魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

覚悟無し

2011年12月07日 | 日記・エッセイ・コラム

5年前、信長の覚悟のことをあげたが、近頃「覚悟」の大バーゲンで、「覚悟」が、「覚悟しない」意味で使われるようになった。
やらなければならないと解っていても、するつもりが無い時「今する」と言い逃れをする様に、「覚悟」も言い逃れの言葉になった。

「覚悟」とは、枝葉末節や行きがかり、しがらみを捨てて、最も重要なことを悟ることだ。娑婆俗世の虚構の迷いを断ちきり、核心によって生きることだ。それを、真理を悟るとか、道を求めるという。

「お覚悟召されよ」と言って、命を奪おうとするのは、「死ね!」ではない。「煩悩から離れて生の真実を知り、死生を捨てよ」の意味で、むしろ、煩悩により殺生する本人こそ必要な言葉だ。

今こそ、信長のような覚悟の大ナタが必要だと、誰も解っている。
だから、「覚悟」という言葉が氾濫する。
しかし、言葉だけが飛び交っても、煩悩の巷で、ますます、誰も覚悟できなくなっている。

鬼神の覚悟
戦後も70年近い。敗戦で一度、掻き出された塵芥が再び溜まって、どうにも動きの取れない、動脈硬化が起こっている。
ついに、救急車で担ぎ込まれた日本だが、手術をする医者がどこにもいない。医療訴訟を恐れて皆逃げてしまった。

この期に及んで、日本のオペレーターは、患者に絆創膏を貼っている。
しかも、絆創膏を貼るのに「覚悟してやります」と言うから笑う。
敗戦寸前に生まれたインチキ年金のように、敗戦時に除去しきれなかった制度が、もう完全に腐りきっているのに、それをどう手当てするかの議論をしている。

もう、年金や健康保険を始めとする様々な福祉も、根本となる政治制度も、絆創膏の上貼りを何度しても悪化するばかりだ。
根本解決をしないで、福祉目的税などと言う、ごまかしがまだ通用すると思っている。

福祉のために借金をし、その借金を払うために、成長の元手を巻き上げる増税をする。家計簿しか解らない、官僚の利権感覚だ。

もはや、税による最終保証のうえ、年金を始めとする福祉の全廃、連邦制前提の政治行政の抜本改革しかない。
こんなことができるのは、信長しかいない。

比叡山焼き討ちは、これより遥かに「大それたコト」だった。
大衆が信じてすがっているものを盾にとって、旧弊を守ろうとする巨大な「抵抗勢力」を、妥協の余地なく叩きつぶす。最も手強い相手は、自分自身だったに違いない。信長は人を捨てて鬼神になった。

しがらみ煩悩の絡まる濁世を改めるには、天地に従うしかない。
覚悟とはそういうものだ。
軽々しい「覚悟」の氾濫に、覚悟の無さを感じる。
おそらく、真に覚悟した人間は「覚悟」を口にできないだろう。