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絶景のはずの米子城が・・

2016-05-23 00:00:07 | The 城
鳥取シリーズは西部に移り、米子市周辺へ。


まず、米子城。鳥取県には、鳥取城と支城としての米子城がある。鳥取城は秀吉による飢え死に作戦にはまり日本史上最悪の落城となったことが有名になり過ぎているが、米子城についても、あまりいいことはない。

何しろ、金欠に泣き続けた城のわけだ。なにしろ天守閣を築き始めたのは吉川広家だが、完成前に関ケ原の合戦になる。実は広家は裏工作で大活躍して毛利家の存続には功績があるが、色々と板挟みになり、岩国城主ということに落ち着く。徳川にも毛利にも恨まれる。

ということで、米子城は城主を失い、豊臣家臣ながら東軍に寝返った中村氏が入城するが、これまたお家騒動とか色々あり、嫡男を得る前に病死し、お取りつぶしとなる。

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その後、加藤家を経て池田家が鳥取城主となり支城という扱いとなったのだが、実は米子城の方が大きいわけだ。しかも眺望は極めて美しい。そして明治維新となり、再び試練が訪れ、米子城はある家臣に数千円で払い下げられるも、維持困難となり、叩き売りとなる。叩き売り直前の古い写真が残っているが、結局、廃材扱いとして風呂屋の燃料となった。

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当時の城の残存物で唯一の物は、「はしご」。なぜ、はしごだけが残ったのかは不明だ。たきぎにするには、はしごの方が簡単な気がするが、おそらく、簡単にとりはずしして残せるものが一本のはしごだけだったのだろう。

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という財政的な不幸がつきまとう城だが、城の入口に到着したのは、夕方である。城まで車で行けるかと思ったが、地上から見上げた山の上に石垣が見えるが、どうも歩いて登るらしく、断念。翌朝のお仕事とする。

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一夜明け、最初に城攻めから始めるが、やはり駐車場は平地にあり、山道を歩く。たぶん、鳥取城のように「熊・猪・蜂」の三点セットだろう。散歩の人達から離れないように警戒しながら登るが、10年後には無理かもしれない。

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そして石垣を登り切ると眺望が開け、四方が望める。海と湖、山と人間の作った街。境港もかすんで見える。

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しかし、あまり絶景ではないわけだ。かなり黄色く霞んでいるが、これは鳥取砂丘のせいじゃない。前日の鳥取東部でもそうだが、空が黄色いのは、中国大陸からのプレゼントである「黄砂」の影響。気管支炎には悪影響だ。眼も痛い。

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そして、どうも米子城に天守閣を復元しようという計画があることを確認する。

前述の古写真が決め手になったのだろう。権威付けにはリアリティが必要で、架空の城では付加価値がない。たった一枚の写真で、その観光価値が高くなるのだ。しかし、財政的には不幸の連続の城なので、うまくいくことを願いたい。建設途中で、建設反対派の市長が当選して工事の長期塩漬けになったりして・・

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山を下り、境港に向かう。

少し怖い鳥取城へ

2016-05-20 00:00:00 | The 城
鳥取といえば「鳥取城」と言いたいが、少し口ごもることがある。1580年に秀吉に包囲されて落城した時に、20日分しか食糧がなく、それでも2ヶ月は耐え忍んでいたが、それ以降は、味方の死人を食べ、埋められた死者を掘り起こして食べ、逃げようとして秀吉軍から撃たれまだ息のある者を食べ、城主の吉川経家が切腹し開城。

せっかく解放されたのに秀吉が用意した炊き立ての粥を大食いし、ほとんどの兵士がショックで亡くなったといわれる。毒を盛ったのかもしれない。

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実際に立地を見ると、険しい山を背に石垣が組まれ、後背地からの攻撃は無理なのだろうが、だから兵糧の補給に困難が生じた。

歴史的いうと、秀吉はこの前に三木城を同じように兵糧攻めにして落としている。さらに鳥取城の次は備中高松城を水攻めにしている。軍師は黒田官兵衛。

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一説には鳥取城は心霊スポットと化し、夜は妖怪が飛び交うといわれている。

実際には、「妖怪注意」ではなく、「熊、猪、蜂注意」となっている。いずれも逃げても追ってくる。強そうに太った熊蜂に頭を狙われ追い回されたが、奇跡の生還を果たす。整髪料にフェロモン系の香料が使われていた可能性があるかもだ。


ところが鳥取城は工事中なのだ。どうも石垣工事を行っているようだが、さらに天守閣を作ろうということらしい。

なんとなくうまく行かないような気がする。さらに、修復中の石垣だが野面積。大きな石だけを重ねて小さな石を詰めていないので、構造的にアブナイ。まだ完成までは遠いのだが、今でも観光地だろうが、何も努力はされていないようにみえる。

