格別の用事がなくて街を歩いていると「散歩ですか」と声を掛けられることがある。散歩は気晴らしや健康のためにぶらぶら歩くこと(広辞苑)と載っている。気晴らしに歩くのはふさいだ気分を払いのける意味になる。自分はよし歩こう、という気分のとき健康的な意味で歩いている。
通りなれた道でも周囲を観ながら歩く、何かあると写真を撮っておく。それは町かどという写真のカテゴリーに残したり、迷惑にならない範囲でブログの題材にしたりと勝手に楽しんでいる。たまには投稿を促すような場面にも出くわす。こんな「ぶらぶら、ふらふら」歩くことを「フイールドワーク」とかっこよくいい表す人があるという。ただ、興味だけの歩く姿には不似合いだ。
いつも北から南へ向かって右側を歩く通りも、その逆を歩くと趣が変わる。だから散歩する区域は決まっているが道順は決決めていない。お稲荷さんの赤い幟に肩をなぜられながら歩く。その反対側を歩きながら眺めると幟と鳥居が1枚の絵に見える。シャッター通りも眺める側で通りの様子に違いを感じる。しかし、どの通りも復活を思い起こさせる姿は見かけなくなった。
人の営みが直接かかわらない公園は、長い年月、四季に合わせその姿を変化させる。その公園にやって来る野鳥は「四季それぞれの野鳥がやってきて楽しませてくれる」と野鳥を観察し、それを撮る知人は話す。今朝、閉まっていたシャッターが開き内部で改装らしき作業がされている。どんな鳥が飛んでくるのか、そこは遠い昔にお世話になったDPE店だったと思う。