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赤松広秀の祟りか

2017-09-07 00:00:49 | The 城
関東から行こうとすると、結構、秘境感があり、山頂の本丸跡に到達した時には疲れ果てている感のある場所にある竹田城だが、昨年訪れた時に感じたのは、外国人観光客が多いことと、相応に観光地になってしまったことだ。

この城は時に雲海の中に沈む「天空の城」という面と、足で攻略するのが難儀な事が二つの特徴だが、天空の城の絶好の撮影スポットは、隣の山の上なのだ。ではクルマで行けばいいかというと、関東からは非常に遠く、また竹田城の頂上にはクルマでは登れない。

最近のハフィントンポストの記事で、一本松が枯れたと書かれていて、原因は観光客だと断定されてしまった。

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天空の城「竹田城」の一本松、 観光客急増で枯れる
 「天空の城」として人気を集める竹田城跡(兵庫県朝来市)のシンボル的な存在だった「一本松」と呼ばれるアカマツが枯れていたことが分かった。9月1日、ハフポスト日本版の取材に朝来市文化財課の担当者が明かした。
 担当者によると8月28日、樹木医が検査したところ枯死していることが確認されたという。
一本松は城跡の「南千畳」と呼ばれる場所にあり、城跡のシンボル的存在だった。城下町を一望できる撮影スポットだったため、周囲を歩く観光客も多く、幹周辺の土が踏み固められてしまったため、衰弱していたという。6月から周辺の見学通路を立ち入り禁止にしており、2018年1~2月の冬季閉山中に伐採する方針だ。
 担当者は「城跡内には他にも樹勢が衰えた木が多いため、枯れないように見学通路を再考して、観光と自然が両立できるようにしたい」と話している。
 神戸新聞によると、樹齢は推定100年以上、高さ約15メートル。石垣の上にそびえる姿は麓からもよく見えた。しかし、雲海などの人気で急増した観光客が周辺を踏み歩き、2011年ごろから地表の草が失われて土壌が露出。根もむき出しになって樹勢が衰えていたという。



心が痛いが、近くを観光客が歩くので根が傷んだということだそうだ。記事の画像は、枯れてしまって赤変した松の画像が無残だし、城郭の全体像がわからないので自分のアルバムの中のとっておきの一枚を貼っておく。

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ところで、松は赤くなってしまったのだが、この城を築いたのは、何の因果か赤松広秀という大名なのだ。

関ケ原の戦いでは負けた西軍に属していたのだが、猿知恵を働かせ、同じ西軍仲間が逃げ込んだ鳥取城を攻略し、東軍の味方に早変わりしたのだが、鳥取市街地に火を放ったことを家康にとがめられ、切腹させられた。せっかくの鳥取攻撃が、ただ働きになった。

鳥取城はかつて秀吉に包囲され、餓死者無数の悲惨状態に陥り陥落したのだったが、その祟りで赤松広秀の運命が尽きたのだろうが、今頃、赤松が恨みを晴らしたのだろうか。

犬山城のしゃちほこ、落雷で破損

2017-08-04 00:00:00 | The 城
犬山城の天守閣のしゃちほこが落雷によって破損したそうだ。なにより天守閣が炎上しなくてよかったと言わなければならない。

日本には中世に建てられたオリジナルの天守閣が12本しかない。(といっても、弘前と高知は比較的新しい)

その中でも、美しい天守閣とそうではない天守閣があってそれなりにファンはいるのだが、天守閣の最高層階からの眺望と言えば、犬山城の右に出るものはない(左に出るものもない)。12ヶ所とも行っているので信じてほしい(信じなくてもいいが)。

もう一つの特徴は、この城の所有者はごく最近まで個人だった。それも元城主(大名)である成瀬家の所有だった。といっても個人が何代も国宝の天守閣を所有するのは至難の業であり、今は公益財団法人の名義になっている。

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画像を確認すると2005年に登城している。

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まず、折れたしゃちほこだが、屋根の南北に一つずつ立っていたのだが、北側の木曽川に近い方が被雷したようだ。通常の入城は南側になるので、北側のしゃちほこを撮影するのはかなり難しい。ちょうど北側の最上階から木曽川を写した画像があって、よくみると画面の右側に緑色の線が見える。これはしゃちほこからの銅線のように見える。

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一方で、こわれたしゃちほこの画像を探していると、しゃちほこをネジで中の木材に取り付けていたところがあった。ネジは緑色なので銅製なのだろうか。さらに下に向かう銅線との接続が切れているようにも見える。

しゃちほこは陶器で電気を通さないが、形状的には尻尾の部分がとがっていて落雷の危険がある。それならもっと避雷針に徹底しておけばいいのではないだろうか。中途半端に銅製の小さな金属ねじを使ったので、逆に危うかったのではなかっただろうか。

