魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

サムライ

2011年12月10日 | 日記・エッセイ・コラム

先日、タケシだったと思うが、お母さんに「食べ物屋で行列するな」と言われた話をしていた。
「行列してまで食に執着するな」と言われたようなことを話していた。
正に、江戸っ子だ。

「武士は食わねど高楊枝」の、武士文化の江戸っ子気質からすれば、
(食糧難の配給ならいざ知らず)美食という快楽のために、商売人に屈するような根性に成り下がり、行列をしてまで商品を請い願う。
そんな浅ましい真似なんぞ、できるか!
これが、古武士の魂。江戸っ子の粋だ。

武士道精神には、執着を捨てる仏教観も入っている。
江戸文化は、物金に執着する浅ましさを嫌った。
それが戦災の焼土に流れ込んだ餓鬼のエネルギーで、いつの間にか、金、物、名声を追い求める大東京に変わり、江戸っ子は片隅に追いやられてしまった。

東京の至る所に出来る行列は、浅ましさ故に集まってきた餓鬼の習性であり、餓鬼が餓鬼を餌食にするための仕掛けに群がる憐れな性だ・・・
昔の江戸っ子ならそう思っただろうが、もはや、江戸っ子の末裔も並んでいるかも知れない。

「行列の出来る店」と、聞けば並ばずにはいられない無節操を、
「サムライ」を自負する日本人の、どれほどが自覚しているだろう。
電車に並ぶことと、ラーメン屋や新発売に並ぶことは、全く意味が逆だが、同じように日本人の美しさだと思っているなら、サムライを語る資格がない。

ただ」、「