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ところで、秀吉が卑怯な戦法を使った相手は、すべて毛利輝元の部下だ。輝元は動かず、見殺し。結局、秀吉亡き後は五大老の筆頭として起用されたのだが、関ヶ原では加勢のタイミングを誤る。しょうがない奴だ。

河原城の意味

2016-05-19 00:00:21 | The 城
河原城(別名若鮎城)は秀吉が鳥取城に立て籠もる吉川経家を攻めるために、ベースキャンプとして急遽作られた城である。基本的に防御のためではなく攻撃のための城なので、天守閣はない。

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しかし、現在、城郭の復元と同時に天守閣ができてしまった。城域は狭いので不要の天守閣を作らず、いくつかの屋敷が建てられていたのだろう。まあ、城といえば天守閣ということで、観光用には必要なのだろうが、わからなくもないがどうしたものだろう。

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城内は郷土資料館といったところだろうか。人工的に作られた物なので、眺望もいい。まさに要所を選んだということだ。山々に囲まれているが川筋に開けたところを進軍していけば鳥取市街地に至る。

鳥取城にはこの後行くのだが、険しい山を背景に高石垣で正攻法には強い城なのだが、それが災いして、日本史の中でもことさら惨い落城となった。信長にしろ、秀吉にしろ、目的のためには手段を選ばすということだろう。河原城を基地とし、鳥取城の傍に陣を張り、包囲した。

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展示物の中に、鳥取地方に伝わる「麒麟獅子」の展示があった。獅子舞の上を行く麒麟獅子。あやつるのは一人ではなく二人一組だそうだ。若い男が二人で組むのだろうか、あるいは男女で組んでラブロマンスの始まりになったりするのだろうか。男は地元に残り、女は都会に出ていき、十年の歳月の末、祭りの夜に再開する。中上某のような作家なら書きそうだが、鳥取出身でもないし、今はいないし。

篠山城大書院

2016-04-26 00:00:50 | The 城
篠山城が完成したのは、1609年。その当時からあったのが、巨大な大書院である。実に1944年1月に焼失するまで335年の間、使われ続けてきた。

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そのため、構造がわかっていて、2000年に再建されている。床面積は739m2ということで、かなり広い。

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部屋は正方形をタテヨコに9分割したような構造で、入口にあたるのが西側の虎の間。全体の9分の2の面積だ。設計した藤堂高虎の虎だろうか。孔雀の間、葡萄の間、源氏の間、手毬の間とかよくわからない。襖絵などの特徴なのだろうか。

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闇りの間(くらがりのま)。9分割の中心には、窓がない。城主が落城の時に切腹する場所だったのかもしれない。いずれにしても畳みに座るには体力がいる。暑いし寒いし、足はしびれる。トイレも風呂も付いていない。台所もないので、お茶を飲むにも大苦労だ。

戦前、古い建物は公会堂にも使われていたようだ。今回も手毬の間では手作り甲冑の展示が行われていた。盛大に将棋大会でも開いたらどうだろう。

ちょっと微妙な篠山城

2016-04-25 00:00:16 | The 城
篠山城は「しのやま」ではなく「ささやま」と読む。読みの「ささやま」が先にあり、それに対する漢字が何通りかあって、一番間違いやすい「篠山」に落ち着いたようだ。

実は、以前から使っているガイドブックには、外堀と高石垣が残るとされ、古城址としての価値は日本有数と思っていた。残された石垣によじ登っての眺望は最高ということで、そういう服装ででかけたのだ。もともと二条城のように天守閣なしの大書院造りということで、油断していたのだが・・

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2000年の春に巨大な大書院が復元されていた。と同時に街が観光地に一変していた。もはや、400年前の武将の感慨を味わうことは困難だ。石垣は整備された一方、石垣の上に登ることなどまったく不可能になったわけだ。

で、簡単にこの城だが丹波の国という現代ではやや交通不便な場所にある。福知山線で西宮から内陸に入るか、新神戸から、あるいは京都からという方向だ。それこそがこの城の目的で、関ヶ原の合戦のあと、大坂城に残る豊臣家の殲滅作戦の一環として、ここに天下普請(つまり「指名された大名の現物出資」)の城を作った。

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ちょうど、京都と大阪と篠山の距離を見れば、ほぼ等距離。山の中で人口は少ない一方で平地であり、豊臣家に対する恐怖感を高めるために大急ぎで築城するには絶好のポジションであるわけだ。沖縄の米軍基地みたいなものだ。南沙諸島の人工島のようなものだ。そのため、建設時間のかかる天守閣は省略ということ。

といっても、防御は必要と言うことで石垣、外堀と城内に至る複雑な経路と櫓を中心に防御網は完璧で、思った通り藤堂高虎の縄張りだった。

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しかし、石垣を組むのに手間取り、結局、藤堂高虎本人と穴太衆(あのうぐみ・熊本城復旧でも話題になっている石垣業者)という滋賀県コンビが現場指揮して完成させている。

