地下鉄80年

2007-12-27 06:44:02 | マーケティング
銀座線のある駅で、見慣れぬ車両を見る。通常の車両はアルミボディに黄色の横線入りだが、「全身イエロー・ボディ」である。車両の横腹に書かれた「80th aniversary」という文字が、「地下鉄開通80周年記念」を表すということがわかる。そう、記念車両だ。

もちろん、よく見ると、現代の車両に間違いことは、そのデザインでわかる。銀座線の代表的カラーは黄色の時代が長かったようだが、その後、現在の横縞のシールに進化したということになる(横縞もオレンジ色になった)。たしか、ペンキの重さの分だけ燃費(電気消費量)が悪くなるので、無塗装になったはずだ。



そして、開業80年というのだが、昭和2年(1927年)12月30日に、上野~浅草間の2.2キロが開通。これが極東最初の地下鉄だった。12月30日というのは、考えただけでも新事業開始日にはふさわしくないような気がするが、何か理由があったのだろう。その後、上野から徐々に南下し、新橋まで延伸。一方、渋谷方面から新橋方向には、別経営の地下鉄が開通し、この二つの地下鉄が合体し、現在の銀座線が完成。二つあった新橋駅の一つは、時折、イベントとして公開されている幻のホームとして有名である。

この銀座線の延伸を見ると、浅草から上野方向に進んでいったわけだが、逆に浅草から先には進まなかった、ということは、その後の東京の発展が、西へ西へと進んだことを示している。

もう一つ、銀座線のルートは、いわゆる都心南回りである。三越前、日本橋から銀座、新橋、虎ノ門と外堀通りの南側を通って赤坂見附で青山通りで渋谷まで直線コースになる。これに対して、半蔵門線は、三越前から北回りになり、大手町、神保町、九段を経て永田町(赤坂見附)に到達し、銀座線と同一ルートで渋谷に至る。要するに、まっすぐに赤坂見附から日本橋方面に直線を引くと、間に大きな邸宅があるわけだ。だからと言って、その邸宅の下に地下鉄を通して駅を作っても、乗降客は1日100人に満たないだろう。

同じように、江戸時代、日本橋が五街道の起点であった時も、甲州街道に行くには、やはり南回りルートを通って、赤坂見附、四谷見附というように歩いていたそうだ。

ところで、銀座線にかかわる話だが、以前は、駅に近づくと、一瞬、社内が暗くなる現象があった。電源の関係で、駅に着くたびに切り替えがあったようだ。そして、今は、瞬間停電は起きない。当時、この銀座線の瞬間停電に遭遇して、思わずびっくりする表情を見せると、「田舎者」の烙印を押されるので、注意が必要だった。(1993年にこの現象は終了したそうだ)

そして、かつて東京で生活をしていたにもかかわらず、何らかの原因で、東京を離れなければならなかった人間にとって、再び、東京に登場した時に、「銀座線に瞬間停電がなくなっていること」に、何よりの「感無量」を考えることが多いらしい。もちろん、あまり感動し過ぎると、これまた「田舎者」の烙印を押されることになる。



実際、矢作俊彦著「ららら科学の子」という長編小説に、元全共闘のメンバーで、ふとしたことで機動隊員に重傷を負わせ、そのまま中国大陸に逃走した男が、日本に再潜入した後、銀座線に乗り、この「停電のない銀座線」に大感動するシーンが描かれる。「過去から来た男」の試金石ということだ。



そして、こうして徐々に代替わりしていった地下鉄の車両だが、銀座線とならぶクラシック路線である丸の内線の車両が、現在、アルゼンチンのブエノスアイレスで稼働中だそうだ。目撃談によれば、車両には日本語表示がそのまま残っているそうだ。ついこの前、国債がディフォルトしたはずなのに、現在は「VISTA」諸国とかもてはやされているのだから、変な話だが、まあ、ケチれるところはケチるべきということだろう。日本もこのまま、国家的貧乏路線を突っ走るつもりなら、アルゼンチンから赤い地下鉄を再輸入しなければならないだろう。



ところで、本当の銀座線ファンならば、現代の地下鉄を黄色に塗っただけで喜ぶはずもない。地下鉄博物館のホームページを繰っていると、銀座線の代表的なデザインのペーパークラフトがあった。PDFファイルをプリントしたあと、次の4つの道具があれば車両を再現できる。

 1.はさみ

 2.のり

 3.器用な指

 4.忍耐

しかし、このうち、もっとも重要な1のはさみを忘れた場合だが、プリントしたままで切り抜けない用紙を床に置いてみて、「過去のノスタルジア踏み絵」として使ってみたらどうなのだろう。銀座線を踏めないあなたは・・・団塊世代ということなのだろう。


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