僚機構によって社会のあらゆる領域を支配・統制するものであった。このような共産主義国家が打倒されたのちには、封じ込められてきた市民社会の再建が急務であるとされたのである。東欧諸国の民主化運動における市民社会の観念は、西洋のマルクス主義者(またはポスト・マルクス主義者)の関心を刺激し、共産党と労働組合を中核にした旧来型の運動ではなく、より広範な市民社会の動員による新しい社会運動を模索するという方向が示された。

しかし、さまざまな集団が自由に活動することが政治にとってきわめて重要であるという認識自体は、実のところ、マルクス主義以上に、むしろ自由主義の伝統の中で育まれてきたものである。その中でもとりわけ権力の多元性を重視する自由主義的な理論が、国家への一元的な権力集中を阻むものとして期待をかけてきたのが、自立性の高い結社や集団の存在にほかならない。そのため、今口における市民社会の観念は、現代のリペラル・デモクラシーにおいて、さまざまな集団の活動がどのような可能性と限界を持つかを見極めようとする論者がしばしば用いるものともなっている。しかしながら、先にも述べたように、市民社会という言葉自体の歴史は古く、しかも代表的な政治思想家がこの言葉に独自の意味を盛り込んできた。現代の市民社会論が市民社会とはそもそも何かをめぐって時に紛糾するのも、この言葉が歴史的に獲得したさまざまな要素が一緒くたに扱われているからだと言える。ここでは代表的な市民社会観念を四つに分けて、簡単に整理しておくことにする。

政治社会としての市民社会

 そもそも、「シビル・ソサエティ」のもとになったラテン語は、もともとは政府と区別されるものどころか、政治共同体やポリスとほぼ同じものを指すものであった。この用法の歴史は長く、ロックの『統治二論』においても、シビル・ソサエティとは、要するに「政治社会」のことであった。ところが、問題はやや複雑で、言葉の使い方は伝統的でも、口ックの議論には今日の市民社会論に通じる要素がなかったわけでもない。というのも、ロックにとってシビル・ソサエティとは市民の契約に基づいて形成された団体であり、彼の議論には、このシビル・ソサエティの合意に違反する政府の政治権力を厳しく批判する、という観点が含まれているからである。

市場秩序としての市民社会

 こういった「政治社会」としての市民社会という概念を決定的に変容させたのが、ヘーゲルの「市民社会」(biirgerliche Geselleschaft)観念であった。ヘーゲルは国家の全体秩序を「家族」「市民社会」「国家」の三つに分け、市民社会を「欲求の体系」「司法活動」「職能団体」の三つから成るものと規定した。中でも注目すべきは、ここで市民社会が「欲求の体系」と規定されたことである。欲求の体系とは、そこにおいて、各人が自由に自己利益を追求することのできる領域のことであり、明らかにアダム・スミスらによる市場秩序モデル(市場における財と労働力の自由な交換が、総体としては秩序を生み出すとみなす考え方)をもとに定式化されたものである。市民社会は、資本主義的なシステムと密接に結び付いた社会という新たな意味を帯びるようになったのである。

マルクス主義における市民社会

 ヘーゲルによる市民社会論はマルクスによって批判的に継承され、市民社会は、共産主義革命によって克服すべきブルジョワ社会のことを意味するものとなった。ただし、20世紀前半のイタリアのマルクス主義者グラムシのように、むしろある種の市民社会が社会主義的な変革のための基盤になることを示唆する論者もおり、これが先にも述べた西洋の市民社会の多様性マルクス主義者の市民社会論に決定的影響を与えることになる。

市民的団体の集合体としての市民社会

 現代の市民社会論は、市民社会をさまざまな団体の集合体とみなす場合が多い。団体の重要性に着目した議論は無数にあるが、中でも代表的なものの一つがトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』である。そこでは、政治的団体のみならず、市民の日常生活にかかおる大小さまざまな団体(「市民的団体くassociation civile〉」)がいかにアメリカのデモクラシーを健全に維持するのに寄与しているかが多角的に分析される。トクヴィル自身はそれらを市民社会と総称したわけではないが、その分析視角は今日の市民社会論(とりわけアメリカで展開する市民社会論)のそれにかなり近いものである。

市民社会の観念がこのように歴史的に見てきわめて多様であるため、今日の市民社会論も市民社会の定義づけに関して、必ずしも一枚岩ではない。最大の論争点は、市民社会というカテゴリーに、企業活動(個人や家族による小規模経営であれ、株式会社のような大規模経営であれ)を含めるかどうかという問題であろう。ヘーゲル的な市民社会概念からすれば、企業活動はまさに市民社会そのものと言えるところだが、現代の市民社会論は、私企業の諸活動を市民社会の枠の外に置こうとする傾向か強い。というのも、そこではしばしば、市民社会とは国家と市場(とりわけグローバル化する市場)に対抗するだけの潜在的な可能性を持つ、いねば第三のセクターとみなされているからである。これに対しては、市民社会とは要するに家族と政府とを除いたすべての領域を総称するもので、経済活動を通して形成されるさまざまなネットワークを市民社会から一律に排除するのは問題であるという異論もある。
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大連図書館の成立