*余談だが、滋賀県(近江)グループとしては「甲良組(こうらぐみ)」という建築業者があり、江戸城の管理、整備を行っていた。おそらく築城で有名な藤堂高虎の背後には、この二つの業者がついていたのだろうと推測している。

しかし、古城址のままでは観光地にならないからだろうが、復元された大書院は、かなり立派で、とまどうばかりだ。

今治城、かなり満足

2016-03-08 00:00:17 | The 城
今治城は海水を濠に引き込んだ海城として名高い。築城は私の尊敬する藤堂高虎。今治の城主となる。城作りでは、加藤清正と人気を二分。今治城は藤堂高虎の生涯の傑作とも言われる。

しかし、1608年頃に完成した今治城だが、わずか2年で高虎が伊勢に引っ越したため、解体されてしまった。何か重要な秘密があったのだろうか。

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そのため、今治城はその後500年も天守のない城だった。本来なら、天守を再建するときに何の手がかりもなく作るのだが、記録によれば、こわした材木を丹波亀山城に運んでそこで組み立てた、ということがわかった。しかし、その亀山城だが、大本教の本拠地にかわっていき、明治時代に政府が爆破。

ところが、明治初年に撮影された城の写真がでてきたわけだ。

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そのため、今治城=丹波亀山城となり、その写真を基にここに模擬天守が完成。

(実は、天守すらなかったという説もある)

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黒鉄御門は、新築で、内部は木材の香りが充満している。

そして、今治城の堀は海水を引き込んでいて、海魚が多数泳いでいるし、一方淡水魚も泳いでいて、理由は地下からの湧水だった。

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最後に、水門を確認。

浜松城の地下に眠る財宝は?

2015-08-03 00:00:39 | The 城
浜松に行くなら「浜松城」ではないかと、なんとなく思っていた。というのも家康の出世城として有名で、この地で17年間、密かに天下を狙っていたとされるからだ。

そして現地では報じられないが、織田・徳川連合が三方ヶ原で武田軍と戦い、特に徳川方は大敗北を喫し、家康は討死寸前のところを家臣の身代わり作戦によって逃げ帰ったのだが、その時に馬上で脱糞してしまったと言われている。

おそらくは慣れぬ強米を食べた上、恐怖感により大腸のコントロールが利かなくなったのだろうが、馬から下りて用を足す時間がなかったのだろうと思われる。家康は他にも秀吉から江戸行きを命じられたのも小田原城攻略の時に並んで立ちション中だったとか、結構臭い話が多い。

そして、浜松に向かう新幹線車内で勉強を始めると、武田軍が三方ヶ原に入ってきたということは、連合を組む徳川と織田の間に進軍したことになり、なんという傲慢な作戦だったのだろうと思いはじめた。しかも織田側も大軍を用意していて、徳川家康が早まって速攻かけなければ、違う展開になった可能性もある。

ところで、浜松の人気観光スポットをみると浜松城はベスト10どころじゃなくベスト20位の不人気だ。どういうことなのだろう。

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それで、不案内なバスで浜松城に向かい、地図に従い浜松城公園の中を歩くと、かわいい矢倉のような天守閣が見えてきた。実際には城の機能は天守閣ではなく本丸の方だが、いざとなれば天守閣に立て籠もらなければならないのだが、どうみても小さすぎる。

どうも昭和33年に鉄筋コンクリートで再建された時に、元の図面がわからないということで、以前より小振りに作られたようだ。あるいは新国立競技場みたいなドタバタがあろうか。大阪城もそうだが、あまり歴史を無視した城を再建するのは、どういうものかと思える。中途半端だ。不人気の理由もそこにあるのだろうか。

そして、この建物の地下には、地下井戸がある。籠城するためのものだが、他の城では石垣の外側(つまり天守閣の外)に井戸があるケースの方も多いと思われる。もちろんそれでは包囲されると水が飲めなくなる。

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で、最初は風呂だと思ったものが井戸だったようだ。井戸の中は真っ暗で何も見えないのだが、発光させて撮影してみた。後で画像を見ると驚愕の埋蔵金が見えていた。

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金色に光り中央に穴があいているのは金貨だろうか。茶色に見えるのは金貨が錆びたからだろうか。銀色の貨幣は大小さまざまが見えるが、銀貨だろうか。


そして、新幹線の出発時刻も迫っていて、大慌てでタクシーに乗るのだが、昼食に食べたうな重のあまりの美味さで胃腸が驚いたからだろうか、ふいに腹痛が始まってしまった。家康公ではないので、タクシーに乗ったまま出してしまうと、新幹線に乗ることすらできなくなるのだろうと、頑張った。

