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真里谷城跡、早々と下城

2022-10-02 00:00:22 | The 城
千葉県の中南部(上総国)は丘陵地帯が広がっている。といって高い山があるわけでもないが、あまり人が住んでいない場所が多い。千葉県は海岸の近くは住みやすいわけで、あえて丘陵地帯の奥に住む人は少ないのだが、なぜか規模の小さな城跡が多い。

というのも室町時代の中期になると関東は群雄割拠となり、上総でまず根を下ろしたのが真里谷(まりやつ)武田氏。武田信長という強そうな人物が、1456年に真里谷の地に真里谷城を定めた。どうして、こんなに人里離れたところに城を作ったのかは謎だが、単純に推測すると、人が住んでいなかったからといえるのではないだろうか。どうみても山林で、付加価値があるわけではない。21世紀前半の我々だって行くのが大変だ。鉄道駅からは3キロだが、道は曲がりくねった上り坂。ナビ付の車でも道幅が気になる道だ。



実は、近くのゴルフ場によく行くのだが、最近、途中の道が混むため、いつもよりも30分前に出ると、1時間以上前に着きそうだったので、ちょっとだけ道を変えれば行ける。しかし、事前にネット上の経験談を読むと、登ってから降りるまで45分だが、足が滑りやすいので注意が必要と、転倒した人からの忠告が書かれていた、つまり登り始めると、ゴルフには間に合わない。どこかでUターンが必要になる。



ということで、入り口にあたる「木更津市青少年キャンプ場」の駐車場に辿り着くが、そこには残念な表示板があった。つまりキャンプ場は休場中なので中に入らないようにということ。もっとも誰もいないのは明白なのだが、他人の敷地に無断侵入すればいいのだが、何しろ、滑って転ぶと谷底ということになりかねない。

全体の雰囲気を感じたので、いきなり下城ということになる。

なお、この地は戦国時代の終わりごろには北条氏と里見氏が争うことになり、多くの血が流れることになる。

無断侵入して崖から落ちてもキャンプ地が休場していれば、発見する者もいないはず。500年以上前の無名の戦死者と枕を並べることになる。100年後に考古学者に発見され、「室町時代には虫歯の治療も行われていた」という論文が発表されるだろうか。

因果応報の大坂城か

2022-09-01 00:00:56 | The 城
現在、『豊臣大坂城(黒田慶一著)』を読んでいる。著者の黒田氏は考古学的観点から城の研究をしている考古学者だ。



そして大坂城周辺の発掘により、従来言われている大坂城の変遷を確かめながら新たな発見をしているようだ。

今回のブログ「因果応報の大坂城」というタイトルは歴代の大坂城を眺めた時に思いついたのだが、有名な豊臣大坂城の前は、石山合戦で有名な石山本願寺の城だった。

それに腹を立てた織田信長が、明智光秀に焼き払うことを命じ、嫌々ながら光秀は僧兵を石山城に中に追い詰めた上、火をつけて焼き払った。

実は、その焼けた土の痕跡が残る場所の上に作ったのが豊臣大坂城。縁起でもないわけだ。天守閣が実在した期間は30年。

そして、豊臣大坂城は30年で焼け落ちる。大坂夏の陣だ。そしてその天守ごと埋め立てて城を作ったのが徳川秀忠。これが徳川大坂城。そして、この徳川大阪城天守閣は数度の火災を起こし、39年後に燃え落ちてしまった。城そのものは長く残り、徳川家茂は場内で亡くなった。最後の将軍である徳川慶喜は薩長軍との戦いで、多くの兵を置き去りにし、大坂城から軍艦で逃げ帰った。

そして昭和になり現在の大阪城が鉄筋コンクリートで復元した。1931年に竣工しているの、今年で91年。そういえばゴルビーも91歳で亡くなった。

江戸時代までの「大坂」の表記が「大阪」に変わったのは、「坂」という文字は「土に返る」という不吉な意味だからということはよく言われる。

原城跡へ

2022-03-24 00:00:26 | The 城
原城跡は島原半島の南部に位置する。1637年の年末から1638年までの5ヶ月にわたる島原の乱の主戦場である。この地に籠城した3万7000人の全滅を含め4万5000人が死亡したとされ、大坂夏の陣、応仁の乱とならぶ死者数である。参考まで当時の日本の人口は1200万人と現在の10分の1である。(江戸時代に日本の人口は3000万人まで増加した)。