天守閣が燃えなかったことについてはシャチホコが身代わりになったということに尽きるだろう。

明石城は交通の要所だったが

2017-05-30 00:00:49 | The 城
明石という地名は源氏物語にも登場するほど古くから有名であり、おそらく現在の明石駅付近だけを指すのではなく、もっと広い範囲を指す言葉だったのだろう。

山陽道の要所であり、内陸へ入るのもまた淡路島に向かうにも、また瀬戸内海の入口(北が明石海峡、南が鳴門海峡)でもあり、海上交通、商業、軍事的にも重要な場所であり、江戸時代の初めには、大阪と姫路の間の守備の要と思われていた。

ところが、実際には江戸幕府の権力が強すぎて、反抗する大名などいなかったこともあり、どうも6万石から10万石規模ということもあり、様々な親藩大名が次から次へと城主になり、大部分は、明石を去ったあと、落ち目になっている。出世城ではなく没落城だったのだろうか。

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場内は四つの隅にあった櫓のうち二つと天守閣予定地の天守台が残るが、天守台は前面にある櫓にかなり隣接していて、まったく不自然だ。現地から帰ってしばらくして思いついたのだが、山陽路から見る参勤交代の大名たちが、徳川親藩の力を過剰に意識するように、天守閣がより大きく見えるように道に近い場所に設計したのではないだろうか。

実際には天守台の上には天守閣は作られなかった。江戸城の天守閣が、早い時期に再建されなかったことも原因の一つだろう。

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石垣は、しっかりしているように見えるが、石と石の間がすいている場所が多い。阪神淡路大震災のあと、崩れた石を積みなおしたそうだが、たくさん石垣を見ている目で言うと、少し不安を感じる。

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水堀にはたくさんのミドリガメ(アマゾンアカミミガメ)が生息していて、一部は堀をよじのぼり、天守台のそばで観光客の残したオニギリを食べていた。

清洲城天守は美しいが

2017-04-09 00:00:20 | The 城
先日、2013年に公開された「清須会議」という映画を観たが、本物の清州城を見に行きたくなった。清須会議とは、織田信長が明智光秀の謀反で殺された後、秀吉を中心とした弔い合戦の末、明智勢力が撲滅され、それでは次の織田家の家督を継ぐのは誰にするかという議題について、秀吉と柴田勝家が争う。(清洲と清須は実際には同じで、混用されているが、戦国時代は主に清洲で江戸時代は清須、現代はまた清洲がよく使われるが市の名称は清須だ。)

実は、もう一つの清須会議がある。時代はもっと下って、秀吉が亡くなり家康と石田三成が関ケ原で戦う直前に、東軍の先鋒部隊がここ清洲までやって来た時に、軍勢の中が疑心暗鬼になる。というのも先鋒部隊に続く後方隊が江戸からやってこないわけだ。

つまり、家康の陰険な性格は東軍の武将も承知済み。家康の捨て駒に使われているのではないかと疑い始める。裏で家康と三成が手を握っていて、東西挟み撃ちされるのではないかと、この清洲城で軍議が始まる。


ところで、清洲は織田信長の居城として有名で、桶狭間の戦いで、戦国時代の「信長の野望ゲーム」のトーナメント1回戦に勝った時も、この城から出陣している。しかし、静岡から名古屋まで東海道沿いはおおむね平野であり、堅固な城を築くことが困難で、清洲城もさして大きくない五条川しか守るものがない。

ということで、清洲城に向かうのだが、事前研究では最寄駅はJR清洲駅と名鉄新清洲駅となっていて、名鉄の方が行きやすいと書かれていた。確かにそうかもしれないが、実はJR清洲駅から行き、名鉄新清洲駅から帰るのだが、JR清洲駅からは道は複雑だが、親切すぎるくらい行き先表示板が充実していて、道に迷う心配はないが、名鉄線からは案内板がないので、特に帰り道に名鉄駅を目指すと、相当不安になる。

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そして、現代の清洲城は、きわめて美しい。信長が後に築いた安土城とイメージが重なる部分がある。すっきりしたフォルムと最上階の手すりの朱色、観賞用には最適だろう。しかし、大きな問題が二つあるようだ。

一つ目は、その美しいフォルムだが、実際の清洲城は家康の命により1609年に取り壊しになり、その材木が名古屋城に転用されている。残念ながら、歴史上の重要建造物なのに、屏風や絵巻物などの視覚的データが残っていない。ということで、想像の産物なのである。ある意味、だからこそ、現代人が見て美しいのかもしれない。