『図書館をめぐる日中の近代』より

図書閲覧場

 一九一〇年七月、付属地に住む社員・居留民の教育文化施設として、図書館を沿線各地に設置する計画が立てられ、九月に図書閲覧場規程が制定された。十一月に遼陽・奉天・長春・公主嶺・瓦房店・大石橋、翌年一月に安東・鉄嶺の、合計ハカ所の図書閲覧場が相次いで開設された。

 図書閲覧場は「町の書斎」として在満邦人に親しまれ、以後も図書閲覧場は沿線各地や大連市内に続々と開設された。図書閲覧場規定制定から十年を経た一九一九年には十九館に達し、最盛期満鉄図書館網の大半がこのころまでに形成されたことになる。

 こうした発展を受け、図書閲覧場は一九一七年六月に簡易図書館と改称され、二二年六月からは単に図書館と呼ぶようになった。

調査部図書室

 一九〇七年四月、調査部(翌年、調査課と改称)図書係管理の図書室が設置された。満鉄が調査事業を重視していたことが、創業の翌年に早くも図書室を作り、資料収集の体制を整備していたことからも理解される。

 図書室設置・運営の責任者が、調査部の担当理事岡松参太郎である。岡松はかつて京都帝国大学付属図書館の創設に関与していて、図書室開設の際にも、自ら図書の整理にあたったといわれる。

 図書室は設置当初は満洲資源館三階の一室にあったが、一九〇八年の本社社屋の移転にともない、本社の一室に移転した。しかし所蔵資料の重みで床板が下がり危険になったため、本社内の別室に再移転した。その後も収集資料は年々増加し、満鉄本社第一玄関前に書庫を建設することになった。書庫は二階・地下一階建て総建坪百十八坪(約三百九十平方メートル)。内部には六層構造のアメリカスニード社製書架を配していた。一二年十月に起工し、一四年一月に竣工した。

図書室の資料

 図書室所管の資料には普通図書と専用図書の二種類があり、このうち普通図書が図書室の資料だった。専用図書は社内各課や学校などの諸施設に職務上必要な図書で、図書閲覧場の巡回書庫と常備図書が含まれていた。

 図書閲覧場規定によれば、図書閲覧場の図書には、巡回書庫・常備図書・臨時備付図書の三種類があった。巡回書庫は地方課の要求により、調査課が編成し、一定期間回付された。常備図書・臨時備付図書も同様に、地方課の要求によって調査課から配布された。

 つまり図書類の注文・管理など一切の事務を調査課図書係が担当し、図書閲覧場側は施設の管理だけを受け持っていた。これは所有図書類の一元的管理を目的とした、会社の方針に基づくものだろう。しかし図書館にとって資料は施設以上に重要な要素であり、図書閲覧場に購入資料の選定などの権限がないことは、かえって不合理だった。

 他方調査課としても、その本来の職務を外れた一般的な内容の図書類を含む会社全体の資料の管理は、重荷だったと思われる。普通図書の専用図書をはるかに上回る増加は、調査課には余計な負担増だった。また資料の購入は調査課が一括しておこなうべきであるのに、撫順炭坑のような業務が活発なところでは、資料の直接購入がおこなわれていて、会社側が意図した図書類の一元的管理は事実上破綻していた。

 満鉄の図書館は、施設の数から見ると創業初期から充実していたが、運営上では改善すべき課題もあったといえる。資料の購入や管理のあり方については、見直しを求める声も強かったと考えられる。だがこれは地方課と調査課という、異なった部署にまたがる所管業務の調整であり、実務者レベルでは処理のできないことだった。この問題の解決には、会社上層部の合意と、それを促す背景が必要だった。

書庫の新築

 前述のように、調査課図書室の書庫の建設が一九一二年十月に着手され、一四年一月に竣工した。書庫建設に至った事情は、所蔵資料の増加により収蔵スペースが不足するようになったこと、また「将来図書館トシテ公開スルノ基礎ヲ作ルヘクー大図書館ヲ建設スルノ計画ヲ立テ」たことによる。

  これは一九一〇年代の初頭(明治末年)に、大連市内本社前に大規模図書館を設立する構想が社内で検討され、一定の合意が形成されていたことを示す。この場合の図書館は、おそらく調査課図書室を発展させたもので、社員以外への公開も多少は想定されていたと思われる。

 実際、書庫完成後「社員閲覧ノ傍ラ社外ノ一部閲覧者二其ノ便宜ヲ与へ」、社外の利用者が書庫内の資料を利用できるようになった。また二九一四年十月から夜間と日曜開館を実施し、利用者へのサービス向上が図られた。

