魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

生き抜く(1)

2011年12月13日 | 日記・エッセイ・コラム

ある地方公務員だった人が話していた。
その地方の観光地に、突拍子もない観光サービスを始めたいと言ってきた男がいたが、トンでもないと追い返された。

すると、その男は、毎日やって来ては、担当者に、既にある様々な観光事業の認可を受ける方法を聞き始めた。
担当者は断る理由もないので、一つ一つ丁寧に質問に答えていた。

男は、どうすれば認可が下りて、何があれば認可されないのかを、熱心に問いただした。そして申請用紙の書き方を子細に質問した。
もちろん担当者は面倒くさかったが、邪険にはしても、仕事だから、断ることは出来ない。

男は、そうして質問する間も、冗談や世間話をしながら、担当者を飽きさせない。その上、毎日陽気にやってくるので、たまに現れないと、どうしたんだろうと、観光課の職員は心配して噂までするようになった。

そして半年ほど通った後、最初に断られた観光事業の、非の打ち所のない申請書を、県会議員と一緒に持ってきた。
もちろん、この事業を始めるには、県議会を通さなければならないという知識も雑談の中で得ていた。

昭和30年代の高度成長期の話だ。彼は当時では珍しくなかったが、小学校しか出ていなかった。
その後、その事業は全国にも知られる県の代表的な観光になった。

荒野に生きる
就職難だと言われている。就活に追われる人は、就職とは一体何なのか考えているだろうか。
鳥は毎日飛び回って餌を探す。人も原始時代は食べる物を求めて原野をさまよっていた。

生産が生まれ、分業が生まれ、職業が生まれ、親に従い、親方に従い、そして、組織に従って生きるようになった。
しかし、組織が破壊されると、人は原野に帰る。国家という大組織が破壊された終戦直後、日本人は荒野で食べ物を漁った。
闇市は強者と智者のみが生き残る「水飲み場」だった。

子鹿のような学生など、生きるすべもなかったが、同時に、意識を変えるだけで、メシの種はいくらでも転がっていた。
この当時、知識や若さだけを頼りに、あらゆる力を活かして、起業した若者が多かった。後の大企業につながった例も少なくない。
時代の転換期に、若者が大成功する例は、最近ではITブームや携帯ブームでも見られる。

世界的な激動期には、頼るべき組織が消え、新しい組織が生まれてくる。明治維新で職を失った武士もいれば、生き方を変えて大成功した人もいる。
学校、就職、結婚といった、維新後に持ち込まれた「国家ぐるみの」産業革命システムが今や崩壊し、その構成要素の企業は、グローバル企業として、国家から離脱しようとしている。
苦労して学校に入り、国内基準の人材になったところで、いくつも国家資格を取ってみても、もう、企業は国の枠を越えている。

これから「食」を得るには「職」ではない。復興期に観光事業を打ち立てた男のように、どんなものでも商売にしていく「やる気と才覚」か、「グローバル人材」になるしかない。
就職がないと落ち込むなら、死んだつもりで海外に出るべきだ。
世界は、まだ広い。