小山城-うっすら感じる悲劇の記憶

2014-10-28 00:00:29 | The 城
小山城は地元では祇園城と呼ばれる。平安時代に藤原秀郷が東北平定のため、ベース基地をこのあたりに作り、戦勝祈願のため祇園神社を興したことによる。その時の場所は定かではないが、それほど現在の城山公園からは離れてはいないだろう。国道4号線の旧道沿いであったと考えるのが自然だからだ。

地元の豪族だった小山氏は鎌倉時代に繁栄したのだが、鎌倉時代末期に関東管領足利氏満の怒りを買い滅亡させられる。しかし、室町幕府により復活を許され、同族の結城氏から小山泰朝が現在の城山公園内に城を築き第二次小山氏となる。

現在の小山城が築城されたのは1460年から1465年の間と推定されている。しかし、その後、戦国トーナメント戦の間に(後)北条氏と戦い敗戦。滅亡の危機だったがなんとか北条臣下となることで生き残るも、豊臣-北条戦の敗戦で、その後どたばたしたものの、ついに小山家は滅亡する。

しかし、交通の要所である小山は、政治的に利用され、徳川による豊臣戦争の一場面である「小山評定」というイベントがあり、徳川は上杉征伐に参加した諸大名に、家康と三成とどちらが好きかを表明させる。そして、関ヶ原に向かって時代は動きだすわけだ。現在は道路によって城山公園と分離されてしまった小山市役所のあたりである。

一方、小山城はその後、手を入れられ維持されていたが、一国一城制になり廃城。

城跡には御殿ができ将軍家の日光詣りの時の宿泊施設となったが、江戸時代中期に財政難から使われることなく朽ち果てた。

小山城に関する歴史に○×を付ければ、○×○×○×○×ということになる。現在、何らかのプロジェクトが始まるような予感があるが、○なのか×なのか不明だ。

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そして、肝心の小山城址だが、背後が思川の絶壁である。もちろん海じゃないので、逃げることはできるが攻めるのは難しい。全面が幹線道(奥州街道か)であり大軍で攻められると防戦不能だ。道路から階段で20段位の高さしかない。幅10メートル未満の空濠はあるが、水がないので防御力は相当弱い。城は川沿いにかなりの縦長(わらじ型)であり、面積の割に防御軍を配備するのに人数が必要だし、中央を突破されると両サイドの防御陣はそれぞれ孤立して全滅することになるだろう。もともと、第二次小山氏も、北条氏の臣下となった小山氏も傀儡的であったため、妙な気にならないように弱体城郭をあてがわれたのだろうか。

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天守閣は築かれることはなく、本丸跡を思われる当たりにストーンサークルが作られている。裏の川から拾ってきたような石が置かれている。城郭には付き物の井戸であるが、歩き回ってもはっきりしなかった。おそらくここではないかと思われる窪地のあたりを発掘すればわかるだろう。だいたい、こういうちょっとした窪地に井戸があることが多い。

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城自体の戦闘的機能は低いものの、裏手にある天翁院には小山氏の墓地が残っていることを考えると、この城郭が丸焼けになって、戦死者ゴロゴロというような大惨事になったことはないのだろうと推測する。

鬼ノ城西門まで到達し、引き返す

2014-07-23 00:00:47 | The 城
鬼ノ城(きのじょう)は、まさに謎に包まれた古代城である。

平野から少し(といっても歩くと登山道を6キロ)離れた標高400メートル弱の山岳地(鬼ノ城山)にある比較的平らな部分に、周囲3キロの城壁を築いている。歴史上に記録がないのに存在しているわけだ。

言われているのは、朝鮮半島の日中韓(朝)の覇権争いの過程で、663年に起きた白村江の戦いで倭国が敗北したあと、日本は独自外交路線に戻るのだが、中韓(朝)連合軍が、日本に攻めてくるのではないかとの恐れで、築かれたとされているのだが、国史に記録された城(多くは北九州。)とは別物であるため、はっきりしない。もしかしたら秘密扱いの城だったのだろうか。なんだか、今の東アジア情勢のような話だ。当時は日米安保は締結されてないので、自分の国は自分だけで守るしかなかった。

また、それよりも古い時代のものという説もある。場所がら、吉備の国というのは、出雲グループと、大和グループの大戦争があった場所と言われていて、近くにある吉備津神社のヒーローと桃太郎の関係は有名だし、そうなると鬼ノ城=鬼ヶ島ということになる。山の裏を流れる川は、血吸川であるし、近くには犬墓山という恐ろしい地名もある。吉備路の入口の吉備一宮にある一宮高校の卒業生の中には、近くの自宅を改造して監禁部屋を作りナンバー改造して逮捕された鬼畜もいる。

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で、平地から鬼ノ城へ見物に行くには、いくつかの方法がある。まず、6キロの山登りの道を歩くか、自動車で行くか。自動車で行く場合、道がきわめて細いため、すれ違えないと、バックで長い距離を戻る可能性がある。ハンドルを切り間違えると、脱輪による大顰蹙か、崖下転落で鬼の御馳走になるかを選ぶことになる。