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二つ目は、天守閣の位置が実際とは異なること。これは実際の場所がわかっている。礎石のあった場所は円形に低木が植えられているが、土饅頭みたいで縁起が悪い。ではなぜ、その場所に天守閣を再建しなかったかというと、この清洲城の城郭エリアだが、中央に東西に新幹線が走り、河川工事の結果、五条川が南北に貫くことになってしまったわけだ。しかも、実際の天守閣跡の近くには市役所関連施設があることにより、もっとも使いにくく空いていた場所に復元されたのだろう。

天守閣内には、思いのほか織田信長の偉業がデジタル化されていて、武器、武装なども豊富だ。陣太鼓もあり、入館者は好きに叩くことが認められている。お客様ファーストだ。実際に景気よく連打してみたのだが、これからの人生で、どこに向かって出陣すべきかまでは、思い浮かばない。

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そして、家康が岡崎城を10年で出たように、信長も10年で清洲城を離れ、美濃(岐阜県)に向かって進撃を開始する(トーナメント2回戦)。

岐阜城訪問して思ったこと様々

2017-04-02 00:00:06 | The 城
東西往復を百回以上していても、岐阜駅で降りたことはなかった。東海道線の駅だが、新幹線は通っていない。となると名古屋から在来線に乗っていくのだが東西往復ルートからはかなりはずれてしまう。最近、好き勝手な時間があるので、新幹線の米原と名古屋(あるいは豊橋)の間を、在来線を使って、岡崎城、清洲城、岐阜城に寄ってみた。

岐阜城は岡崎、清洲にくらべてかなり立派ということしか知らずに、岐阜駅からバスで岐阜公園にあるロープウェー乗場に向かう。ロープウエーで天守閣というと、岩国城もそうだったが、岐阜城もはるかな山の頂上にかすかに天守閣が見える。城の全体像からいうと、長良川に面した場所に城郭(今の岐阜公園)があり、その裏山というのが高い山で、その上に天守閣が立つ。通常、城主は平地にいたに違いないだろう。

築城当時は稲葉山城といわれて、その後、蝮一家の斎藤家が居城とするが、内部抗争や織田家との争いで朽ち果てる。織田信長は、この地をいたく気に入り、天下の中心という意味の岐阜と名付け、バリバリと進軍を始めるが、天下統一の前に明智光秀に寝首をかかれる。

その後、織田家や豊臣家が城主に座るが、いずれも負け組になってしまう。韓国の大統領府みたいなものだ。さらに明治になり、自由党総裁の板垣退助が城内にあった公民館で演説を行った後、暴漢に刺され、軽症だったにもかかわらず「板垣死すとも自由は死なず」と言った(現在の自由党とは関係ない)。

結局、関ケ原の戦いの後、家康により廃城の扱いとされる。

家康は、五街道を決めるにあたって、岐阜を東海道ではなく中山道にしてしまい、とばっちりで、東海道は宮(熱田)から海路で桑名に向かうことになってしまう。よほど岐阜に嫌な思いがあったのだろう。

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ロープウェーを下りても、そこから足元の悪い道を歩き、やっと天守閣に到達するが、いわゆる復興天守。ここも元の姿はよくわからない。天守閣の最上階に登ると、きわめて眺望がよく、眼下に長良川とその河川敷が開ける。

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下で調べていたところでは長良川の河川敷には「高橋尚子ロード」というのがあるそうだ。地元の高校を卒業したそうだ。全国には、高橋尚子ロードは数ヶ所あるのだが、いずれも本人と縁のある場所だけである。地元のスポーツ界の大御所の考え方と共鳴するからといって、講演料や夜の酒宴に目がくらんで次々に名前を張り付けたりはしないようだ。

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しかし、岐阜城しかり、安土城しかり、岩国城しかり。山の頂上にまで石垣と城壁、天守閣を築き、それをまた攻め落とすということが行われた結果、死体累々の上に内戦が終わり、江戸幕府が開府したわけだ。

岡崎城は、あまり家康に好意がないのかな

2017-03-22 00:00:00 | The 城
家康にとって岡崎城は生家であるのだが、実は今川家への人質プレゼントにされてしまい、実際、今川義元にしてみれば、織田信長を一潰しにして、次に三河一帯を占領すれば徳川なんか不要ゴミのはずで、腹でも切らせてしまおうと思っていたはずだ。信長が今川家を叩いた結果、混乱に乗じて家に帰れた。

そして、また織田信長が天下統一を図ろうという話になり、選択肢なしで同盟を結び、浜松城で、東の要として武田勢と戦うのだが、大敗するも生き残りしぶとく次のラウンドに進む。

