魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

情緒の嵐

2024年05月07日 | 日記・エッセイ・コラム

イスラエルとハマスの戦争が起こった昨10月、この戦争の勝敗はイスラエルの大義を世界が認めるかどうかだと思ったが、案の定、イスラエルに逆風が吹き始めた。
(→江戸の敵
なぜハマスは、一見勝ち目の無い、無謀な襲撃を始めたのか理解に苦しむように見えるが、イスラエルの出方を承知の上で「仕掛けた」PK狙いの突入だろう。

中東の歴史は複雑すぎて理解しきれない。
しかし、その歴史の結果生まれた「駆け引き文化」は、サッカーの試合を見れば良く解る。「中東の笛」は、裏工作を含め、駆け引きこそが真の戦いであり、観客や審判を巻き込み、判定勝ちすることが目的だ。
見えるところでは大げさに倒れ、さも痛そうに七転八倒する一方、見えないところでは、相手に致命的な反則をする。不利な判定にはいかにも不当な判定の被害者のように抗議する。しかも、しつこく粘り強い。
潔さを美とする日本人には、全く理解できない行動だが、これこそが彼らにとっては誠実(一生懸命)に生きることだ。

同じ中東の出身ではあるが、差別の世界で生き抜いてきたユダヤ人は、同情や判定を期待しない。徹底した現実主義であり、誰にどう思われようと自らの力で結果を出そうとする。しかし、逆にこれが弱点になり、イスラエルの建国が世界の同情によって可能になった側面を軽く見て、実力さえあれば勝てると信じている。
これを見抜いているのが、長年イスラエルと接してきたハマスだ。

今回のように不当な戦いを仕掛ければ、イスラエルは大義を得たと必ず徹底的な反撃を始める。そこで大きな被害を目にする観客が、逆にイスラエルを非難し、イスラエルの存在を否定し始める・・・かどうか、
イスラエル国家が世界に普遍化するドタン場で、ハマスの仕掛けた大博奕だ。実際、見た目に反応する人々や、ピュアーな善を信じる学生達が、大きく反応している。

少なくとも現場にいない限り、戦争に善悪などない。何はともあれ、止めさせることが第一で、喧嘩両成敗を前提に、双方に割って入るしかない。サッカーなら、レッドが出た段階で、どちらの責任に関係なく没収試合とするようなものだ。どちらにも不満が残るが、それ以上の被害者は出ない。
ウクライナにせよパレスチナにせよ、一方的な被害者とみれば、争いを止められない。双方の責任を承知の上でなければ、加害者を説得できない。

あえて言うなら、ウクライナはロシアとの妥協を拒否して、何が何でも西側に行きたいと叫びまくり、ハマスもイスラエルを敵とすることで存在してきた。
台湾がかろうじて戦争を避けてこられたのは、ウクライナのような騒ぎかたをしないからであり、賢明な統治機構があるからだ。
この事実を見ないで、可哀想だからと感情的に関われば、火に油を注ぐことになる。そして、残念なことに、世界はこうした情緒の嵐の中で進んでいく。


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