魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

フォース

2011年12月22日 | 日記・エッセイ・コラム

料理上手になりたい人が、レシピ通り計量し、タイマーで、秒まで計って、何度作っても、「いまいち」になるという。
友人の美味しい料理には、必ず、「レシピを書いて」と頼み、
家で作ってみるが、やっぱり、友人のようには美味しくならない。

友人が、「私のレシピなんか、当てにならないよ」と言うと、今度は、料理している横で、番人のように見学し、同じように作ってみるが、やっぱり、うまくいかない。
友人は、「同じようでも、材料も道具も火も全部その時で違うんだから、全く同じにしてもうまくいかないよ。勘だよ勘!」と言うのだが、その人は、きっと、まだ秘密のコツがあるに違いない、と思う。

その人の料理を食べさせてもらった。なるほど見た目は立派にできあがっている。食べてみると、特に不味いわけではない。だが、確かに「おいしい!」と、言いたくなる感動がない。昔の冷凍食品のような味だ。(近頃の冷食はバカにならない)

これは、いわば、デジタル料理だ。昔流に言うなら「心がこもっていない」からだろうが、こういうことは、何事にもある。
「気合い」や「根性」という言葉も、全く根拠がないわけではない。
その料理上手の友達が言う「勘」は、そうしたアナログ的実体だ。

デジタルテレビになって、ゴーストや滲みなど「よけいなもの」が無くなった。情報機器は明らかにデジタルの方が良い。

ところが、料理や音楽のように、感覚を味わうには「よけいなもの」を含む複合体の全体がなければ、奥深い感覚が味わえない。
だから、音楽にウルサイ人はCDのデジタル音を嫌った。

信仰と権威とフォース
味には、ウルサイ人と、そうでもない人がいる。
もう一つ言えば「ウルサそうにしている」人がいる。
敏感な人がウルサイとは限らないし、ウルサイ人が敏感とも限らない。
味の違いは誰でも解るが、何でも食べる人と、好き嫌いの激しい人、さらに、自分が敏感であると「誇示」したい人がいる。

誇示したい人は、世間で美味いとされているものを美味いと言い、調理法や食べ方にウルサイ。これは、味へのこだわりではなく、「違いが解る」人間だと自分自身思いたいか、誇示したいからだ。

「料理上手」になりたいと、「美味しい物を食べたい」とは違う。
レシピにこだわるのは、自分の感覚より、権威や知識を信じるからだ。友人の料理が美味しければ、その知識をそっくり手に入れようとする。試行錯誤は始めからする気がない。さらに言えば、実は、友人の料理が美味しいと思うのは、皆の評判があったからだ。

「料理上手」になりたいのは、食にウルサイ「権威」になりたい人と同じ動機であり、感覚を味わいたいより、「実利」が目的だ。

本当に食い道楽や料理好きなら、他人にどう思われるかより、自分が美味しいと思うことを追求するから、自分に合った方法で「勘」を磨く。その結果、「好きこそものの上手なれ」になる。

日本の独創性は、平和な島国、競争のない一人っ子の、気ままな世界で生まれたものだ。金のためでも権威のためでもない、探求心だけの「ものづくり」には、手本にするレシピも図面もなかった。

近頃の日本の衰退は、効率よく「売る」ための国になったことにある。
確実に結果を出すため、失敗を許さない。
教育から文化まで、レシピ、マニュアルが無ければ何も出来ない。
自分を信じて、災害から逃げることさえ出来ない。

創造も、冒険も、大バカも、互いに許さない、ガチガチの国になってしまった。

「ルーク、フォースを信じよ
May The Force Be With You


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