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そういったかなり必然の中で、岡崎城に戻ることはなかったから、あまり地元は家康公に肩入れしないのだろうか。確かに江戸時代以来、「家康公の生誕の地」という特別扱いを受けて、城下町であり宿場町という扱いを受け、賑わっていたのだが、それだけのことなのかもしれない。5万石にしては、城内は広く立派で、元の天守閣は明治6年に解体されたが、運よく写真が残っていて、ほぼ江戸時代初期の外観の通り復元(鉄筋コンクリート)されている。

余談になるが、竹千代(家康)を人質にした今川家だが、桶狭間の戦いで義元がまさかの討死となったあと、家を継いだ氏真だが、能力も人望もなく家は衰え、ついに信玄と家康の両者より駿河から追放されるのだが、奥様の実家の北条家に厄介となる。その後、恥さらしにも人質にしていた家康の家臣となり、その結果、江戸時代は高家旗本となる。天皇家の饗宴係。吉良上野介や織田家の子孫などとも同列の身分である。

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さて、城内には家康公の銅像も立つ。元首相佐藤栄作氏に似ている。駿府城にも銅像はあるが、顔つきは似ていない。が、いずれも寝業師の顔と言える。

ところで、名鉄の岡崎公園駅から歩いたのだが、見事に道に迷ってしまった。ほぼ、城への案内看板はない。城の防備のためなのだろう。

赤穂城を訪れる

2017-03-19 00:00:36 | The 城
先日、「忠臣蔵」の研究書を読んで、少し考えることがあった。よく言われているように、第一の事件として浅野内匠頭による「殿、城内でござる」という刃傷事件があって、将軍綱吉が烈火のごとく怒り(天皇の使者を接待する役目を無視して凶行に及んだ)、切腹&お家取り潰し=赤穂城明け渡しと藩士全員の失業を決定。

その後、第二の事件として敵討につながっていく。

失業した藩士から見れば、いかにバカ殿でも敵討でもしなければ人生の意味が見つからないということもあったのだろう。一方で、敵討に喝采を送ったのは江戸市内の町人で、喝采の意味の中には綱吉政治への批判が含まれている。一般に綱吉は犬殿とかチビ殿とか言われ、不人気将軍だったのだが、人道主義的な善政の部分もあるわけで、さらにややこしい。関ケ原から100年経って、武士の世から町人の世に変わる中で綱吉は城内の闇討ちや敵討など大嫌いだったのだろう。

そこで、私が気になっていたのは、そもそも忠臣蔵騒動について地元の赤穂ではどう取られているのだろうという点。


ということで、やや行くには不便な場所なのだが、播州赤穂へ行った。

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播州赤穂駅からまっすぐ南に1キロ歩くと水堀と櫓が見えてくる。戦国時代末期には、城の先がすぐ海で、海水を堀に引き入れていたはずだ。

そして、今立っている建物は、いずれも新しく白壁も美しい。しかし、広大な空地が広がっていて、庭園の工事などが少しずつ続けられているようだ。また、天守閣を建てるための天守台と言われる石垣が修復されている。江戸城と同じで、石垣を組んだ段階で天守閣は作らなかったようだ。

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城に隣接して「歴史博物館」があり、入館して展示を見ている間に確信したことがある。

地元では、内匠頭の愚行を認めていないのだろう、と思えるわけだ。

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博物館の一階で最も大きなコーナーは「赤穂の塩」といわれる製塩業の発達のこと。要するに浅野家は製塩業を重要産業と位置付け、技術開発をはじめとして近代的工業化をしたわけだ。そして、内匠頭の先代の時代に日本一の生産地になっていた。その結果、各地に塩が販売され、藩はやっと五万石の対面を保つだけの資産を得ることになり城内の整備も行い、次の事業の財源にもなった。

それは上水道システムで、神田上水らと並ぶ日本有数の水道網を作っていた町中どこでもきれいな川の水が飲めたわけだ。

ところが「殿ご乱心」のあと、結局浅野5万石が森2万石になってしまう。要するに領地が少なくなった。したがって貧乏になったわけだ。


忠臣蔵コーナーは2階にあるのだが、記載事項は歯切れが悪い。観光地化するためには重要な史跡だが、実際は嬉しくもない話だ、ということなのかもしれない。

会津若松城で考えたこと

2017-01-05 00:00:56 | The 城
会津若松城は遥か数十年前に訪れたことがあり、今回は再訪。驚いたことに、東北本線郡山駅からJRではなく高速バスに乗ると、会津若松城の近くの合同庁舎まで連れて行ってもらえる。ただ、合同庁舎といっても霞ケ関の国交省のビルなど思い浮かべてはいけない。単に2階建ての建物だ。

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前回のイメージは、古色蒼然とした悲壮感のあふれる復興天守閣が一新され、なにしろ瓦の色が健在だった頃の赤色に修正されている。そして、観光化が進んでいるように思えた。

