魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

生き抜く(2)

2011年12月14日 | 日記・エッセイ・コラム

観光事業を打ち立てた男の話は、「メシの食い方」の教訓であるとともに、日本人的発想への戒めでもある。

日本人的発想とは、安定志向のことだ。
世界から比べれば、平和で安定した島国環境にある日本人は、少しでも気が緩むと、「明日も昨日と同じ」であろうとする。変化を嫌い、現実よりも「安定」にひたろうとする。

冷戦後の激動20年、日本が沈んでいるのは、激動する世界に背を向けているからだ。
昨日がまだ続いていると思いたがっている。激動する世界を見ようとせず、世界のニーズを見ようとしない。成功体験を抱き続け、昨日の夢物語の世界を再現することだけに酔っている。

その結果がガラパゴスであり、放漫行政の無駄遣いであり、就職のミスマッチであり、それら諸々の結果が、世界最高の国家負債だ。
そしてまた、ジャパンクールと言われる日本人気も、実は、
「売り家と唐様で書く三代目」であり、毒のない斜陽族の優美さではないのか。

いや、優美が悪いのではない。むしろ優美に生きるなら、「武士は食わねど高楊枝」を徹底すべきだ。それが、新鎖国の生き方だ。
徹底して、産業革命パラダイムから決別し、経済永世中立宣言し、脱経済成長、国民皆兵、「夢の国」蓬莱の島ジャパンになればいい。

しかし、平和憲法のまま、少しでも世界に互して生きていこうとするならば、生き馬の目を抜く世界を理解しなければならないだろう。
(鬼の外交力を持つならば、平和憲法は必ずしも空論ではないが)

観光事業の男のような人間を、日本人、特に、今の日本人は嫌う。
役人は、新しい概念を持ち込んだ男を全く相手にしなかった。そんなことが出来るはずもないし、してはいけないと、おそらく嫌悪感を持っただろう。空気を乱すからだ。
ところが男は、出来ない出来ないと言う役人の持ち駒を様々な角度から観察して、申請手続きというものを研究、学習した。
その上で、可能性の道を発見し、道を切り開いてしまった。

肉食獣
世界は日本のように恵まれた環境で生きているわけではない。
自然も民俗摩擦も常に切羽詰まっている。鵜の目鷹の目、野獣の目だ。
中韓をパクリと非難しても、盗ったモン勝ちが世界の現実だ。
肉食獣の欧米は、捕獲にルールを設けて、秩序のように見せているだけで、草食動物のアジアは、肉食の狩りを美しくやれないだけだ。

欧米のルールに従い、ようやく美しい狩りが出来るようになった草食の日本は、狩りの目的を忘れて、「美しさ」に埋没している。
狩りの目的は、相手の命を奪い肉を得ることにある。
生きるための「食」を得るには、事態を見極め、相手のスキを探り、厳しく果敢に飛び込む。そこには本来、思いやりも美しさもない。

食うか食われるかが島の外の現実だ。中韓がルール無視なら、欧米は抜け道の手練れだ。欧米式はルールを造り、利用や穴抜けを才覚と考える。ベニスの商人は法の盲点を突くことを賞賛し、CO2規制ルールには排出取引ビジネスを成立させる。

お天道様の他に、恐ろしい人間を知らない日本人は、天のルールに従えば報われると思っている。正直に賢明に、ガマンにガマンを重ね、そのくせ、ひどい目に遭うと、「正直者が馬鹿を見る」と、突然キレ、状況無視の強腰に出る。
祈りばかりで、智恵がない。

切羽詰まれば、生き残りの武器は「知恵と才覚」だ。
戦後のどさくさの頃には、観光事業の男のような、ナリ振り格式を捨てた、ガムシャラな日本人で溢れていた。それが高度成長の繁栄を築いた。

今の上品な日本人は、ガムシャラ人間を、「空気の読めない奴」と排除する。そして、自分がそうなることを恐れ、失敗を恐れ、何も障害が無いにもかかわらず、自分で「結界」を張って、冒険をせず、足を引っ張り、問題を隠蔽し、衰退の坂を全員で転がり落ちている。

100年前、50年前、「坂の上の雲」を目指して、日本人はガムシャラに坂を登っていた。ここまで落ちれば、もう一度登り初めても良い頃だ。

※余談だが、「坂の上の雲」203高地の乃木の参謀こそが、今の日本社会だ。「角を矯めて牛を殺す」福祉政策は抜本的に発想を変えなければ、日本は死ぬ。