魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

ゴリ押し

2011年12月09日 | 兄弟関係

米中インターネット・フォーラムで、中国代表が「中国はいかなる形式であれ、インターネット利用のサイバー戦や軍備競争に反対する」と述べたそうだ。大笑いだ。

確かに国家的行為という証拠はない。しかし、日本の公機関の事件以前から、世界中で、中国からの攻撃が話題になっている。

この種の「中国的言動」は、共産党国家だからではない。中華文化の伝統だ。国家兄弟論で言う、長子のゴリ押しだ。
自分に非があることが解っている時、あるいは、そうかも知れないと思っていても、「立場上」認めるわけにはいかない時の長子の態度だ。
「知らん、知らん、知らん」と、聞かない振りをする。

こうした、強い立場の横暴は、例え秩序維持のためであっても、弱者側の被害者意識として染みこんでいる。だから、伝説や文学的表現など、文化の至る所に現れる。
常に圧力を受けた朝鮮半島が、被害者として他を攻撃するのに対し、日本の場合は、「あわれ」として判官びいきの感情になる。

日本の判官びいきは、おそらく、平安時代に生まれ、結果として源平物語りのベースになっていったのだろうが、もともとは大陸渡来の「権力者の横暴」物語りがあったのではなかろうか。

大陸様式を真似た頃の正史「日本書紀」の中で、
有間皇子が謀略にハメられ、その謀略の張本人の中大兄皇子に「何で天皇に謀反など起こそうと思ったのだ」と白々しく問われ、
「天と(お前の回し者)赤兄に聞け!」(天与赤兄知。吾全不解。)
と答える下りがある。

力を持った者が弱者を押さえ込む「厚顔」と、それに対する怒りの表現として、当時、大陸的表現の悲劇パターンが既にあり、同時に、力上位の者の、言い回しとして、確立されていたのではなかろうか。

それが今日も中国の、図々しい断言的な言い回しになり、それを見習った朝鮮の、自分のことを棚に上げて先ず相手を避難する表現になっているのではなかろうか。

世界の常識、日本の常識
中国の「サイバー攻撃に反対する」「シナ海を平和の海にする」とか、
朝鮮の「アメリカは和平の席に着け」「南の攻撃に反撃した」など、
「お前が言うか!」と言いたくなる厚顔は、力と力がぶつかり合う世界での「絶対に譲らない」態度としては、大陸の常識なのだろう。

一方、狭い平和な島国では、元来の強弱や勝ち負けの二局対立から、「魚心あれば水心」とか、「鬼の目にも涙」のように、互いに思いやる優しさや、「泥棒にも三分の理」のような多元的な理解力に変わり、それが、判官びいきのような、日本独特の文化になったのだろう。

おそらく、ここまで「お察し」出来るのは日本人だけだ。
日本人は、相手のゴリ押しに、こちらが譲れば「相手も解って譲ってくれるだろう、お互い様だから」と譲るが、ゴリ押しをするような人は「お互い様」という概念が無い。

「あ、何で譲るんだろう。ま、いいや、思いがけない儲けモンだ」ぐらいにしか思わない。
言えば言うほど譲る日本人を見て、「こいつら、アホやで」と全くなめてかかり始める。

そして、そのうち、日本人は、いくら譲っても譲っても解ってくれない相手の横暴に、キレて爆発する。それが日本の戦争だ。

これはA型のブチギレ爆発だが、他の人間には何で爆発したのか解らない。また、A型自身も、爆発した後、脱力し、水に流してしまう。
アメリカは、戦争によって、かなり日本のことを研究して理解しているが、中国は、日本のことを、ほぼ全く理解していない。

日本自身、日本人のことを中国には解ってもらった方が良いだろう。
また、逆に朝鮮半島には解ってもらおうとしない方がいい。全て逆効果になる。弟妹型は原理を理解しない。「空気」を理解する。
原理や誠意を説明しても、『どう対応(利用)したらいいか』ということしか、考えていない。沈黙の上、時に応じて空気を示すしかない。

また、最も警戒すべきは、こちらの様子を黙って窺っているロシアだろう。人は、黙っている相手には、時に自分の都合の良いように誤解してしまうことがある。