みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

務めの前に

2020年01月25日 | レビ記

レビ記 8章1−13節

 近所のスーパーでいちごが小さなパック99セントで売っていました。色も形もよいのですが、味は…? 以前同じようなものを買って「裏切られた」ことがありますので、ドキドキしながら食べてみたところ、美味しかったです。そこで、さらに2パック買い求めました。

 レビ記8章から10章にかけては、祭司がその務めのために聖別されることについて、神が命じられたことが記されています。 大祭司の務めはモーセの兄であるアロンが、そして祭司の務めはアロンの子らが行うものとされていました。神はアロンとアロンの子らが大祭司、そして祭司の務めを行う前に、周到な任職の儀式を行うようにお命じになったのです。

 この任職の儀式には全会衆が集められました。なぜなら、大祭司や祭司の任職はイスラエルが神の民として歩むうえで、大きな意味を持つべきものであったからです。水で洗われ、大祭司の装束を一つ一つ身にまとっていく様(さま)を、そしてアロンの頭に油を注がれるのを、民はどのような思いで見ていたのでしょうか。 出エジプト記28章2節では、大祭司の装束は神の御前に立つ者としての「栄光と美を表す聖なる装束」と言われています。

 大祭司や祭司が務める幕屋もそのすべてに油が注がれました。そしてアロンの頭にも…。これは、神に仕えるもの、神に仕える場所が罪や汚れからきよめられ、神のために他の者と分けられるためです。これらは、今の教会では見られないものですが、だからといって、いわゆる「お気楽に」神に仕えてもよいということにはなりません。形に表れないだけに、よけいに神によってたましいがきよめられることを心する必要があるのだと教えられます。


自分のものでない

2020年01月24日 | レビ記

レビ記 7章11−38節

 1章から続いてきたささげ物についての神の命令が7章で終わります。

 ささげ物にはそれぞれ意味があります。聖い神の前に罪ある者がどのようにしたら出ることができるのかとしたら、ささげ物が介在しなければなりませんでした。自分の罪のためにささげ物を屠ったのです。これまでの箇所にみられたささげ物についての細やかな規定は、罪人が神の前に立つのは簡単なことではないということを思わせます。それとともに、これほどまでして民を御許に引き寄せようとする、神の愛の現れだとみることもできます。

 ささげ物は、キリスト者の信仰の歩みでは、礼拝、献金、生活スタイルなどとつながりを持ちます。神を信じることがなければ、働いて得たものは自分のものであり、自分の時間をどのように用いようと構わないとしました。けれども、神とともに歩むように方向転換をしたのならば、すべてが神から賜ったものだということになります。自分だけのものではない、いや、すべては神のものだというように、すべてについての価値観が大きく変りました。

 7章後半には「交わりのいけにえ」についての命令があります。これは神への感謝を、誓願を、あるいは進んで(随意で)ささげるものです。強制されるものではありません。そして、このささげ物は「交わりのいけにえ」ということばが示すように、その多くがささげた者が再び手にして、皆で食べました。自分のものを取り戻したということではありません。一度は神にささげたのですから神のものであり、それをささげた者が賜ったのです。

 このように理解するのは大切なこと。金銭や時間、体などは誰のものなのでしょうか。


消してはならない

2020年01月23日 | レビ記

レビ記 6章8節−7章10節

 外に自動車を停めていますので、気温が下がった朝は全体が霜で真っ白。そんなときのために常備しているのはガラス用霜取り器。ガリガリと霜を削っていきます。ところが昨日の寒さは曲者(くせもの)。エンジンをかけてデフロスター(霜取り)をオンにしてフロントガラスの霜が一時的に取れたのですが、走り始めると再び凍り出しました。それほど寒い一日でした。

 この箇所は「アロンとその子らに命じよ」ということばに始まります。ここからは祭司を務めるアロンと子どもたちのための命令なのです。全焼のささげ物、穀物のささげ物、罪のきよめのささげ物、代償のささげ物を祭司がささげる時に心するべきことが命じられています。

