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☆プルーストのほうへ

2008年01月30日 19時59分08秒 | 文学
アランを読んでいてふと、プルーストはアランを読むように読めばいいのではないかと思う。
これまで読めなかったのは、物語を読むように読んでいたせいではないか。
紅茶に浸したマドレーヌを食べた続き(飲み終わってティーカップを洗ったとか、お腹が満たされたからローソクを吹き消して寝たとか、食った後の主人公の行動)がどうなるのかという興味で読んでいてもそのようなことはなかなか出てこないし、もしかしたら最後まで出てこないのかもしれない。読んでないので知らない。
そのような読み方ではなくて、エッセイとして読んだらいいんじゃないか、と思った。

しかし、エッセイとして読もうが物語として読もうがどっちでもいいのだが、そもそもの疑問としてこの小説がおもしろいのかということがある。
記憶をたどってみても「失われた時を求めて」がおもしろかったという発言は誰の口からも聞いたことがないように思う。
岩井俊二の映画「Love Letter」でも、読んだわけではないし。
読書ということで信頼してきた人たち、村上春樹からも吉本隆明からも大江健三郎からも聞いたことがない。
村上春樹のどれかの小説では、「失われた時を求めて」を半分くらいしか読んでいないという発言がなかったかなあ。(「資本論」だったかも。)
吉本隆明が「つまんねぇこと書いてあるなというところも随分ありますけれど、小説としては上等でしょう。」とかその類の発言でもしていればいいのだけれど寡聞にして知らない。
小林秀雄が何か言うのも見たことはないな。読んだのだろうか。読んでいても不思議ではないけど。
加藤典洋が「全部読み終わったら波打ち際に打ち上げられたような気分になる」というように書いているのを読んだことはある。これはしかし、心地よい疲労感を表しているような気がするが、おもしろいのかどうかはっきりとはわからない。
壮大な時間論、最後まで読んだらわかる完璧な構成、20世紀文学はここから始まった、のちの文学に多大な影響を与えた、等の賛辞はよく聞くのだがはっきりとおもしろいというのはほとんど聞かれない。読んだときの苦労話はよく聞く。
誰でもいいから、寅さんのようにおもしろいって言ってくれないかなあ。
こう読んだらおもしろいとか。
自分にとっておもしろくなくても誰かがおもしろいと言っていれば(司馬遼太郎の「坂の上の雲」とか)、そのうち面白く読めることもあるかもしれないなと思える。

司馬遼太郎といえば、講演を読んでいると、恐ろしいほど何も信じない。どんなイデオロギーも文学論も信じない。文学論が文学をだめにしたとも語っていた。
たしかにそうかもしれない。
あまりに文学論に頼りすぎて、誰にでも通用する正解を探しているような面がある。
バルザックを、いまの日本人にとっては面白いものではない、家具の描写が詳しいのはそれが当時の流行だったからに過ぎない、そんなものを有難がる必要はない、と言っていた。(ちょっと意訳しました。)
結構すごい。
情念を克服することがすばらしいと考えているアランと、民衆を飼い馴らすために思想が存在しているのだという司馬は正反対にいるようにも思うが、同じようなところもある。
アランは、建築や彫刻は素材の固有の性質を活かしながら作り上げるのがよくて、そこに無理に思い通りの形を刻むのは良くない、と考えている。石なら石の硬さや抵抗感をそのままに、しかしそこを活かして、というのが美しいのだそうだ。
司馬は歴史小説を書くときに、資料を読んで、対象が自分の体の中に入ってくるのを待つという言い方をよくする。資料を離れてまるっきり自由に書くことはできないとも語っていた。同じことを言っていると思う。
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