魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

三寸の闇

2011年12月15日 | 日記・エッセイ・コラム

大転換は始まっている。
繰り返し言うが、すべての人が、もう、どうにもならない所まで来ていることを悟るべきだ。
冬服を着るためには、夏服を脱がなければならない。
既存のシステムが全く機能しなくなっている。

昔、川の水を利用していた時代、「水は三寸下れば濁りを忘れる」という言葉があった。小川の上で洗い物をしていても、川下の人が利用するのに全く問題ない。という意味だった。(水に流す意味もある)
細菌など知らなかった時代には、見た目がきれいなら、もう浄化されていると考えていた。

文明開化で日本にやってきた欧米人は、「日本人は不浄を嫌うが不潔を厭わない」と笑った。彼らは細菌を知っていたからだ。
細菌を知った現代の日本人は、過剰に不潔を嫌う。不浄が不潔になった。(日本人の不潔には今も不浄意識がある)

誰でも知ればマズイと解ることを、知らなければ平気でいる。それどころか、無知な行為に理由を付けて「濁りを忘れる」などと、さらに安全性を保証する。原発安全神話も、正にこれだ。

原発が安全か安全でないかは、物の道理や自然体験で考えれば、例え、学校で絶対安全だと言われても「なんか変だぞ」ぐらいは感じるし、また、それを感じるぐらいの頭の柔軟性は、幼児期の遊び体験で身につけるのが、むしろ、真の教育だ。

合理主義本家の欧米は、スリーマイル島やチェルノブイリの現実を見て、これはマズイと政治を動かしたが、日本人のほとんどが、学校(政府)の言うことを真に受けた。それぐらい、日本の教育は工業国民洗脳に徹底している。(日本人の宗教的従順さもあるだろう)

「国や企業の都合のため」ではない、物の道理を考える力が削がれている。
「原発推進が良識だ」と言っていたのは、日本工業社会の優等生つまり、洗脳されている人達だった。

洗脳は、自分達では気づかないから「洗脳」という
われわれは、常に、『自分は洗脳されているのではないか』と、疑ってみるべきだ。そして、政府に「本当のことを言え」と言うより、政府や報道の真実を察知して、政治を動かすのが民主主義だ。

政府の言う数字が、本当かウソかなどの目くらましより、その議論の大前提こそが、「たぶらかし」ではないか考え直す必要がある。。

年金は誰が担うかより、他に老人を生かす道はないのか。
子供に金を払うより、親が子育ての負担を負わない方法はないのか。
受験や就職の方法を変えるより、本当に人材を育てる方法はないのか。
こんな、当たり前のことから、考え直してみる必要がある。

洗脳は国だけが行うのではない
われわれは時代の子だ。250年の時代の潮流の中で生まれ、議論の前提をすべて当たり前だと思っている。しかし、わずか数千年の文明史を見渡すだけでも「当たり前」の前提はまったく違ってきた。

「外需を減らし内需を」などという議論自体が、大量消費の垂れ流しが大前提だ。「水は三寸下れば濁りを忘れる」という無責任な無知と全く変わらない。

大量生産、大量消費の産業革命250年の無責任パラダイムに自ら気づいて改めるのか、行き詰まりの大崩壊に呑み込まれるのか。
原発推進に賛成していた人達はどうするのだろう。


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