 この箇所全体に言えるのは、神が祭司が食べていくための配慮をしておられるということです。それは神へのささげ物の中から彼らが食べることができるという方法でなされます。これを新約聖書の教会のこととして考えてみますと、神へのささげ物によって神に仕える人々が養われるということに通じるでしょう。

 心に留めたのは、全焼のささげ物を焼く祭壇の火は消してはならないとの命令です。ここで言われているのは民全体のささげ物のことですが、それを焼く祭壇の火は消してはならないというのです。全焼のささげ物には、ささげる者の献身を表すという意味がありますので、それを焼く祭壇の火を絶やさないということは、神への献身はいつまでも続くものだというように結びつきます。また、神とひととのつながりも決して絶やさないということを象徴するということもあるかもしれません。「消してはならない」とのことばを心に留めます。


代償のささげ物

2020年01月22日 | レビ記

レビ記 5章14−6章7節

 火曜日は快晴の一日。朝は冷え込みましたが、日中は窓ガラス越しに陽射しが…。温室にいるようでした。きょうは「みことばの光的毎日」の誕生日です。2011年1月22日にこのブログはスタートしました。スタートしてまもなく東日本大震災が起こりました。

 この箇所では「代償のささげ物(賠償の献げ物)」についての規定が記されています。大きくは神のものについて損害を与えててしまった場合と、人のものをかすめたりゆすり取るという場合のことが言われています。神のものに損害を与えたならば代償のささげ物に加えて五分の一を加えるように、人のものに損害を与えた場合は、損害を与えたものを相手に返すとともに五分の一を加えるようにというのです。

 「神の聖なるものに関して」とは具体的にどのようなものなのでしょう。聖所の財産や祭司の財産が損なわれるようなことで、原因としてはささげ物が十分でなかったり、劣る物をささげたことにある場合です。「みことばの光」には、礼拝、ささげ物、主の畑での仕事、主からの賜物などが挙げられています。

 私たちには神からの賜物が与えられています。本来神のために用いるようにとして与えられたにもかかわらず、自分のために使っていることなどは、思い当たるところがあります。時間もその一つかもしれません。神にささげるはずの時間を人とのコミュニケーションなど他のことに費やしてしまうなどというのは、現代の信仰者が直面している大きな課題ではないかと…。

 代償のささげ物にキリストがなってくださったからありがたい、ということにとどまらず、生き方を問われます。


悔やむだけでなく

2020年01月21日 | レビ記

レビ記 5章1−13節

 久しぶりに近くの公園を通り抜けて商店街へ。今は鉄道の複々線工事で線路の下の通路が通行止めになっているので、遠回りをしました。美味しいアイス屋さんが閉まっていました。この時期、アイス屋さんは長めのお休みを取るようです。

 きょうの箇所でも、罪のきよめのささげ物についてのきまりが続きます(私はそのように理解します)。繰り返し出てくるのは、「後になって責めを覚える場合」ということば。「そのことは彼には隠れていて」ということばとともに用いられています。

 その時には意図していないけれども、後になって自分のしたことについて責めを覚えるような場合があります。その場合は、「ああ! するんじゃなかった」などと悔やむのではなくて、自分の陥っていた罪を神に告白して、その償いとしてささげ物をするのです。

 雌の子羊、雌のやぎをささげるようにと言われてるのですが、それらを買い求めることができないならば、山鳩二羽あるいは、家鳩のひな二羽をささげるように、それも買い求めることができなければ、十分のい知恵派の小麦粉をささげるようにともあります。神は富む者にも貧しい者にも、罪が赦されるための道を用意しておられます。

 このようにして、すべての人が神によって罪を赦してもらうための仕組みが明らかにされました。それは、神がすべての人への罪の赦しの道を開いておられるということです。ここを何度も読みながら、十字架にかかられた主イエスをおぼえます、感謝とともに。


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