次に、駐車場のある場所から、復元された西門までを10分ほど、心臓と相談しながら山道を歩く部分は、選択肢がない。(もちろん、駐車場から引き返す選択はあるし、山道を5分歩いて引き返してもいい)

そして、西門自体が大きな構造物なのだが、そのあと周囲3キロの城壁を歩くかどうかということになる。万里の長城に似ているのだが、万里ではなく、一里ではあるし、環状なので、戻ってこられる。さらに山頂部にあったはずの城郭のことなどイメージは広がるはずだ。ただし、約二時間コースだそうだ。

が、それは、大変な体力が必要となるだろう。腰痛でカイロで整体中のことを考えると、あきらめる方がよさそうだ。基本的に山歩きは苦手だ。たまたま、男子大学生グループ(5人)のリーダーが、「さあ、イクゾ!」と雄叫びを上げて歩き始め、ぞろぞろと長い列が続いていった。後ろの方では、「必ず一人は、サルみたいなやつがいるんだよなあー」とつぶやきが聞こえる。そしてTシャツ親子(4人)。いかにも軽装だ。鬼の肥やしか。

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ということで、最も安易な選択を選ぶ。クルマで6キロの山を登り、車三台となんとかすれ違い、西門からお帰りコースだ。

1時間後、雷を伴う大豪雨が来る。平野部でも車の運転が危険なレベルで、ファミレスに逃げ込む。翌日、山陽新聞のデジタル版を確認するが鬼ノ城遭難の記載なし。あるいは、全員が鬼に食われ、発覚しないのか。

追記1:岡山県では、「鬼ノ城に行った」というと「鬼ノ城ゴルフ倶楽部」でプレーしたことを意味する。

追記2:中国では、「鬼城」というのは、「マンション群を建設中の分譲地が資金繰りの悪化で工事が中断し、破綻した結果、残された何本もの未完成で放置された建物の群生状態を指す。一部、鬼も住んでいる。「国破れて、鬼城残る」というように表現する。

下津井城址を攻略

2014-03-27 00:00:19 | The 城
下津井(しもつい)に行ったら、下津井城に、のぼらんとおえま~、ということでナビ頼りで山道を車で登る。ところが、山道をナビで走ると、突然、柵が目の前に現れて急ブレーキというようなことがよくある。しかし、ここでは逆で、行けないはずの柵が外されていて、車で土の道を進めそうに見える。

罠っぽいな、と直感する。路肩にクルマを止めて、あとは歩くことにする。まさか、こんな山の中で駐車違反で捕まることはないだろう。そして、柵が開いていた土の道を歩いていくと、やはりその先は細くなり、もし車で進入すると数百メートルをバックで戻らないといけない。ハンドル操作を誤れば、崖下100メートルぐらい落下だろう。ネズミ取り。

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で、歩き続けると、石垣が見えるが、これは昔のものではないだろう。何しろ、この城は元々、文禄年間(1592年~1596年)に宇喜多秀家が岡山城の支城として築城する。その後、1603年に改築されるも1639年に廃城となる。極めて短命の城だった。

で、話し出すとキリがないのだが、ちょっとおかしい第一点は、築城時期。文禄年間というのは宇喜多秀家は、ほとんどの時期、朝鮮半島で戦っていた。それも中心人物だ。秀吉にとって、もっとも頼りになる部下だった。なんで、こんな場所に小さな城を作らなければならなかったのか。

しかし、そんな秀家だが、運命は数年で大転換する。今のウクライナ情勢みたいなものだ。秀吉が亡くなり、その後、関ヶ原の戦いで西軍の中心人物として大奮戦したのだが、小早川秀秋の裏切りで敗退。落武者として敗走し、なりふり構わず逃げ回り、ついに島津藩にたどり着くが、あえなく徳川側に引き渡される。そして一命を許され、八丈島に島流し。実は、享年83歳。戦国時代の登場人物はすべて消滅。将軍も家康、秀忠、家光までもお先にどうぞということで四代家綱の時代だった。その子孫は、八丈に住まわれているそうだ。

そして、裏切った小早川秀秋が岡山城主に交代するも発狂して落命。お家断絶となる。そして池田家の時代がくる。

気になるのは、同郷の児島出身の鳥人(世界で最初に空を飛ぶ)、浮田幸吉。浮田と宇喜多は関係があるのだろうか。

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そして、山道はいつまでも続く。坂だったり階段だったり。二つ目の疑問は、この海岸の小山に築いた立地だが、あちこちの島が島影となって敵の接近を察知するのが遅れると考えられる。戦略上、あまり有利な場所じゃない。