まず、外観がとても美しい。やや気がかりは明治初期の現物の写真より現在の復興天守閣はスリムに見えるのだが気のせいなのだろうか。

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城郭内部は多くの天守閣と同じように博物館になっていて、この城の歴史がパネルにまとめられている。

たまたま近郊に住む夫婦と思われる二人が子供に歴史を教えていて、「薩長にやられて、城が燃やされた」と言っていた。よほど恨みがあるのだろう。実は戊辰戦争の時には燃えなかった。明治になって城が陸軍の兵営になり、天守は無用の長物となり、解体されたわけだ。教えるなら正確な方がいい。

さらに、展示パネルを読むと、幕末について、「もともと薩摩と会津は、手を組んで長州征伐を行ったのに、いつの間に薩摩は我々を裏切り、長州と連合した」ということになっている。実際はそんなもので、張本人は坂本龍馬である。正確に言うと、薩摩藩の中の攘夷派が敗退し、開国派に変わり、同様の選択をした長州と手を組んだということなのだろう。

75年前の真珠湾攻撃も水に流そうというのに、会津藩は150年前のことを恨んでいるようだ。

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再び合同庁舎付近に戻ると、会津若松市の市役所であるとともに大熊町の役場の一部でもあるようだ。

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会津ラーメン。東京にある会津ラーメン店の味と同じかどうか確認してみたのだが、同じであったと書いておく。

仙台城址には天守閣はなかったのだから

2017-01-04 00:00:00 | The 城
仙台城は別名青葉城といって石垣の下には青葉川は悠々と流れている。仙台の駅前から行こうとするとなかなか交通機関がなく、以前訪れたときは、長い坂道を歩いた記憶がある。今回は運良くルートバスという観光地巡りのバスがある。仙台駅より行はいいのだが帰りは遠い。時計回りのバスしかないのだが、反対周りも必要と思う。

しかし、仙台城が観光地化できないのは理由がある。天守閣がないわけだ。本丸など、城のもつ行政的な機能は十分だが、戦闘設備である天守閣は築城した伊達政宗が不要と判断したのだろう。省略されている。二代目の忠宗が二ノ丸、三ノ丸を増築し大藩に相応の城となる。

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江戸時代初期にはまだ徳川家の権威が確立されてなく、特に伊達、前田、島津の三藩の動静には幕府が注意していてお庭番と称するスパイに内偵させていた。余談だが松尾芭蕉も伊賀藩に由来するスパイであり、奥の細道にしても東北各藩の偵察旅行であり、特に仙台藩の領内では、スパイの常として緊張感を続けていたようだ。松島旅行なんかまさにスパイ旅行だ。

ところが明治以降になり、仙台城はよってたかって痛い目に合う。まず、陸軍が使うといって本丸を破壊。次に火災発生で二ノ丸、三ノ丸が焼失。B29が爆撃して残っている江戸時代の建物がほとんど焼失。そして戦後進駐軍が接収し、完全に破壊する。最後のとどめが東日本大震災で、石垣が崩壊。

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城内の解説書では、『平和な城として完全に保存して明治時代に至ったが、心なき俗吏によって破却せられ・・・』となっている。明治政府に反感があるということなのだろう。

本丸周辺の建物の礎石は復元されていて、各部屋の名称まで特定されているのだが、入り口のところにある部屋には『首実検の間』と、気持ちの悪い名称がつけられている。首実検といっても、首をつかって化学実験をするわけでもなく、「クビ!」と言い渡してどういう反応をするのか実験するわけではなく、戦闘で殺した相手の首を並べて、これは誰のものかと特定していく部屋だ。あまり使われなかったと思う。

安土城を攻略(2/2)

2016-12-02 00:00:01 | The 城
途中で、信長の墓と天守方向に道は分かれるが、信長の墓がここにできたのは後世のことである。天守に向かうとさらに石段は険しくなるが、空が見えるようになり、そこが天守跡なのだ。

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山の上に台石がいくつも積まれているのだが、そこは、地下室なのだ。天守台と見える部分は単に地下一階の床であり、一階の大きさは縦も横もこの2倍、つまり面積は4倍にもなる。

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そして眼下にはお約束通り琵琶湖が望めるが、当時は山の下まで琵琶湖が広がっていた。

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安土城だが、高さは秀吉の建てた大坂城を超え、床面積は大坂城の方が大きい。後に江戸城天守閣を建てるときは、安土城より高く、大坂城より広くということになった。

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江戸城の再建や、名古屋城の建て替えが話題になっているが、筋からいえば安土城ほど美しい城はないのだから、この城は再建されないのだろうかと思われるかもしれない。