 しかし部外者の書庫内資料の利用は、前記のように「社外ノ一部閲覧者二其ノ便宜ヲ与へ」たもので、満洲研究者などごく少数の人たちに限定されていたと思われる。なぜならば閲覧室の建設はその後一九一八年十一月に始まったのであり、一四年竣工の書庫は閲覧者のためのスペースが十分に確保されていない、文宇どおりの「書庫」だった。

 つまり書庫建設の時点では、会社はその全面的な公開を予定していなかったと見るべきだろう。ところが一九一八年一月の会社分掌規定改正によって、調査課図書室が図書館となり、同年十一月に閲覧室増築工事が着手されたことで、公開へと大きく舵が切られた。すなわち一〇年代の半ば以降に、満鉄社内で調査課図書室の位置付けをめぐって方針の転換がなされたと考えられる。

一九一八年の分掌規則改正

 一九一八年一月、満鉄は調査課図書室を図書館として独立させ、調査課図書係と地方課教育係を一体化する、会社事務分掌規定の改正をおこなった。この改正によって、従来調査課図書係が担当していた図書類の購入と管理に関する事務と、地方課教育係が担当していた簡易図書館と巡回書庫に関する事務を、あわせて図書館が担当することになった。

 この機構改革を受け、同年十一月に閲覧室の増築工事が始まり、翌一九一九年九月、竣工した。閲覧室は建坪七十二坪(約二百三十八平方メートル)、百席の一般閲覧室、十席の特別閲覧席、新聞閲覧室からなっていた。閲覧室工事が竣工した九月に図書館規則が制定され、十月一日から大連図書館公開が始まる。

 図書館独立時の職員数は十四人(職員六、雇員二、傭員六)で、これが公開時には六十人(職員七、雇員十三、傭員四十)に増員された。また初代の館長には、第二代の調査課課長であった島村孝三郎が就任した。

 蔵書数は一九一八年度末で四万一千四百五十六冊(和漢書三万六千三百六十一冊、洋書五千九十五冊)であり、調査課図書室の普通図書の大半を受け継いだものとみられる。大連図書館の蔵書数はその後着実に増え続け、三七年七月には二十一万五千六百四十五冊を数えるに至り、アジア有数の規模となる。

大連図書館の利用状況

 表16は一九二〇年度の大連図書館、ならびに大連市内各簡易図書館の蔵書冊数と閲覧者数である。大連図書館が他の簡易図書館に比べて蔵書数については群を抜いた存在であるにもかかわらず、閲覧者数では大きな差がないことがわかる。これは公開初期の大連図書館の蔵書のほとんどが旧調査課図書室所蔵の資料であり、一般向けではなかったことが理由だろう。

 閲覧者の内訳を見ても、簡易図書館では女性・児童の閲覧者が多いのに対し、大連図書館は女性閲覧者は極めて少なく、児童の利用はできなかった(ただし、図書館規則では児童の利用制限を明文化してはいない)。また「その他」の閲覧者が多いが、その大半は閲覧席目当ての学生だったと思われる。

 学生たちの来館の目的は、図書館の資料ではなくその閲覧席を使っての受験勉強にあった。試験期に学生の利用が増える傾向は、開館初期にすでに現れていて、閲覧席を占拠する学生に対しては、会社内からも一般の利用者からも強い不満が集まり、一九三六年四月から中等学生以下の入館が禁止になった。

 表17は大連図書館公開前後の、同館と大連市内各簡易図書館閲覧者数の推移である。大連図書館公開のあおりを受けて、他館の利用が激減するようなことはなかった。むしろ大連図書館の公開、埠頭簡易図書館の開館(一九一九年八月)というサービス拠点の増強によって、市民の図書館利用が一層盛んになった様子がうかがわれる。その意味で大連図書館の公開は意義あることだった。
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民主主義ステージⅡ

『EU騒乱』より

民主主義の出口の後には何かあるのか? 民主主義である。

一九世紀から二〇世紀、遅れている世界に「西洋文明」の光を与えるという名目のもと欧米諸国が「民主主義」を広めた。その民主主義は、パッケージになった完成品として、まるでかつての宣教師が説いた「神の福音」のごとく伝播された。

しかし、民主主義は、絶対の神の言葉ではない。人が試行錯誤を続けながらつくり出していくものである。たとえば、戦後アメリカから日本に入った民主主義は、あくまでも、「一九四五年から五〇年頃のアメリカの民主主義」であるにすぎない。つねに問いかけがおこなわれ、改良されていくシステムである。封建制や独裁制・全体主義……みごとに秩序が固定し治安が維持された時、つまりその模索ができなくなった時、民主主義は機能不全に陥る。いまそこにあるシステムが不完全だからといって「民主主義は終わった」というようなものではない。それは、ただ単に一つのステージが終わって、新しいステージに入ったというだけのことである。

