野球と鉄道-幻の球場と思い出の球団

2015-07-12 00:00:40 | 美術館・博物館・工芸品
新橋の鉄道歴史展示室で開催中(~7月20日)の本展は、かなり力のこもった展示だった。鉄道とプロ野球というのは、いまでこそ阪神、西武だけが鉄道系球団だが、以前は西鉄、阪急、近鉄、東急、国鉄もプロ球団を持っていた。

もちろん動機は簡単で、鉄道沿線に球場を作って稼ごうということ。

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ところが、野球を初めて日本に持ち込んだ男は、鉄道マンだったそうだ。平岡ひろし(漢字は現在存在しない)という元幕臣の官僚が明治4年から5年間渡米して鉄道技術を学んでいた。そして持ち帰ったのが鉄道技師の腕前と、野球。『新橋アスレチックス倶楽部』という野球チームを明治13年に立ち上げている。駅の構内の空地で野球をやっていたそうだが、1チームだったのかな。

そして、この展覧会が凝っているテーマが、『消えた球場』。

羽田グラウンドは大正時代には存在したが、羽田飛行場の拡張で姿を消した。つまり空港になった。

鳴海球場は、昭和2年、名鉄によって竣工される。昭和33年に消滅し、名鉄自動車学校になったが、観戦スタンドの一部が残されているそうだ。

しかし、なんといっても特筆すべきは、洲崎球場だろう。東京下町の東陽町である。

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昭和11年、大東京軍(現在のDeNAの祖先)の本拠地として開設。歴史に残る第一回プロ野球リーグ戦の優勝決定戦が行われている。ジャイアンツ対タイガースの3連戦。沢村栄治の3連投により2勝1敗で巨人が優勝。

ところが、建設場所が見つからず、海抜60センチの湿地帯に作ったため、異常にキャッチャーゴロが多かったそうだ。外野にはムシロがおいてあって水分を吸収していたそうだ。そして、翌昭和12年には沢村のノーヒットノーランはじめ、巨人、阪神が激突していて、都内から多くのファンがタクシーで押しかけ、ギシギシと危険な音のする木製の置きベンチで観戦していた。

が、栄光は1年で終わる。後楽園球場が解説されると、役目は終わる。昭和13年には、3試合だけが行われ、歴史の闇の中に消える。本展に際し、長い時間をかけ調査が行われ、球場の模型まで再現されたそうだ。今の東西線の沿線にあたる。そのうち探訪したいと思うが、もう少し調べてからにしないと無駄足になるだろう。

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そして問題の国鉄参入である。これには二つの計画が関連していて、一つは球場建設。グリーンパーク計画。現在の中央線三鷹駅の北側に支線を引いて、そこにグリーンパーク球場(東京スタディアム)を作ってしまった。風が強く吹くと砂塵が舞い上がる欠陥球場だったし、そもそも国鉄チームが弱小ということで、営業的に成り立たず、約1年の運命だった。もちろん鉄道も廃止。現在はグリーンパーク遊歩道になっている。ちょっと行きたくはない。

そして国鉄のもう一つの計画が、プロ野球への参入。大騒ぎの末、社会人野球に各地の国鉄から出場している選手を集めて昭和25年に結成。要するに、アマチュア野球人がプロに挑戦ということだ。球団のニックネームとして多かったのはスワローズではなくコンドルズだったそうだが、コンドルは日本語の「混んどる」に通じ、鉄道会社としては困るので、「座ろう」に繋がる「スワローズ」になったようだ。

国鉄スワローズは実質的には翌年入団した金田正一のためのチームであったといえる。14年間投げ続け、巨人に移籍。国鉄もまもなく終わった。

おまけだが、いまはなき近鉄バッファローズの球団マークの二本の角の絵だが、岡本太郎氏の作だそうだ。どうも、この数ヶ月、あちこちで岡本太郎や縄文土器の影が身の周りから離れない。


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