みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

聖なる者と

2020年01月30日 | レビ記

レビ記 11章29−47節

 11章の終りには、「汚れたものときよいもの、食べてよいものと食べてはならない生き物とが分けられる」とのことばがあります。聖と俗という区別からしますと、イスラエルの民はこの世、つまり俗なる世界に生きています。

 その彼らが、神が聖であるから彼らも聖なる者とならなければならないと 言われているのです。以前にも触れたことですが、彼らの「聖」とは、神の「聖」とは全く異なります。イスラエルの民が聖でなければならないというのは、俗なる世界に生きている彼らが、その汚れに染まらないようにという意味なのです。

 それにしても、きょうの箇所で言われていることは興味深いといいますか、分からないと言ったほうが当たっていると思うのです。たとえば、汚れていると神がお定めになった生き物が死んだ時、それに触れる者は誰もが夕方まで汚れるとあり、死んだ者が落ちたものは、器、衣服、皮、袋も汚れ、かまどや炉であれば壊さなければならないともあります。かまどは火を用いるのだからきよいとは言わずに、汚れたから打ち壊せというのは、納得できないようなことです。

 私たちの感覚や常識の範囲には納まらないようなことが命じられていると、今風にいえば「そんなものはスルーしてしまいましょう」ということになるかもしれません。しかし、イスラエルの民は神のことばだからとして、従ったのです。

 今は、イエス・キリストによって汚れたものときよいもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物という規定は解かれました。それならば、聖い神の子どもとされた信仰者たちが聖であるとは、どのように生きることなのだろうかとの問いが、この箇所から出てきます。


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