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キリスト教徒の殉教戦なのか農民一揆なのか、その両方の要因で戦いが始まった。もっとも原因は同じと言ってもいいかもしれない。島原藩を統治していたのは松倉重政という小大名だったが、彼は幕府のキリシタン禁止令を厳密に実行しようと考えた(幕府へのアピール)。そのためキリスト教の中心地だったマニラ市を攻撃しようと、とんでもないことを考え、ルソン島攻撃をはじめるための準備を始める。銃を買い、地図を集めたり、現地にスパイを送ったり巨額の費用が必要となった。そのため、農民から重税で厳しく取り立てていた。

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現地は、乱の終結後、石垣の徹底破壊が行われ、死者も石もその場所に埋められたと言われる。ながらく心霊スポットと言われ、最近は観光地化を目指しているようだが、400年も前のことなので、城址内に個人私有地があるようで、タマネギ畑になっていて、収穫もしている。

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前面は海、後ろには雲仙三山がかすかに見える。当初幕府側は短期決戦を目指したが、損害が多く兵糧攻めに切り替えた。

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天草四郎を中心としたこの乱の後、松倉氏の悪政が幕府に報告され、藩主は斬首刑となった。

この乱のあと、キリシタンの取り締まりが強化され、隠れキリシタンにつながっていく。

島原城は美しすぎる

2022-03-17 00:00:39 | The 城
島原に行ったのは、主に原城探訪と雲仙、小浜の温泉が目当てだったのだが、長崎県というのは歴史の塊のような重厚な土地で、島原城にも曰く因縁が詰まっている。現在では観光資源化されているが、そんな簡単なことではないように思える。

当初築城されたのは1618年頃と言われる。江戸時代の当初である。藩主は松倉重政。武闘派の武将であったそうで、明治初頭まで残る美しい天守閣を作っていた。どれぐらいの武闘派だったかというと、キリシタンの本拠地がルソン島であったことから、フィリピンにスパイを送り込んで内情を調べ、日本からフィリピンに軍を進めようと幕府に進言し、城内に対外戦争用の武器をあつめていたそうだ。



ところが、軍備拡大の結果、資金不足になり農民から年貢で搾り取ろうとしたため、民の疲弊が進む。そして息子の勝家の時に過酷な税制に耐えられなくなった農民たちを中心に島原の乱が起きる。この法外な年貢の件で幕府は松倉家を追放してしまう。

実際には島原の乱という大戦争により島原という地名が有名になったので、島原城に天草四郎が立てこもったと思ってくる人が大量にいるらしいが、逆である。天草四郎がいたのは原城で幕府側の本拠地が島原城になる。

現在の天守閣は1964年のことだそうだ。城の天守閣内部には普通はお宝を展示しないが、本城では隠れキリシタン遺産が素晴らしい規模だ。もっとも本城は幕府の意向によりキリシタン弾圧の中心だったのだから倒錯感がある。

大多喜城のハイライト

2021-12-29 00:00:23 | The 城
大多喜城と通称するが、正確には「千葉県立中央博物館 大多喜城分館」という。「城」とか「城址」とかではない。どうも千葉県ルールは苦手だ。県内の多くがご天領だったこともあって、県立とか国立と言った言葉が大好きのようだ。

さて、久留里城は山の下から運転中に一瞬見上げただけだったが、大多喜城は整備されているので模擬天守にも入れる。もっとも大多喜駅の横を通過するときに、撮り鉄何人かが駅の外側から撮影していたのは、いすみ鉄道の黄色の列車と小湊鉄道の赤い列車が並んでいるところで、帰りにカメラを準備してそこに行くと、撮り鉄もいないし列車も黄色だけしかないし、並んでいたとしても駅の中にカメラを持つ手を伸ばして撮影したに違いないだろう。



