特例プロ棋士の対岸にいる青年

2005-11-08 23:17:11 | しょうぎ
多くの報道が、11月6日に行われた、瀬川昌司氏のプロ入り試験第5局での、「瀬川勝ち→プロ入り決定」を報じている。1944年以来の61年ぶりの快挙。ということだが、その話について軽くまとめてみるとともに、その試験対局の2日前、11月4日の深夜、赤坂のスナックで初めて出会った、ある将棋天才青年の話を書いてみたい。

まず、将棋のプロ(四段以上)になる方法は基本的に一種類しかない。10代のうちに「奨励会」というプロ養成所に入会すること。そして月に2回の例会での対局で、同じレベルの仲間を打ち破りながら、最初の6級から5級、4級、3級、2級、1級、初段、二段、三段と昇級していき、三段リーグという大人数のリーグ戦で上位2位に入ること。その三段リーグは半年をかけて行われるので、春と秋と二人ずつ、つまり年間4人がプロに入れる。そして26歳になると、奨励会の定年制にひっかかり、ノーチャンスとなる。

実は、61年前の特例というのは、昭和19年のことで、「東海の鬼」と言われた賭け将棋師(真剣師)花村元司が升田幸三との賭け将棋で善戦(香落ちだったが)したため、その推薦を受けて審査したということだ。そして四段を飛び越え、いきなり五段になっている。昭和19年に20歳代の賭け将棋師がいたという事情もよくわからないが、この花村氏はその後、八段リーグで優勝して大山名人に名人戦で挑戦している。そして25年ほど前のことだが、やはり賭け将棋師の小池重明という無法者がいて、プロに対して平手で7勝1敗という成績を持ち、プロ入りを目論んだのだが、門前払いとなる。もはや戦後の真ん中で、違法行為や、詐欺などを常習とする男には勝負以前のハードルがあった。そして小池は失意の中、全国を放浪し、44歳の人生を閉じる。

今回の瀬川新四段の場合は、完全に現代的な事情だ。奨励会規則により三段リーグを退会。そして、普通はここで他の人生に向かうのだが、彼の場合、NECの関連会社に就職し、アマチュア将棋界に復帰する。そして、30歳頃から頭角をあらわし、1999年にアマチュア名人になったのをはじめ、常にアマ大会の上位を占めるようになる。そして、たまたまケーブルテレビがスポンサーの「銀河戦」にアマ枠で出場すると、大活躍。最近のプロとの対戦は17勝7敗ということで、異例ながら今年2月28日に「プロ入り嘆願書」を提出。そこからが騒ぎになり、結局5月の棋士総会で、プロ入りテストの結果、プロを認定しようということになった。

しかし、実際には、「アマにどんどん負けるようでは、我々の示しがつかない。棋士が増えると一人当たり収入が減るので困るのだが、一人くらいはいいかな」という妥協の産物のような気もする。実際、6番勝負で3勝で合格という変なルールでは、同程度の実力同士なら65.6%の確率になる。

結果、めでたく×○×○○-ということになり1局あまして合格したのだが、実は、まだ厳しい条件がついているのだ。つまり普通の棋士ではなく、資格は「フリークラス棋士」である。この「フリークラス」というのは、引退に近い棋士や、一番下の四段リーグから陥落した弱い棋士に与えられる資格で、普通のトーナメント型の棋戦には参加できるが、名人の座につながるリーグ戦のほうには参加できないのだ。そして、およそ65%くらいの勝率を上げると四段リーグに入れるのだが、それまでの猶予期間は10年間しかないのだ。つまりどう考えても、収入的には今のサラリーマン方式の方がいいと言える。さらに、彼は今すでに35歳。あの羽生四冠や森内名人と同い年なのだが普通なら棋力が下り坂に向かう年齢なのだ。

ところで11月4日の金曜の夜のこと、赤坂の将棋好きの社長兼マスターのいるスナックで飲んでいたら、社長がある青年を呼び出した。その青年の名前は「島村健一」。奨励会二段を退会した男ということだった。ただ、どこかで聞いたことがあったような気がしていた。そして既に酔っていて失礼と思いながら、社長の顔を立てて、さっと指してさっと負けてみたのだが、少し世間話をする。瀬川問題は彼には割り切れないということだった。つまり、退会すると挫折感が大きすぎて、アマチュアとの試合なんかできないということなのだろう。確かに瀬川四段も退会からアマ名人までは5年かかっている。そして、彼は携帯で呼び出され、夜11時頃、どこかの店でバーテンをするために私の前から姿を消した。

その後、「島村健一」のことを調べていたら、華麗な成績だった。まず、小学生名人。羽生四冠や、20歳の竜王の渡辺明も小学生名人だ。そして次に、中学生名人も獲得している。記録上、一人で小学生名人と中学生名人を獲得したのは3人しかいない。逆に、プロになるためには小学生名人になったら直ぐにプロの門を叩かなければ間に合わないのかも知れない。何しろ、1年にプロが4人という狭き門から考えると、小学生名人戦のベスト4になるくらいの実力が必要ともいえる。

島村健一はそうして、14歳の夏に奨励会に入会するのだが、思うようにはいかない。入会後6年4ヶ月を経て、2000年12月に、上から二番目の二段リーグに昇段。その時20歳。そして、目標の三段リーグまであと階段一段が上れずに、2003年11月に7連敗を喫したところでついに退会を決意する。時に23歳の秋のことだ。そして現在、2年間の充電終了というところか。

彼の名前は小学生名人、中学生名人を獲得したことで必ずアマチュア将棋の歴史に活字を残すことになる。しかし、プロをめざしたものの、プロ公式戦での対局記録はない。奨励会の対局は棋譜の記録も残さない。

しかし、図書館で調べていたら、何も残っていないはずの島村健一のことについて書かれた記録を見つけた。将棋連盟の公式誌である「将棋世界・2001年3月号」の奨励会成績のページに、二段に昇段した時のことが書かれていた。

島村初段が、14勝5敗で二段に昇段。昭和55年5月12日生まれの20歳。平成6年8月の入会で6年4ヶ月かけての二段到着。「以前から、期待されていたうちの一人だが、ムラッ気があり、後一歩の所で昇段を逃していた。最近になって、礼、行儀、姿勢もしっかりとしてきて、ねばりも加わってきた。今回の昇段は、当然といえよう。」

あるプロ棋士の言葉であるが、それ以降の彼の成績を見ると、不幸にして、この「ムラッ気」が当たっている。二段での成績も連勝と連敗を繰り返している。専門的に言えば、負けを引きずるタイプなのかもしれない。そして、23歳で7連敗した時には、かなり滅入ってしまったのかもしれない。

現在、彼はバーテンのかたわら、恵比寿で将棋を教えているそうだ。会員制で結構高額だ。パンフレットをもらったのだが、入会金1万円、月謝は1.2万円から2万円とのこと。ただ、場所は将棋道場というような野暮ったいところではなく、「スタイリッシュなソウルバー」とのこと。健闘を祈るしかない・・


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