レビ記 7章11−38節
1章から続いてきたささげ物についての神の命令が7章で終わります。
ささげ物にはそれぞれ意味があります。聖い神の前に罪ある者がどのようにしたら出ることができるのかとしたら、ささげ物が介在しなければなりませんでした。自分の罪のためにささげ物を屠ったのです。これまでの箇所にみられたささげ物についての細やかな規定は、罪人が神の前に立つのは簡単なことではないということを思わせます。それとともに、これほどまでして民を御許に引き寄せようとする、神の愛の現れだとみることもできます。
ささげ物は、キリスト者の信仰の歩みでは、礼拝、献金、生活スタイルなどとつながりを持ちます。神を信じることがなければ、働いて得たものは自分のものであり、自分の時間をどのように用いようと構わないとしました。けれども、神とともに歩むように方向転換をしたのならば、すべてが神から賜ったものだということになります。自分だけのものではない、いや、すべては神のものだというように、すべてについての価値観が大きく変りました。
7章後半には「交わりのいけにえ」についての命令があります。これは神への感謝を、誓願を、あるいは進んで(随意で)ささげるものです。強制されるものではありません。そして、このささげ物は「交わりのいけにえ」ということばが示すように、その多くがささげた者が再び手にして、皆で食べました。自分のものを取り戻したということではありません。一度は神にささげたのですから神のものであり、それをささげた者が賜ったのです。
このように理解するのは大切なこと。金銭や時間、体などは誰のものなのでしょうか。