そして、運よく大多喜城では『兜とカブト』という企画展が開催されていて、戦国武将たちの特徴的なカブトが紹介されていると同時に通常展示の古文書類なども展示されていて、よく解説されていた。



門から天守閣に行く途中には7体の大型の武者人形が立つが、特別展用なのか常設展示かは不明。もっとも屋外なので、イミテーションでプラスティック感もある。



資料を読んでいると、どうも房総史というのがあって、房総半島内での陣取りの歴史というのは結構面白そうな感じで著書もいくつかあるようだ。

ところで、城に歴史ありというのはよく言われるが、大多喜城の城主は初代が本多忠勝。德川四天王の一人だ。大物だが、城の歴史としては、1609年に御宿に流れ着いたドン・ロドリゴフィリピン臨時総督を城内でもてなして、その後、江戸城に送ったという事件があった。

その一行による記録には城内には籠城用の田畑があったと書かれ、堅牢な造りと金銀の装飾のなされた城郭に驚いたことが記されている。

もう一つの歴史は幕末のこと。本多、阿部、青山、稲垣と城主は変遷し最後の城主は大河内正資。鳥羽伏見の戦いでは幕府軍の総督を務めている。どうもこの城には「総督」という因縁の文字があるようだ。

攻略失敗した久留里城

2021-12-13 00:00:50 | The 城
1週間ほど前、千葉県の中南部を旅行していた。ベースは御宿海岸のリゾートホテル。夏の間はサーファー専用のような造りになっている。冬でもサーファーはいるのだが他の部屋のことはほとんどわからない。

初日の金曜にアクアラインで木更津から千葉県に上陸し、高速道路沿いの観光をして、最近話題の養老渓谷には翌日に行こうと思っていたが、どうも週末の養老渓谷は箱根や日光並みの混雑という情報がわかってきて、急きょ初日に養老渓谷に行こうと考え直したわけだ。そうなると、途中に久留里城がある。道順的に行かないはずたったのだが千葉県お城ランキングのベスト10に入っている城を見逃すのはもったいないと城攻めを始めたが、軽く調べていただけで、地図上の場所はわかっても最接近した時の道がわからない。

一応、ナビ任せで近くまで行ったが道は曲がりくねり交通量も多く車を止めるわけにはいかない。と思っていると、正面に見えた山の上に一瞬小さな天守閣が見えた。見た感じは40~50メートル上。30分は歩かないといけないが、それでは先に進めなくなってしまう。

やっと上り道を見つけたが、舗装もあやしいし、幅が3メートルに満たないような感じだ。幅の広い車に乗っていることもあり(軽自動車でも同じだろうが)対向車が来たら、どうするのだろう。この上り坂をバックで下まで戻るということになると、一日が終わりそうだ。

ということで、チラッと見ただけの城ということになった。


久留里城は戦国時代末期には里見氏が北条氏に対抗して勢力を張っていたが、江戸時代になり黒田氏が入城して城郭を整備した。

現在の城は、昭和53年に旧天守台の脇に建てられた模擬天守。歴史的事実である旧天守台の上にフィクションの城をのせなかったのは一分の良心があったからだろうが、かつての天守閣とはまったく異なり、ワンサイズ大きくなっているようだ。復元された浜松城をモデルにしたと言われる。

ところが、復元された浜松城だが、こちらは実在していた天守閣とは異なり、相当小さく作ったそうで、天守台より天守閣の床面積の方が小さく妙なデザインになっている。

浜松城の復元は福井県の丸岡城(近世の天守閣が残る)を参考にしたと書かれたものがあるが、私は両方とも行ったが、似ていないと思える

この模擬天守の件だが、2009年5月号歴史読本「日本の名城」の中では、『結局は作り物である。本物の遺構のみが持つ価値や迫力という意味では、残念ながら(千葉県では)、本佐倉城や真里谷城にはかなわない。』と手厳しく書かれている。