色々と制約が考えられるのは、まずこの土地は私有地であるということ。摠見寺(そうけんじ)という寺院の所有物で、寺院の安全確保体制の中で、なんとか登ることができるわけだ。さらに登るのが、厳しすぎるわけだ。400段ものオリジナルの石段である。観光地にするにはロープウェーしかないだろうが、簡単にできる場所がないし、建設資材の搬入も困難だ。さらに安土市は近江八幡市に吸収合併されたので、安土城だけの開発ではなく近江八幡とセットの観光化が求められる。しかも東京や名古屋のような金満な都市じゃないわけだ。

そして下り階段は、曲がりくねって狭く、足を滑らすと滑落し、信長たちの仲間に入ることになるのだが、安全な場所では足を滑らすことが多い。ぬかるみの中に一本の材木が置かれ、平均台のように歩く必要な場所もある。とにかく、まったく油断できないわけだ。

歴史家ではないので、勝手なことを言うと、明智光秀の謀反(本能寺の変)だが、光秀は天下を制覇したかったのではなく、安土城が欲しかったのではないか、と感じたのだ。秀吉と利家の邸宅が組み込まれていた城には、すでに光秀の場所がないわけで、よほどの暗愚でなければ自分が粛清される運命だったことは見えていたのだろう。


安土城を攻略(1/2)

2016-12-01 00:00:12 | The 城
安土城は織田信長が天下統一のため、琵琶湖に面する安土山の上に建てられた、史上最も美しい天守閣を含む軍事要塞だった。門は三門といって、将来、天皇を迎えるためともいう。残念なことに3年後に、信長は明智光秀の凶刃に倒れ、その後、秀吉による光秀の成敗が行われた山崎の戦の頃、原因不明の焼失をしてしまう。光秀の謀反も原因不明、安土城の焼失も原因不明である。残されたのは城址と安土桃山時代という文化史上の名誉である。最上階は南蛮造りで内装は金箔。

ということで、城を語るなら安土城に登るしかないだろうとは思いながら、実は過去2回にわたり安土駅を目指したのだが、いずれも雨で撤退。2回目は駅に降りた瞬間に雨が降ってきた。拒絶されたわけだ。事前にネットで調べると、雨では無理そうなのだ。

さらに、今年は熊が全国に出没するわけだ。特に冬眠前は必死に餌を探す。滋賀県では、昨年は三重県が捕獲した熊を、滋賀県で放すという事件まで起きている。慎重に調べると、琵琶湖西岸には熊はいるが、東岸にはいないことがわかった(安心はできないが)。

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しかし、安土城は決して観光地化されているとは言えない。なにしろ、大きすぎて整備するには巨費が必要だろうが、それほど人が呼べるとは思えないのかもしれない。それがお城ファンには好まれるという面もある。まず、安土山まで行く方法があまりないのだ。お勧めとされているのが、レンタサイクルである。荷物を預け、自転車に乗って15分。これで安土城大手道の入口に到着する(帰りは道を間違え40分かかったが)。

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そして、待ち構えるのは大石段である。豪快な石段で、一段が30センチ平均だろうか、登るのによろよろする。天然石なので一段一段の高さは不均一なので確認しないといけないし、蛇行しているので歩く場所も気を使う。中には仏像を横倒しにして転用している場所もあり、歩くときに仏様を踏みつけることになるが、信長は坊主が大嫌いだったから意に介しなかったのだろう




下の方に前田利家の邸宅跡があり、少し行くとその3倍ほどの大きさの羽柴秀吉邸の跡がある。信長は一の部下を秀吉、二の部下を利家とすでに決めていたのだろう。そして石段は一層険しく、挑戦者を拒み続ける。



続く

岩国城の上下バラバラはなぜか?

2016-11-17 00:00:40 | The 城
錦帯橋を渡ると、吉香公園がある。岩国城はその公園の北側の横山の山上に築かれている。オリジナルの城は関ケ原の戦いの時に、毛利一門でありながら徳川に寝返った吉川広家が、戦後に毛利藩の存続に走り回った結果、皮肉なことに小大名になり下がった毛利家のさらに支藩というところに落ち着いたことに起因し、1608年に竣工。本丸と4重6階建ての天守閣が立った。

しかし、奇妙なところもあるのだが、徳川幕府による一国一城令によりわずか7年で城は破却され廃城となる。こんな山の上に築城する苦労からいえば、壮大な無駄だ。MOTTAINAI!ARIENAI!だ。さらに、周防の国にはこの城しかないのだから、壊す必要はなかったのではないだろうか。

(ただし、徳川幕府の威光は絶対的なものであり、少しでも謀反の嫌疑をかけられないために過剰サービスをしたのかもしれない。あの仙台伊達藩にしても、江戸城が建て直しになる際に、古い江戸城の材木一式を引き取り、仙台城の一部に再利用させていただきますとゴマすりし、廃材を仙台まで運んだうえ、ひそかに捨てたりしている。)