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そして、もはや次の階段で、あきらめて撤退しようと思うとたんに頂上に着く。ずいぶん狭い面積の場所に天守址があった。瀬戸大橋をながめると眼下にある。ずいぶん高いところまできたわけだ。


帰り道を間違えて、さらに追及すべき次の課題の脇を通り過ぎる。

多度津城址を訪ねて・・とほほ

2014-01-29 00:00:10 | The 城
丸亀城へ行き、神戸に本社のある丸亀製麺ではない本物の丸亀のうどん屋で昼食を済ませた後、カーナビで近くの城址を探してみると、5キロほど離れたところに多度津城があることがわかる。しかし、カーナビの限界というべきか、この城がどういうものなのかを教えてくれることはない。

ここでスマホを使って下調べすると、14世紀の城跡で、香川氏の城だったようだ。香川県の元みたいなものだろう(同時期の武将に太田道灌がいるが、彼は名前を江戸の地名には残さなかった。大田区は全然違うし)。それ以上の情報は、5キロしか離れてないなら、行った方がいいと思った。

そして、カーナビらしく主要道路ではなく、細い裏通りを選択され、それでも指示通り走ると、海に面する小高い丘陵に近づいていく。およそわかるのだが、小さな丘陵に城がある場合、かならず頂上に城を造る。戦略上の理由だ。一方、背景に山岳部がある場所の城は、「山城」といって、頂上ではなく、尾根の上に立つ場合が多い。

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いずれにしても、難攻不落であり、21世紀の旅人の安易なチャレンジを拒む。そして、クルマはカーナビに従って走っていくのだが、途中で新興宗教的大寺院の前を通る。少林寺拳法の日本での練習場みたいだが、いったい、この場所で誰が何の練習をしているのだろう。少林サッカーか?そして、カーナビ上は、まだ先があるというのに、あぶなく柵に突っ込むところだった。これ以上先は四輪進入禁止だ。二本の足が頼りなのだが、何しろ先月腰を痛めて急坂や階段は苦手だ。会社で行っている近くにある金毘羅宮への初詣は、腰痛で欠席したものの、同じぐらい厳しい、丸亀城に登り、またも多度津城では、変ではないか。

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といっても、どこまで上があるのかわからないが、急な階段が続くわけだ。そして、もう限界と思った頃、今度は未舗装の坂道をなる。けものみち風だが、けものも怖いが、そろそろマムちゃんが起きだしているかもしれない。いずれにしてもゆっくりしか上がれない。「多度津城址」のような石碑もなければ表示もない。

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頂上に登るしかないのだが、そこで最終的にみたものは、真っ赤な四角状の巨大物体だった。これはいったい何なのだろう。近づいてみてもまったく見当がつかない。かなり高い場所で、風は強いし、そろそろ午後の気温はつるべ落としである。捻挫でもして動けなくなると、冷凍ボディの発見されるのは1か月後になり、ハゲタカや狼の餌になってしまうだろう。慎重ながら急いで退散する。

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さらに近くに天霧城というナイスな名前の山城があることがわかったが、年齢と相談のうえ、あきらめる。

帰宅後、多度津城についてネット情報を収集すると、やはり来訪者は赤い謎の物体の前で途方に暮れるらしい。石碑の一つもないし、かなり昔は石垣もあったそうだが、その石垣についてもネット情報では、目撃者がいないわけだ。

ところで香川の山城を資料で調べていくと、屋島城という古城があることを知る。無論、源平戦争の最終局面に近づいたころに海岸線で大戦闘が行われた場所なのだが、それよりも大きく古代にさかのぼり、白村江(はくすきのえ)の戦いで、唐・新羅連合軍に敗れた日本がその後の日本への侵攻を恐れて天智天皇が667年に築いた城である。そのうち、行く気になる可能性はある。

丸亀城再訪

2014-01-27 00:00:47 | The 城
丸亀城天守閣は、現存12天守閣の一つである。四国には内四か所がある。丸亀、宇和島、松山、高知。12の中には、弘前のように元々櫓だったものを格上げしたものもあるが、丸亀城の天守閣も小さい。

現在の天守閣は1660年に建ったもので、その前のものは焼失していたらしい。1658年からは京極氏の領地になっていて、転居して、すぐに新築住宅を建てたようなものだ。

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しかし、丸亀城には、人柱伝承が二種類もあり、棟梁を井戸の底の調査に向かわせ、上から石で埋めたという説と、通りがかりの豆腐屋を捕まえて埋めたという説がある。

なんといっても高石垣が特徴で、井戸に埋めたとすると、かなり深い井戸だったはずだ。

こういう登るのに難儀をする場所は、正面から急傾斜を登る「男坂」と裏側の緩傾斜を登る「女坂」のどちらかを選ぶようになっているが、ここはどちらも「男」である。後で調べると、元は裏(南)側から入ることになっていて、その後、北側から入るようになったようだ。だからどちらもキツイ。