山中城と東海道

2021-11-09 00:00:08 | The 城
箱根と三島の中間にある山中城址に行った。第一駐車場ではなくNAVIが指示した駐車場に入ったら第二駐車場であった。そのおかげで山中城の入口まで山の中を歩くのだが、そこは東海道の旧道だった。



石が敷き詰められているが、これが逆にかなり歩きにくい。ねんざしそうだ。江戸時代は靴ではなく草鞋を履いていたはずだが、それでも歩きやすくはないだろう。



疑問を突き詰めようにも時間はない。


正規の山中城の入口の全体図をみて、その大きさに驚く。とても全部を見て回ることはできそうもなく、二の丸と本丸跡を歩くことにする。本丸の場所は、少し狭い。



もともとは、沼津や箱根は今川・北条・武田が覇を争っていた場所で、数多くの戦いが行われ、数多くの兵士が死んでいる。沼津市内には「首塚」と呼ばれる場所もある。戦没者慰霊塔だ。



城の方だが、堀は浅いがぬかるみ状になり、大軍による攻撃ではなければ持ちこたえられるはずだったのだが豊臣秀吉の小田原攻めの大群が一気に攻めを始めた。10倍以上の大軍による攻撃で4000人の北条軍は壊滅した。

信長、秀吉、家康の三人を「三雄」というそうだが、いずれも「神も仏も無視」して大虐殺コースだ。

武田神社か躑躅ヶ崎館か

2020-11-26 00:00:20 | The 城
山梨県(甲斐国)といえば、誰しも武田信玄を思い起こす。上杉謙信との川中島の戦いが名高いが、甲斐は周りに今川、北条、上杉と同規模の武将に囲まれていて、自然とパワーバランスが空白な信州に出ていきたくなるが、かたや上杉も同じ。

信虎・信玄・勝頼の武田三代の本拠地が躑躅ヶ崎館だが、今は武田神社になっている。山梨の城と言えば、専門書の県別ベスト3に必ず入るのが、この躑躅ヶ崎館と未完の城である新府城(韮崎)。そして徳川家と強い関係性を持っていた甲府城。このうち新府城は跡地が自然に戻りゆく途中にあり、国破れて山河ありの図らしい。



勝頼は歴史の中では、多くは信玄のバカ息子という位置におかれるが、父が奪えなかった川中島を制圧している。そもそも日本の歴史は、恣意的に何度も曲げられているので、自分で調べて検証することが必要。



武田神社の裏手の方には山があり、城と一体となった防御網だったが、織田側は甲府市内でデマを飛ばして家臣のなかからの離反者を待ったわけだ。



そして神社のはじには太宰治が愛した桜の木がある。なぜ太宰が甲府に住んだのかはわからないが、そういえば『富嶽百景』という著作があった。甲府から見る富士山は静岡側からの姿と異なる。さらに太陽は静岡側の南側に当り、山梨側から見ると影の部分になるため、山肌の陰影は鮮やかだ。

破壊された小机城の復元は

2020-02-25 00:00:02 | The 城
小机駅周辺を散策してから小机城に登城する。天守閣のない城なので、目印を間違えないように一応事前に軽く調べておく。実際には有名ではない城は、現地をよく見ないで解説を書く人もいるので、とりあえず参考という程度に頭の中に仮置きする。実際、ちょっと違った。

城の歴史は、15世紀前半に築城され、15世紀後半に関東管領の上杉氏の中で重鎮だった長尾景春が長尾家内部の対立で内紛を起こし、それに乗じて景春もろとも長尾家を全滅させて上杉家のナンバー2になろうとした知将太田道灌が景春派の豊島家の立て籠もる小机城を知略によって攻め立て、小勢ながら大勝利をおさめ、当時の常識だが、捕まえた敵兵を全員殺してしまう。その後も道灌は景春一派を攻め立てて関東から追い出してしまうのだが、残念ながらボスを捕まえることができなかった。