そして、現代人は、山の上まで歩ける人はほとんどいないため、ロープウェーに頼ることになる。ほとんどが外国人の中、山頂で降りると、そこから山道を10分歩く。もっと城に近いところに駅がほしい。山道の両側には大小さまざまな石垣崩れの岩が転がっていて、かなり大きな城が築かれていたことが想像される。

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そして、山頂の平地に到達すると、驚きの光景がある。

天守台が登場するのだが、下界から眺めたときは、石垣の上に天守閣が見えたのに、石垣だけだ。さらに目を凝らすと、その先に天守閣が見えた。つまり、上下別にあるわけだ。

天守台を観察すると、かなり古風な石の組み方で、芸術性も何もない、1570年頃の素朴な組み方であり、吉川広家が実用本位の人間だったということがわかる。そして、本物の天守があった場所と現代の復興天守の中間地点が、本丸があった場所だが、なんとトイレが建っている。

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そして、天守閣をみると、上層階が南蛮造りになっている。安土城とそっくりである。昭和37年に、昭和の名築城家である藤岡通夫氏の設計で再建されたのだが、藤岡氏の設計は熊本城や和歌山城といった、元の写真や証言が残ったものが多く、350年も前の城の設計には、多くの推論が含まれるものと思われる。吉川広家は安土城をみたことはないはずだし、残っていた絵図に信憑性があるのか、石垣の素朴さとか、幕府との関係からいって南蛮造りには違和感が残る。

そして、天守閣が立った後で、天守台の石垣の発掘作業が始まったそうだ。順序について、あまり納得できないが、これが上下バラバラになった理由らしい。

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とはいえ、天守閣を見晴らしのいい場所に移転したため、眼下には錦川や錦帯橋、遠く岩国の市街地がのぞめ、さらにその先にあるのは、米軍の岩国基地であって、そういえば冷戦時代には核兵器搭載の原潜が、核兵器を搭載しているかどうかを明らかにしないで寄港していたということを思い出すわけだ。

眠れる城・荏田城跡

2016-09-22 00:00:30 | The 城
9月15日弊ブログ「荏田宿のこと」の中で書いたのだが、江戸時代の大山街道で江戸を出て最初の宿場が荏田(えだ)宿だったと書いた。さらに、そのわずかに先に、歴史上の位置づけが不明な『荏田城』というのがあるとも書いたのだが、少し調べてから荏田城攻略に出た。

ただし、調べるうちに、その土地の所有者が頑なに城址を開示することを拒んでいて、土地への入場も禁止だし、さらに写真画像をWEB上にのせると、削除依頼をしてくるということらしい。まず、入路については隣接する東名高速の反対側からその土地にだけつながる高速の歩行者横断橋を渡らないといけないが、降りたところから先は入れないということになっている。だから未調査ということだ。

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とはいうものの、その現地に行くと、東急田園都市線の江田駅から徒歩5分のところに江田記念病院というのがあり、その左側に東名にそって登坂がある。登り切ったところに歩道橋があるのだが、実は坂を上る前にすでに「立ち入り禁止」になっていた。

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向かって右が東名の擁壁であり、左が大きなマンション。マンションの住人なら城址のある森は見えるだろうが、どこまで詳しく見えるのだろうか。

上空からの写真を見ると荏田城の北側の一部は道路用地になっているが、大部分は未開発で残されているようだ。鎌倉時代の城なのか足利時代の城なのかも判然としない。神奈川県には鎌倉があり鎌倉に通じる道は重要道とされていたので、この地も鎌倉時代の要所だったらしいが、文書などでは確認されない。仮に鎌倉時代の城なら北条氏滅亡の時には大戦争が起きていたので城をめぐっては、多数の犠牲者があったのだろう。

かなり近くには、これも誰も積極的言わないのだが空襲で多数の犠牲者が出た場所があるらしい。もう一つ言うなら、かつて米軍機が住宅街に墜落して住民の犠牲者が出たのも数キロ内だ。

そして、この左側の大きなマンションだが、『ミオカステーロあざみ野南』というのだが、このミオカステーロはイタリア語のミオカステッロのことだそうだが、英語だと、マイ・キャッスルということだそうだ。

「私の城」

そう、あなた方にしか見えないわけだ。

姫路城・市立美術館、かつての顔

2016-06-09 00:00:24 | The 城
竹田城からの帰り、姫路で途中下車、姫路城の方へ歩く。日本最大級の城が残っていてさらに美しく修復中である。全部修復が終わっているものと思っていたら、そうではなかった。竹田城とまったく極端に異なる観光地化している城は過去に何度もきているのだが、千姫がいた(軟禁?)三の丸の方に行きたいのだが、もう時間がないので、旧軍事施設だった姫路市立美術館の方に回る。