欧州で顕著になったエリートと民衆の乖離は、民衆が「お上」に従う「下々」であった時代の民主主義ステージⅠの限界を示している。それは、同時にステージⅡへの新しい模索でもある。

ステージⅡが具体的にいったいどのような形になるのかは、まだわからない。ただ、はっきりしているのは、人類の歴史は、人間の数が増えた歴史だということである。ここでいう人間とは「生まれながらにして自由で、尊厳と権利とについて平等である」(世界人権宣言第一条より)者のことである。

ついでに述べておきたいが、権利には「在る」権利と「持つ」権利がある。「持つ」権利は獲得するものであって「義務」と表裏一体である。だが「在る」権利は先天的に備わっているもので義務とは関係ない。基本的人権とはまさにそういう権利である。

その昔、こういう人間は、ただ一人君主だけであった。それが貴族全体に広がり、さらに家柄とは関係のない資本家など社会のエリート層に広がった。そんな中で第一次世界大戦は、素朴な、しかし根本的な疑問を投げかけた。戦場では将校も兵卒も区別なく大量の血を流した庶民が、なぜ平時にはエリートたちと同じ権利を得られないのか? 解決を見ないまま、再び戦争が始まってしまった。

いま人類は誰でも人間になった。いま民衆には教育もある。十分に理性を備えている。たしかに学校へ行って習う「知識」はまだエリートにはかなわないだろう。だが、エリートが失った「知恵」はもっている。

「人間」全体が参加できることが、出口のあとの民主主義ステージⅡにおいて不可欠であることはまちがいない。

なお、全員参加というと、最新テクノロジーを使って、なんでも直接民主主義にすればいい、という意見も出てくるが、私は違うと思う。人々はみな仕事など社会の持ち場で忙しくしている。そうそう政治ばかりに構ってはいられない。それに、エリートがつくった巧妙な罠を見破ることは難しい。また、マーケティング、コミュニケーション技術が相当に発達している現在、人の心を操作するのは簡単である。そもそもテクノロジーはあくまでも道具にすぎない。テクノロジー以前に、それを使う者、発信者受信者の質が問題なのである。

はっきりしていることがある。

グローバル資本主義の「スーパー国家」は民主主義ステージⅡではない。

近代の科学信仰と世界情勢のために生じた経済と政治の関係についての人類の勘違いの到達点であるにすぎない。

アダム・スミスが「国富論」を発表した一七七六年、アメリカが独立した。一九世紀には欧州全体に民主主義が広がる一方で、マルクス、エンゲルスが経済と政治が表裏一体の思想を生んだ。資本主義でも経済学と政治の結びつきはないわけではなかったが、冷戦でマルクス主義に対抗してその傾向が深まり、とくに冷戦の終り頃一九八〇年代には、レーガノミクスやサッチャリズムでまったく共産主義国とかわらない表裏一体の関係になった。ソ連の崩壊はなによりも経済の勝利ととらえられ、その後のテクノロジーの発達とともに経済が思想そのものとして支配するようになってしまった。これがグローバル資本主義のスーパー国家、フランスでいう「リベラル」の帝国である。

この帝国が発達するにつれて、中産階級を厚くする方向に進んでいた資本主義の発達は中断し、ふたたび格差が拡大していった。人権は、連帯の第三の人権から、自由を偏重する第一の人権に戻り、経済学でも分配の問題は忘れ去られ、成長だけに逆戻りした。世界は人権を享受する「人間」(お上、エリート)と「それ以外」(下々、民衆)に分かれていることがあたりまえの時代に退化した。

経済に支配されたグローバル資本主義の「スーパー国家」(「リベラル」帝国)は、連帯なき競争原理、他人を蹴落としてでも勝とうとするエゴイズム、融和ではなく排斥の論理に支配された世界である。優等生は劣等生を軽蔑し、憎悪を生む。

そもそもこの帝国には、「人間」がいない。そこでは、「消費者のために」とは言うが、「人のために」とはいわない。大衆は「人間」ではなく、「消費者」であり、生産においては「人件費」というコストのかかる部品でしかない。「人間=民」のいないところに「民主主義」があるはずがない。
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母の日の柏餅


 今日は「母の日」ということで、出る前に奥さんに柏餅を買ってくると言ってしまった。産直では3つで360円です。一応、補助用に買った。豊田市内の和菓子屋は1個170円で粒あんしかなかった。近所の和菓子屋で1個150円で粒あんとこしあんがあったので、こしあん2個と粒あん1個買った。

 奥さんが食べ比べたら、和菓子屋の法がはるかにおいしかった。同時にスタバの420円のケーキよりもこちらの方がいい。これから誕生日には和菓子にしましょう。
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