敗れた豊島氏の本来の居城は豊島城という。「としまえん」そのものだが、ついに流れるプールを追い出して、ハリポタと練馬城址公園の姿に戻ることになった(余談)。

そして、今度は上杉家の中に太田道灌の台頭を警戒するグループが現れて、伊勢原市で入浴中に暗殺されてしまう。

まあ、関東の戦国時代は、基本的には生臭い話が多い。

ということで、小机城に関する最大のエピソードは、太田道灌に攻めつぶされたことなのだ。そして、結局、秀吉が北条家を小田原城で制圧し、出城だった小机城は廃城となった。しかし、いわゆる平山城で丘のような小さな山を改造しているので、居住や農耕にはまったく不向きな土地だったようで、最近になって、色々と手が入り、城跡らしい風情を蘇らせている。

とはいえ、小田原城のような立派なものではない。そもそも石垣はない。山の斜面に空堀を掘って、一部を平らにして小屋を建てて本丸と言っていたのだろう。



まず、地図なのだが、二種類の地図が掲示されている。そのうちの往時の想定図。かなり大きい。まず、東西にJR横浜線が走っている。さらに南北に太い点線の幅で示されている帯状のものがあり、これは第三京浜道路だ。世田谷から横浜の三ツ沢まで片側三車線で、その先、横浜新道につながり戸塚のあたりで一般道になる。つまり、元の城跡を鉄道と道路で縦横にカットされたわけだ。現在の城址公園は線路の北側のみで濃い黄緑の部分だ。第三京浜の西側へは東側から道路の切通の下をくぐっていくことができるが、「見るべきものはない」と色々と書かれている。



そして、駅から10分ほどで公園に入るが、城門があるわけでもなく、山道を歩くと竹林が広がる。さらに起伏が多いのだが、柵で区切られた歩く部分は、元々城の空堀だった部分なので、傾斜がきつい。水堀と空堀の違いだが、空堀の方が急傾斜を作りやすく堀に誘き寄せて上から矢を放つという作戦がとられる。よく、秀吉は水攻めが得意と言われるが、そもそも空堀に水を引き込むのは難しい。特殊技術が必要になる。



この空堀を張り巡らせるというのは、5キロほど離れた場所の茅ヶ崎城も同様だ。茅ヶ崎城も城址公園になったが、小机城は、落ち葉が積み重なっていたり土の地面がむき出しになっていたりと、本物風だ。茅ヶ崎城は手入れが行き届きすぎているともいえる。


そして、講演の西端に「日本道路公団」の境界杭が打たれている。その場所から高速道路の下のトンネルまで降りてさらに向こう側で山を登る必要がある。「見るべきものはない」との説が多いが、本当は、鶴見川に面しているのは道路の向こう側。その光景から太田道灌に攻められる感覚を感じてみたいのだが、行くとまた戻らないといけない。



さらに城内では誰一人見かけることはなかったのだが、道路のむこう側の山に、一人の男が腰にタオルをぶらさげ登っているのが見えた。なんとなく、怪しき感じが漂っている。思えば、その入口(=出口)が一か所しかない山に入ることはいつでも合法的に可能なのだが、実際にそこに行く人はほぼいない場所なのだ。考えられるのは秘密資金の隠匿。山のどこかに密かに穴を掘って、5年から10年の間、横領や密売で得た現金や金塊を隠しておくには最適な場所のわけだ。手ぬぐい男は、埋蔵場所の確認に行ったに違いないわけだ。あわてて退散する。下見はしないことにする。

首里城炎上

2019-11-01 00:00:43 | The 城
沖縄についてのマイナーテーマを書こうと思っていたら、首里城が炎上した。テレビでみた画像は、言い方は不適切かもしれないが「城が燃え落ちる時のある種の美学」を自分の中に起想させるに十分だった。沖縄の象徴ということについては後で述べるとして、自分が生きている間に城が燃え落ちることなどないと思っていた。第二次大戦末期には米軍のB29が天守閣を目標として空襲したので多くの残存天守閣が燃えたのだが、その時は市街地も焼けているので感傷を持つ人もいなかっただろうし、城址を陸軍が使っていたケースも多い。



