魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

家元本山

2024年05月22日 | 新鎖国論

再びの焼け野原
未来は無から生まれるわけではない。失われた30年で凝り固まった日本でも、未来への小さな萌芽は無数に芽生えていたが、既存技術だけに目が向けられてきた。
トラック輸送や宅配、季節無視の温室栽培のように、化石燃料や原発など高度成長期の遺産に拘泥し、コストカットの派遣労働や海外生産など、過去の売り食いばかりで、未来への投資、人、技術、産業の育成を怠ってきた。
既存技術をゴテゴテと満載し、何も訴えるモノのない家電やハイテク機器の陰で、技術者の試みはことごとく押さえ込まれた。太陽光パネル、有機EL、曲がる液晶など、開発した新技術も、他国が売って見せて初めて手を出す臆病経営が日本を腐らせた。

もはや、未来への扉は閉ざされ、庭の芽は枯れ果て、外国の技術や人を移植する有様だ。それも当座はやむを得ないとしても、重要なことは、そこにどんな気概があるかだ。明治の初め、立ち後れた日本は外国の人と技術を取り入れたが、あくまで自主独立の魂胆を秘めていた。その日本方式から「学んだ」中国は大成功を収め、海外侵略まで踏襲しているが当然、同様の失敗に終わる。

日本が再び維新を考えるなら柳の下にドジョウはいない。明治維新や、戦後成長には、「追いつき追い越せ」の気概、0からのハングリー精神があったが、日本はこの期に及んでも一等国の誇りにしがみついている。
今さら、時代錯誤な国家競争を激するのではない。むしろ、そういう古い一等国感覚が足かせになっている。未来の道は国家競争を捨てるか、誇りを捨てるかだ。
国家競争で勝とうと思うなら、日本は金や技術など、海外援助などしている場合ではない。誇りを捨て、落ちぶれた貧乏人として福祉政策などかなぐり捨てて、這い上がるしかない。

未来の超国家ビジネス
しかし、未来は明らかに近代国家の枠の向こうにある。日本が勝ち上がろうと思うなら、むしろ逆説的に、勝ち負けの原点である、国家意識を捨てることだ。
世界の未来を提案する商品は、超国家のグローバリズム商品だ。GAFAなどと言われたアメリカ発のビジネスが世界を席巻し、日本にそれができなかったのは、民族国家的閉鎖性のためだ。バイデンの言葉は失言ではない。日本は閉鎖的だ。
日本が成功するには、国家を超える産業に着目すべきだし、実は、日本には他国にはない逆説的な絶対パワーがある。

日本ほど孤独な歴史を歩んできた文明国は、世界にはない。日本は一人っ子であり、兄弟姉妹で競り合って来た世界には絶対にマネできない個性がある。汲んでも尽きない独創文化がある。
狭くなる地球に求められるものは、狭い国土で育んできた孤独で自由な日本の価値観であり、譲り合いや自粛の精神だ。出る杭を打つ日本の欠点は、国家競争では短所だが、競走相手のない孤独な人類には貴重なルールになる。また、神仏習合の経験は宗教戦争解消へのヒントになるし、幕藩体制の参勤交代も国家間競争や大国主義を無効にするヒントになる。

現在の国連は、室町幕府のような大名依存であり戦乱の芽を摘めないが、江戸幕府のように、各国の自主権を認めながら、強力な世界貢献に導けば、国家の特色を残しながら世界は均質化し統一する。
新しい日本のヒット商品は、この世界秩序イメージから生まれるはずだ。
産業革命パラダイムは物の競争であり、GAFAの成功はその仕上げとなる情報インフラの拡張だったが、情報化の未来は価値の競争になる。

本山家元
この点で日本が他にないモノを持っているとすれば、「家元」のような、宗教方式のブランド流布だろう。ブランド商品のようにイメージだけではなく、一神教のように排他的な囲い込みでもない。
美意識や道徳意識に基づいた生活様式の提案であり、既にゲームやアニメで一定の条件は整っている。しかし、中国や韓国のようにソフト産業で現金に儲けようとすれば、元も子も失う。あくまで、日本文化の伝達を目的とし、島国の日本人自身が必要とする教養と娯楽に徹することだ。これにより、日本という不動のワンダーランドへの憧れが生まれる。
そして、そこへは簡単には入れないようにする。つまり、日本に入国するには一定の条件や審査をし、日本文化を学ぼうとする一定のリスペクトを持った人しか受け入れない。観光客ではなく、日本学校の学生や修行者なら受け入れる。ビザの厳格化で、相互主義により日本人も気楽に出にくくなるが、その分、自国への認識と愛情が深まるだろう。 

日本は観光地ではなく、「本山」になるのだ。そのためには、日本にあるすべての世界遺産(=与えられた価値観)の返上をして、日本そのものが唯一無二の価値になる。しかし、一神教のように価値の押しつけはしない。むしろ、世界のあらゆる価値観を日本に誘致する。宗教であれば、各宗教の大学を誘致し、純粋に学問的な宗教の交流環境をつくる。
学術芸術に関しても同様に交流環境をつくるが知的財産権などには関わらない。自由でオープンな場であることが重要で、特にサブカルチャーなどに参加したい人は理解者、学徒と見なして受け入れる。

とにかく、野次馬的観光客を閉め出し、はっきり価値観と目的を持った人だけを受け入れる。
オーバーツーリズムは、単なる好奇心や慰安、刺激を求めて来る人々によって起こる。
物見遊山の観光を拒否し、知的発信の家元、本山になることによって、世界平和と未来の生き方を発信する。大事なことは、決して世界に押しつけたり売り込んだりしない。柔道は広めようと出て行った結果、日本のものではなくなった。空手はテコンドウにパクられた。
外でどんなにモノマネをされようと、動かない。徹底して内向きでいることにより、向こうから寄ってくる。世界遺産など他人の価値観に一切媚びず、日本方式を貫く。
日本食が広がり、多様な亜流が生まれたが、気にせずにいることで、結局、関心は日本に回帰してくる。マンガやアニメなども、技術はマネできても日本の生活文化環境や発想はマネできない。

わびさびや、まこと、譲り合いやもったいないなどの、孤独な島国の日本史から生まれた「縮みに広がる大きな世界」の精神を世界に広めることが日本ビジネスになり、そして小さな地球の人類に貢献することになる。
今は、コンテンツビジネスと言えば知的財産権のことだが、これから日本が売るべきは権利ではなく精神であり、骨董品ではなく美の価値観だ。そしてそれは日本宗家、日本本山にしかない深淵の世界から生まれるものであり続けなければならない。
くどいが、あえて解らない人のために言えば、大本山があってこそ門前町の商売が成り立つ。

 


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