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島田裕巳『映画は父を殺すためにある 通過儀礼という見方』

2012年09月05日 22時05分16秒 | 文学
島田裕巳『映画は父を殺すためにある 通過儀礼という見方』(ちくま文庫)を読んだ。映画の本が読みたかったのと、表紙の感じと、『魔女の宅急便』が取り上げられてあることで読んだ。途中くらいまでものすごく退屈し、短い本なのに読み終えられないかと思った。映画は通過儀礼のためにある、わけじゃない、という気持ちになった。
他人のことをカネに汚いと言う人間がいちばんカネに汚いという話があるのだが、どういう理屈かというと世の中を金銭面でしか見ていないので他人の金の汚さが目につくのだということを岸田秀が言っていた。それと同じようなことがこの本にも、というか文化人類学的な芸術のとらえ方にも言えて、通過儀礼という面で映画を評価すると、ある程度はそれはなんだって時間が経過しているのだから通過儀礼という面はあるのだけれどそれだけじゃないという気がしてくる。
最終的には『魔女の宅急便』は理屈にはまらないからよくない、というふうになっていた。
ひとつの理屈ができるとそれにあてはまるものだけが見えてきて、はまらないものがあると例外、考えが足りない、というふうに評価してしまうのは、やってしまいがちなことだと思った。
『男はつらいよ』が久しぶりに見たくなった。
『櫻の園』はほんとうに好きな映画だったけれど、どんな映画だったかさっぱり忘れていた。
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