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京極氏といえば、お市の方のこどもの三姉妹(淀、初、江)の次女の初が京極氏に嫁いだはずだと思っていたらやはりその後いろいろあって丸亀に転封になったようだ。

しかし、先月、腰痛になってしまい、階段が苦手だというのに下半身の関節がギシギシとなるわけだ。会社の初詣の金毘羅宮参りを遠慮したのに、これでは・・

備中松山城再訪(2/2)

2013-08-06 00:00:32 | The 城
苦難の果て、ついに石垣を発見。森の中から急に開けた空間が現れ、そこに備中松山城天守閣が現れる。二度目なのであまり考えないのだが、小さい。もっとも大きいものは建てられないのだろう。天守閣の機能といっても、山を包囲されたら、それまでであるから、この天守閣が水谷家の手で整備されたといわれる1683年の時には、まあこの程度というところだったのだろう。

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それから9年たって大石内蔵助が浅野家を代表して城受けしている。まだ新築感覚だったのだろう。追われた水谷家の怨念が森を包んでいる。

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森を包むといえば、秋から半年ほどの間、早朝のわずかな時間、山中一帯を雲海が覆うようになり、この城と竹田城は、天空城撮影マニアの餌食(いや、絶好の撮影ポイント)となるのだが、竹田城にも、近く訪れるつもりなのだが、早朝はご遠慮する。

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天守閣の石垣の特徴であるが、何しろ、石垣の下にさらに岩塊がある。低い天守を高く見せようと岩が塊にあっている部分に石を積み上げて、その上に石垣を組んだのだろう。まさか数百年後に全国残存12天守閣の一つに残るとは思ってなかっただろう。こんな不安定な石垣は例がないだろう。

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そして、城内の裏側には「装束の間」という城主家族だけの部屋があって、いざ城を枕に敗北した際は、ここで切腹することになっているのだが、度重なる不運の城ではあるものの、実用に使われたことはないそうだ。

そして、たどり着いたのが、檻の中という感じである。

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つくづく、戦国時代から江戸時代、江戸から明治といった日本の体制が変わるときって、こんな山の中でさえ、命がけということになるのだから、日本の背負っている歴史は、重いということなのだろう。というか、多くの国では、ときどきは歴史に清算をつけて次に進むのだが、日本はそういう国じゃなかったということなのだろう。善悪はとてもつけられないが。

備中松山城再訪(1/2)

2013-08-05 00:00:45 | The 城
以前、備中松山城へ上ったのは2005年2月。真冬だ。8年半はあっという間のような気がする。雪の大量に残る道をビジネスシューズで歩くとは無謀そのものだったが、そもそも古城歩きなんて、無謀なのだ。

当時は、伯備線で倉敷から米子方面に本州を中に横断する途中の備中高梁(たかはし)駅からタクシー4千円ほどで、登山口とよぶべき「ふいご峠」まで行って、それから城攻めに入った。

この伯備線というのは、中国山地から瀬戸内海に注ぐ高梁川の大渓谷沿いを南北に走るのだが、電車の中から観察すると、中国山地という日本最古級の山脈が太平洋側から大陸側へのプレートの圧力で盛り上がる過程で、山中の水の逃げ道として数千万年かけて浸食を続けた結果、ここに超巨大な谷川が形成されたわけだ。だから、このあたりは絶景なのだ。

そして、川と鉄道の間の狭い場所に無理やり道路がある。というかこの道も古代日本の出雲政権と大和朝廷の激しい戦いが行われた歴史街道なのである。このあたり一帯の地名って、簡単には読めないのだが、それはいずれ稿を改めて。

そして、その後の歴史では、山陽と山陰の勢力が、いつもこの辺りで衝突して、多くの戦いが起きている。血塗られた道である。

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もちろん現代では、美しい景色に見とれたり、運転中に写真を撮ったり、信号がないためスピードを出しすぎたりして事故が絶えず、そのたび、重大な結果となる。もちろん山塊中の亡霊たちの「おいでおいで」の結果だ。


そして、今回はクルマで途中の駐車場まで行き、さらに、ふいご峠まで、マイクロバスに乗り換え、そこから夏の山道である。ものすごく暑い。この南北の渓谷を通って、熱風が南から上がったり北から下りたりする。何しろ、以前来たのは8年以上前だ。鼓膜に違和感が出てくる。山城。標高430メートルを目指す。道は石段があったりベアグラだったり、雪道を上った無謀を8年後の自分が糾弾。

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立札がある。

「登城心得:あわてず ゆっくり歩むべし 城主」

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城主って誰だろう? 市長か?県知事?大臣?総理大臣?

