魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

冒険の血

2011年12月03日 | 日記・エッセイ・コラム

サーチナの、仏国ブログ・ピックアップで、
「日本人は食に進歩的だが、ビスケット類を飲み物に浸して食べることには、異常に拒否感を持つ。ことに抹茶に浸してはいけない」と紹介していた。

これを読んで、日本人ながら、驚いた。
確かに、日本人好みの美しい作法ではないが、おそらく、50才以上の日本人だったら、抹茶は別として、特に違和感を持たなかったのではなかろうか。

アメリカ文化が、新鮮で輝いていた頃の「戦後の日本」では、アメリカ流に、パンやビスケットをミルクに浸して食べるのが、ある種の憧れだったし、そんなCMもあったくらいだから、欧米人がコーヒーや紅茶に浸して食べるのを見ても、全く違和感を持たなかっただろう。

だから、ブログのフランス人に「躾け」をしたのは、おそらく若い日本人だろうが、古い日本人として、これは看過できない問題だ。

若い日本人が、それだけ、無知で柔軟性が無くなっているのではないかと、非常に気になる。
ただ、無知は問題ではない。異文化に対し、先ず寛容に受け入れる姿勢を持つなら、その時、知ればいいからだ。

しかし、進歩的に受け入れているように見える日本人も、知識として異文化を受け入れているだけだから、実際には閉鎖的で、固定概念に凝り固まり、自分の判断で、新しい状況や概念を受け付けない。

近年の日本製品に見られる保守性は、「教わった知識」しか受け付けない、平安期の歌の作法のような、美しい衰退に陥っているからでは無かろうか。

近年言われてきた、「箸の持ち方」「鉛筆の削り方」「漢字の書き順」等の教育「問題」こそが、最も肝心なことを封殺してきたのであって、変事や、異文化に対する積極的な柔軟性を削り取ってきた。
新しい事態に、自分のアイデアで対処する心構えが失われてきた。

その傾向をいち早く解決したのは、外国人選手や監督に接したサッカーであり、おそらく、日本の教育問題解決のカギは、サッカーにある。

海外留学や海外就職を嫌い、パイの少ない就職に追われ、新しい体験を避ける昨今の若者は、サッカー選手同様に、外国の洗礼を受けるしか救われないだろう。
布団にもぐり込んでいても、屋根が吹っ飛んで、吹雪が向こうからやって来れば、嫌でも冒険するしか生き残れなくなる。

その時初めて、サッカーのように、日本人の冒険魂が目覚めるに違いない。日本人の深いDNAは、日本列島までやってきた冒険者なのだ。

ところで、抹茶にビスケットを浸したら、抹茶ミルク風の味がして、きっと美味いに違いない。