特別展「縄文 VS 弥生」国立科学博物館

2005-08-12 21:59:25 | 美術館・博物館・工芸品
26a9c8f9.jpg以前の国立科学博物館はどうしようもなくプアだった。何がプアかというと、博物館におカネをかけない国の方針がしょうもないということ。日本のこどもは夏休みに博物館に行くのだ。夏休みの宿題があるからだ。その時、こどもが将来、科学者になろうと思うような施設が足りなかったわけだ。ところが、最近はあちこちに施設が誕生している。この上野の科学博物館は建て直された。お台場の日本科学未来館もすばらしい。残念ながら、すばらしい博物館ができた頃にはこどもの数が減りだしているという現実なのだが・・

さて、その新しい科学博物館の一角で特別展が開かれている。「文化や人間」について縄文時代と弥生時代を比較しているのだ。なにしろ、最近の考古学や人類学は科学的だ。

考古学の世界では、「放射性炭素年代測定」によりかなり狭い範囲で遺跡の年代が特定される。欧州でも、従来のギリシア・ローマが先行文明でフランス・ドイツは未開人だったというのが誤りで、同時的に異文化が発生していたというように教科書が書き換えられている。同様に日本でも、弥生時代と縄文時代の関係がクリアになりつつある。対立的、唯物論的ではなく、融合的であったということだ。そして、欧州と同様に、今までの歴史をかなり遡って、縄文時代と弥生時代の切り替え時期は紀元前500年頃から紀元前1000年くらいに遡ったのである。つまり、稲作3000年の歴史ということになる。3000年の歴史の果てに到達したすばらしい成果がコシヒカリで、すばらしくない成果が農協だ。

また、人類学の分野では、「DNA鑑定」や「ミトコンドリアDNAタイプ」により、大陸との人間の交流関係がはっきりしてきた。驚くことに、縄文時代人が弥生時代人に駆逐されたわけではなく、日本では、現在でも縄文型の人間の方が弥生型人間より多いそうだ。つまり、もともとの縄文時代人というのは、比較的世界共通の人種だったのだが、北アジアの寒冷地から稲作と一緒に渡来した弥生人が弥生的ムラをつくり、戦争の習慣も持ってきたわけだが、縄文人の方も稲作を真似することにより、徐々に縄文文化が弥生化したものと考えられるわけだ。

会場の一角にあったプリントには面白いことが書いてある。
あなたは、どっち顔?というのだ。
顔の特徴は次のとおり(縄文/弥生)
 顔の形  (四角/長細い丸)
 まゆげ  (盛り上がる/平ら)
 鼻の高さ (高い/低い)
 体毛   (濃い/薄い)
 目の大きさ(大きい/小さい)
 まぶた  (ふたえ/ひとえ)
 耳たぶ  (大きい/小さい)
 歯の大きさ(小さい/大きい)
 唇の形  (大きく厚い/小さく薄い)

私は9個中7個が縄文系。

明治以来、考古学や人類学の分野には、かなり怪しい先生が多かったらしい。自作の石器で名をなした教授もいた。「彼と私は違います」とピラミッド学の吉村作治先生も講演していたが、ミイラの偽者をつくるのは大変だからだろう。そしてなにしろ、弥生時代の名前の基になった弥生地区は、上野から10分ほど歩けば行ける場所なのだが、その弥生地区のどこで最初の土器が発見されたのか、今やわからないそうである。

さらに、なぜ、この「ガチンコ対決 縄文VS弥生」というような変な名前が展示会につけられたのか?まるで野球かプロレスの試合のようだと思われるだろうが、スポンサーの会社が鍵だ。「読売新聞社」である。なぜこんなところにまで現れるのだろう。


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