魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

国家の情

2011年12月17日 | 日記・エッセイ・コラム

中国や韓国とは、隣の国だから仲良くしなければならないという。
本当にそうだろうか。
もちろん喧嘩はしないようにしなければならない。
しかし、下手な近づき方は、もめ事の始まりだ。ヤブヘビとも言えば、触らぬ神にたたり無しとも言う。

世間のご近所づきあいを見ていても、上手くいっているケースより難しい関係の方が多い。隣り合っている者同士は利害が重なるからだ。
そこで、遠交近攻ということになる。攻めて喧嘩をしないまでも、不用意に近づかない方が、問題は少ない。

隣と疎遠では寂しくて不便かも知れないが、「隣は何をする人ぞ」の方が、喧嘩にはならない。
下手に親しくしていると、相手の事情がまる見えになるから、遠慮がなくなるし、妬いたりバカにしたり負けん気を起こしたりする。

相手の事情がまるっきり解らなければ、危険だから、喧嘩をしようとは思わない。常に慇懃無礼な隣家とは、イケ好かない奴とは思っても、滅多なことで喧嘩にはならない。これも一つの「君子の交わり」だ。

中韓と日本のこじれは、下手な接近をしたことが原因だ。
中韓がいまだに日本をスケープゴートにしているのに、日本はまた、不用意な接近をしている。

ニクソンが中国に行ったからといって、慌てて国交を開いたことは、本当に日本のためだったのだろうか。
もちろん、経済面では一見大いに得をしているように見えるが、中国を軍事大国にする手助けをした側面はなかっただろうか。
日本が国交を開かなくても、欧米や韓国がしたかも知れないが、韓国の手助けをしたのも、また日本だ。
隣りに包丁を貸して、強盗に入られるようなことをしたのではないだろうか。

親しき仲にも
だから、付き合うなと言うわけではない。甘えて、物欲しそうな付き合い方をすれば、バカにされ、相手を横暴にするということだ。
どこでも悪人はいるし、気が合わない人もいるが、相対的に見れば、何人であれ、個人的には悪い人はいない。しかし、「生きるか死ぬか」になれば、良い人でも豹変する。

国家は、個人の「生きるか死ぬか」を引き受けて代行するものだ。
だから、良い国家など、初めからあるはずがないし、情を通じてわかり合えるはずもない。国家間は好き嫌いではない。いかに互いに害にならないかだ。
その上でなら、ウインウインの「互恵関係」が、ないこともない。

国家に情などあり得ない。しかし、国民庶民は国家関係も情で考える。国民感情が外交を支配すれば、和気あいあいの直後に大喧嘩をすることにもなる。利害代表の国家が情で操られるなら、戦争は避けられない。

人、物、情報がボーダレスに行き交う時代に、器としての近代国家という単位は、利害関係の保護より、「事を荒立てる」トゲになりつつある。利害代表の国家は、お隣だからと言って、「国民に代わって仲良く」する必要は無い。冷徹に利害の監視だけをしていいればいい。そのためには、やはり、大きな政府はジャマになる。

仲良くするのは、人同士、企業同士でいいし、地域間、都市間の交流が、国家を越えるつながりを持つ必要がある。そうすることで、徐々に近代国家はその役目を終えていくだろう。