何しろ、この城の城主って、異様に変わりまくっている。秋庭→高橋→高→秋庭→上野→庄→三村→毛利→小堀→池田→水谷→浅野→安藤→石川→板倉

戦国時代という範疇でいくと、庄家の時に上野家を滅ぼして入城、二代後に三村・毛利連合と戦って戦死。次に三村家は毛利の大群に囲まれ滅亡。毛利が関ヶ原で西軍に属したため、領地没収。急きょ徳川家の代官(小堀)が入場。その後、池田家を経て水谷家になり城下を整備したのだが、仕事熱心が行きすぎ、跡継ぎを作るのを後回しにしたため、改易となる。要するに、政務を後回しにして子作りに励ましてバカ殿ばかりにしようというのが徳川幕府の管理術だった。

そこで登場したのが、あの浅野内匠頭である。赤穂藩より城の貰い受けに行ったのが、大石内蔵助。城番として1年間ここにいるうちに、主君が江戸城内でご乱心。1年後には、次の安藤家(高崎藩より入封)に明け渡すことになる。ああ無情だ。

その後も幕府のトレード方針で、石川家、板倉家と続く。幕末の板倉勝静はついに老中首座となり慶喜を補佐するが、それがため戊辰戦争では朝敵とされ、この山を包囲される。そして無血開城を果たしている。

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こんな難攻不落の地でも、戦いは起こり、重装備の武士には苦痛しかなく、逃げ道のない山城では、必然的に多数の死者が首を切られ、胴体は山中の野獣の餌食となり、あるいは、数百メートル落下し、高梁川の流れに乗って瀬戸内海に流れていき、鯛や平目の餌になる。

戦国時代に生きていたら武士なんてなるものじゃない。とはいえ、その後の江戸時代は武士だけが人間だったわけだ。

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しかし、汗が流れ落ち、心臓は苦しいし、笑っているのはヒザだけだ。眼下には、絶壁と谷底。

高知城再訪

2013-07-25 00:00:55 | The 城
以前から、当ブログを読まれている方はご存知かと思っているのだけど、わずか数百年前には日本中にあった天守閣も、いまや江戸時代以前のものは12しか残っていない。

東(北)の方から、弘前、松本、高岡、犬山、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、宇和島、松山、高知。

すでに総てには足を運んでいるが、行けば行くだけ知識は重層的になり、この12の中でも再訪したいと思う城もあるわけだ。

もちろん、全部に再訪したいわけでもなく、いわゆる再建城の中にも和歌山城のように再訪したい場所もあるし、すでに城跡しかなくても行きたい場所もあるのだが、中世以降の城でも400。平安時代後期からなら1000を超える城址の全部に行こうと思っているわけじゃない。

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それで高知城だが、高知に行ったことはこれで3回目。今回はまったくの観光トリップ。前2回のうち登城したのは1回。この城のよさは、天守閣+本丸御殿付きということ。残存12城のうち、本丸が完全形で残っているのは、ここだけか。

ただし、そう立派なものではない。

そもそも、高知は誰のものだったかといえば、長曾我部一門のものと考えるべきだろう。江戸を通じての大名は山内家。そう、山内一豊が妻の持参金を拝み倒して借用し、馬の購入資金に充てたわけだ。現代でいえば競走馬を買って一山当てたようなもの。

それで静岡県の掛川の城主として関ヶ原の戦いでは東軍として出場。結果として、滅亡した長曾我部の遺産をそっくり我が物にし、出世街道を過ごした掛川城および掛川市民には、軽くサヨナラし、喜び勇んで高知に乗り込んだものの、数年後にあっけなく寿命に従うことになる。

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高知県民の感情も、「山内よりも長曾我部」という人もいるらしいし、「故郷を見捨てて脱藩した卑怯者の坂本龍馬」と考える人もいるらしい。いろいろだ。

で、話は専門方面に走るが、高知城は1603年に山内一豊が築いたあと、1727年に城下の大火事で焼失している。しかし、1749年に以前とほとんど同一様式で再建がなっている。

で、明治になって、廃城令が出たりして天守閣には厳しい時代があったものの昭和に入り復古主義の時代に、予算が出ることになり、何度も修復工事が行われている。

そして、問題は、高知城天守の写真をよく観察すると、石垣の上部(つまり天守閣に近い部分)とその下の部分で石の色が異なることに気付く。下の方は一面に黒く、石垣の上部は白っぽいわけだ。

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そこに何らかの人為的は行為が見えるわけだ。

しかし、天守閣が上にあるにもかかわらず、石垣の分解掃除をするわけにはいかないだろうし、合理的に考えると、石垣下部が黒いのは1727年の大火の時の炎の跡であり、その時に天守が燃え落ちるとともに石垣上部も崩れ、その後、現代に至ったのではないだろうか。1730年代に石垣の修復が行われたものと推測できる。さらに、石垣上部の積石の白い部分を危険を冒して調査したのだが、石の裏側が焼け焦げているところも多いように思えた。やはり、再建に当たっては廃材から順に使っていたのだろうか。