大江健三郎の『洪水はわが魂に及び』(1973年)を読んだ。(講談社『大江健三郎全小説7』所収)
このように戦闘シーンを詳細に描いた小説がまるで読めない。もういいよ、と思ってしまう。たまに大江健三郎の小説を読んでいると村上龍を思い出すことがある。しかも僕の苦手な側面の村上龍。
まるでおもしろくなかったのだけれど、最後まで読んでみて驚きがあった。
どのように主人公を逃がすのだろうと、思って読んでいた。障害児のジンはやはり最後に逃がされる。息子を危機にさらすことは大江健三郎にとっては耐えられないことだろう。よくここまで耐えた、と思った。
そして主人公の勇魚だが、彼はよく分からないけれど「自由航海団」になぜか参加し、ここまでなぜか若者につきあい、そして最後まで籠城する。多麻吉は死ぬだろうが、核シェルターに入り込んだ勇魚はどうにか生き残るのだろうと思っていたが最後に「すべてよし!」と言いながら殺されてしまう。
まさか死ぬとは思わなかったが、よく考えればこの小説は珍しく三人称で書かれているので、最初からそのつもりだったのだろう。一人称の小説で語り手が死ぬことは難しい。死ぬ人間は死ぬことを語ることができない。三人称の主人公は死ぬことができる。
このように戦闘シーンを詳細に描いた小説がまるで読めない。もういいよ、と思ってしまう。たまに大江健三郎の小説を読んでいると村上龍を思い出すことがある。しかも僕の苦手な側面の村上龍。
まるでおもしろくなかったのだけれど、最後まで読んでみて驚きがあった。
どのように主人公を逃がすのだろうと、思って読んでいた。障害児のジンはやはり最後に逃がされる。息子を危機にさらすことは大江健三郎にとっては耐えられないことだろう。よくここまで耐えた、と思った。
そして主人公の勇魚だが、彼はよく分からないけれど「自由航海団」になぜか参加し、ここまでなぜか若者につきあい、そして最後まで籠城する。多麻吉は死ぬだろうが、核シェルターに入り込んだ勇魚はどうにか生き残るのだろうと思っていたが最後に「すべてよし!」と言いながら殺されてしまう。
まさか死ぬとは思わなかったが、よく考えればこの小説は珍しく三人称で書かれているので、最初からそのつもりだったのだろう。一人称の小説で語り手が死ぬことは難しい。死ぬ人間は死ぬことを語ることができない。三人称の主人公は死ぬことができる。