レビ記 1章
初めての場所に行くのに、カーナビは便利です。道を間違えてもすぐに代わりのルートを示してくれるのは助かります。ところが、目的地を解除する方法が分からずに、以前に設定した目的地をこの二日間は近づいたり遠くになったり。「いい加減に目的地に到着してください!」と、カーナビに叱られるようになるのかしら…などと考えながら、走っていました。
きょうからレビ記を読みます。
「レビ記、それは聖書通読挫折箇所ナンバーワンだろうか」との文章が「みことばの光」にありました。確かに、創世記や出エジプト記の途中までは次々と出来事が展開しますので、興味深く読み進めることができますが、出エジプト記の終わり頃には「幕屋」の制作についての指示が細々(こまごま)とありますし、レビ記ではささげ物についての規定が延々と続きますから、読むのが大変という方もおられることでしょう。
しかし、「みことばの光」を傍らにして、レビ記を最後まで味わっていきましょう。興味深いのは、レビ記はほとんどが神ご自身のことばだということです。それは一見、「わたしに近づくのは大変なのだ」と言っているように考えやすいのですが、その反対です。「わたしに近づきなさい」と招いておられるのです。そのように考えてみると、少しばかり、レビ記を読んでみたいという気持ちになったでしょうか。
レビ記はささげ物についての規定からさ始まります。1章は「全焼のささげ物」について。以前の翻訳では「全焼のいけにえ」となっていました。人が神に近づくには、身代わりのささげ物を携えるようにと神が招いておられます。牛、羊/やぎ、そして、山鳩/家鳩という三種類の全焼のささげ物には、富む者も貧しい者も誰もが神に近づくことができるように、という意味があります。
キリスト者は、全焼のささげ物についての規定を読むことによって、十字架で贖いの代価としてご自分をささげられたイエス・キリストを覚え、感謝することでしょう。このお方がわたしの罪の身代わりになってくださったので、神のもとに近づくことができるのだと…。