小林秀雄がトルストイの『クロイチェル・ソナタ』(『クロイツェル・ソナタ』)について書いているものを、以前も読んだことがあるが引っ張り出して読んでみる。(『小林秀雄全作品16』所収の「骨董」、『小林秀雄全作品17』所収の「トルストイ」)
どちらも全く同じようなことを全く同じように書いてある。
行進曲では行進できる、舞踏曲ではダンスできる、しかし「クロイチェル・ソナタ」を聴いたらどうすればいいんだ、という話だった。
私たちは何かの行動をすることが目的であり喜びであり生きることであったのに、椅子に座って音楽を聴いたり、ガラスケースに入った芸術品を見たり、というのは間違っているのではないか。とトルストイは言っている。と小林秀雄は言っている。
それは確かにそういうこともあるだろう。よく考える必要がある。
しかし、もはや音楽を聴いて踊り出していた感覚というものがもう僕にはあまり分らない。
どちらも全く同じようなことを全く同じように書いてある。
行進曲では行進できる、舞踏曲ではダンスできる、しかし「クロイチェル・ソナタ」を聴いたらどうすればいいんだ、という話だった。
私たちは何かの行動をすることが目的であり喜びであり生きることであったのに、椅子に座って音楽を聴いたり、ガラスケースに入った芸術品を見たり、というのは間違っているのではないか。とトルストイは言っている。と小林秀雄は言っている。
それは確かにそういうこともあるだろう。よく考える必要がある。
しかし、もはや音楽を聴いて踊り出していた感覚というものがもう僕にはあまり分らない。