日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

石臼に想う

2015年11月14日 | 回想
 
 ある史料館の軒下に、昔の農機具が無造作に置かれている。その一角に「餅つき臼」と「碾き臼」が幾つも並べられていた。どちらも我が家にもあった道具で珍しくはなかった。ただ一つだけ目を見張ったのは大きな碾き臼だった。その大きさは、直径が家庭用の3倍近く、長さでいえば1メートルは優にある。重さの想像はつかないが、下の臼は上に比べ少し薄いがとにかく上下がそろっている。
 
 大豆や麦を粉にするとき使った石臼(碾き臼)、昔は貴重な道具の一つとして多くの家にあったように思うが今は資料館などで見かける程度になった。構造は上臼と下臼の2段重ね、粉にしたい物の投入穴が上臼にある。投入すると上臼に取り付けてある回転用のハンドルを回し、上下臼の間ですりつぶして粉にしていた。子どもでも手伝えたが、重くて長い時間は無理だった。

 上臼の下側、下臼の上側にどんな仕掛けがあったか記憶していないが、溝のような筋があったと思う。今は工場の製粉機械であっという間に大量の製品が得られる。いま思えば手間のかかる加工品を作っていたことになる。しかし、石臼のよさは、食品の成分を高い温度で壊したり、加工中に急速酸化させることがないので、その物の栄養素を破壊しないという。食品の味やコク、香りを最高に引き出せる理にかなった道具ということになる。

 軒下の大きな石臼は人の力では使いこなせない。牛か馬かに曳かせたか、水車の力を利用して粉という加工品を作っていたのだろう。その大きさや動かす力などから大掛かりな仕掛けだった。今は用を終えた石の塊と思えばそれまでだが、一つの集落が協同で大切に守り通した貴重な遺産にも思える。ユネスコには見向きもされないが、農業や協同を考える原石かもしれない。
コメント
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