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そして、これから書く話は、私の身の回りにある太平洋戦争の記録に関係する。

一度、書いたことはあるのだが、おおた家の先祖は8代前に岡山県の山奥の方の本家から分れた。富士山が爆発した年だ。その本家は神主の家系で、現在が17代目なので、鎌倉時代の末か室町の始めから(1400年ごろ)だと考えられる。

17代目は90歳代の女性で、要するに結婚して姓が変わり、夫の家系の方に入ってしまったという事情で、ある時になれば家系は続かなくなることになる。それは、彼女の弟が戦死したことによるわけだ。それも終戦まで、あと約10日という時に、ビルマ(ミャンマー)で亡くなった。調べるとイラワジ河渡河作戦というのがあり、半数が亡くなったことになっている。生き残ったものは英国の捕虜となり、戦犯を除き帰国を果たした。

昨年のことだが岡山県出身の兵士の家族のための展示会があって、記録をみていると多くの人がビルマで亡くなっていることを知った。それらを読むと、召集されて向かった場所が姫路となっていた。姫路城の前に大きな広場があるが、そこが集合場所だった。

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城の右手前の方に、第十師団の碑があるが、姫路は陸軍歩兵第十師団として、兵庫、岡山、鳥取の3県で徴兵した兵士で構成されていた。その師団の行き先が、最終段階ではビルマだったわけだ。

指揮をしていたのが木村兵太郎陸軍大将。この人、最後までいたわけじゃなく、途中で前線から離脱してしまう。敵前逃亡みたいなものだが、理由は、早く逃げないと逃げられなくなるからというものだ。

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大将がいなくなったので、方針が立たず、大混乱となり、ビルマ戦線は日本軍が逃げ回ることになる。そして最後に大損失を出すことになった。

大将はA級戦犯として、巣鴨で死刑となったが、歩兵は誰も生き返らない。そんな戦争でよかったのだろうか。

遅まきながら竹田城へ

2016-06-08 00:00:53 | The 城
日本のマチュピチュといわれる竹田城だが、その存在を知っていたのは、10年ほど前であったのだが、当時は残存天守閣12を巡ることに努力していて、石垣を残すのみの竹田城は大脳の記憶回路の中にとどめるだけだったが、簡単にはいけない難攻不落城と認識していた。

難攻不落といえば、小田原城を攻略するために秀吉が一夜で築いた(ようにみせかけた)石垣山城に登ったのが2007年。9年前、ということは9歳若い時。山道一時間登りは、もはや決死の覚悟なのだが、どうも調べてみると、竹田城は大観光地化していて、途中に駐車場や公営バスに乗っての中継点までできている。山登り40分ではなく平坦路20分らしい。

とはいえ、姫路から播但線の電化区間とディーゼル車区間を乗り継いで竹田駅からバスに乗るということになっている。

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で、気付いたのはJR竹田城から山の頂上を見ると、石垣が見えるではないか。駅前の観光ガイドは、私の真の年齢を見ぬいたのか、登山路に行くのを強く引き止め、バスに乗ることを勧める。ということで、満員のバスに乗ることになる。

そして、中継点から城までは平たんではなく、なだらかな坂であったが、それでもへとへとになる。日頃の運動不足のせいだ。

そして、この城がきわめて変わった城であることと、その城主だった赤松広秀のことを知った時、それが先月行った、鳥取城と関係していることで愕然とした。

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赤松広秀は関ヶ原の時、西軍に属していた。そのため西軍が負けた時に、責任を問われるべき立場にいたのだが、猿知恵とも思われる行動をとり、同じく西軍に属していた鳥取城の攻撃を始めたわけで、東軍の味方に早変わりしたのだが、その時に、鳥取市街地に火を放ったとして家康はこれを許さず、切腹させてしまったわけだ。タダ働きの上、クビというわけだ。鳥取城の惨劇の祟りなのだろうと思ってしまう。

そして、江戸時代初期に廃城となるも、その城跡は長い間眠りについていたといえるだろう。つい10年ほど前までは。

その後、大観光地になってしまったのは、ご存知のとおりだが、韓国中国のみならず、アラブ系の人たちまで、山を登ってくる。思えば、イスラム系の要塞風にも見える。

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眺望は最高だ。降りる時ぐらいは山道を使おうかと頭では考えたのだが、足は自然とバス乗り場の方に向かってしまう。

日本には、観光地予備軍としての城跡は、あと300位はあるはずなので、特にすばらしいと思う場所には、観光地になる前に行きたいとも思っている。

備中松山城は、今頃人気になったが、ずっと前から行っていて、現在の状況に少し的外れ感を持っている。