歴史で有名なのが大坂城。日本最大の城が燃え落ちている。江戸城天守閣も2回も火事に見舞われている。北の庄城(福井城)は柴田勝家、市の夫妻とともに焼け落ち、逃げ延びた市の娘の一人が後に秀吉の側室になり秀頼を産んだことから、ふたたび世は動き出し、関ケ原を経て大坂の陣に至った。

そして、再建のことだが、今はほとんどの人が動転しているわけで、いずれ再建すればいいのだろうが、よく考えた方がいい。○○がなくなったから、すぐに代わりに取り換える、という前に、首里城の存在をもっと市民、県民、国民で考えた方がいい。



「沖縄の象徴」と安易に「象徴」という言葉を使うのはどうかと思うわけだ。憲法の中の天皇制とは違うわけだ。首里城がなければ沖縄には統一感がないのだろうか、あるいは日本国民にとって本土と沖縄の距離を近くしているのか遠くしているのか考えてもいいのではないだろうか。

そこに広場があって、過去にここにあった首里城は米軍と激闘の末、完全になくなったという共同記憶を持てばそれでいいのではないだろうか、とも思う。理念なき再建は愛されない城を作る結果を招きやすい。



ところで、2009年に首里城に行っている。当時の写真を確認すると、向かって左側の屋根の上で工事が行われている。また避雷針もある。



薄い記憶なのだが、展示品にについて大部分がレプリカでオリジナルは県立博物館に保管されていたような気がする。

王冠や琉球王国の印章が展示されていた、印章の画像を左右逆にして解読すると、『琉球国王の印』と書かれている。中国の覇権が明から清に変わった時に明から頂いた印を返して新たに清の国王から認可されている。

呪いの最終章か、丸亀城高石垣崩壊

2018-10-10 00:00:33 | The 城
台風の連発で全国至る所で崖が崩れているが、丸亀城の高石垣が派手に崩れた。

実は、丸亀城の天守閣は、全国の12しか残っていないオリジナルの天守閣のわけだ(388歳)。しかも、その高石垣は、日本でも指折りのスケールを誇るわけだ。

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過去に二度、城に登っているのだが、2014年に行った時の画像を少し逆光補正してみた。

次に今回の崩落個所だが、テレビの画像からおこしたのだが、私の撮影位置から写してもらいたかった。後半で触れるが、現在の天守閣が完成したのは1660年なのだが、さかのぼること70年ほど前、生駒親正という大名の時代に丸亀城は完成している。生駒氏は豊臣家の家臣で、戦功を重ねた結果、讃岐(香川県)を一括して17万6千石を与えられていた。そして、高松城の他に丸亀城も造ったわけだ。

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そして、運命の関ヶ原の戦いの時には、生駒親正本人は出家を装い西軍を支援していたのだが、お家の為に息子は東軍に味方していた(要するに、どっちが勝ってもいいようにしたわけだ)。その結果、讃岐の国の所領を守ることができたわけだ。ただし、徳川幕府による1615年の「一国一城令」により、高松城だけを残し、丸亀城の廃止が決まった。

ところが、よせばいいのに、猿知恵を使って、城郭をそのままにして周りに樹木を並べて隠そうとしたわけだ。(実際に高松城は海に面した平地で、治世面では好都合だが戦闘用としては無防備に近い)さらに。生駒騒動というお家騒動があり、改易になり、出羽国へ転封となる。さらに、讃岐は東西にバラバラとなり西側(丸亀)は一つの国となって、1643年に山崎家治を藩主として迎えることになる。そして、一国一城ということで、再び丸亀城が立ち上がることになる。

この山崎家治がどこから来たかというと、実は天草藩。天草と言えばキリスト教信者の天草四郎を中心に、年貢の厳しさに農民たちが公権力と戦って敗れた島原の乱が1638年のこと。

なぜ、年貢が厳しかったというと、島原や唐津の大名が、自分の格付けを上げるために石高を二倍にして幕府に申告していたからだ。そのため年貢も二倍になる。たまたまキリスト教信者が多い場所だったから、幕府はキリスト教の取り締まりという名目にしてしまう。

島原の乱では蜂起側は37,000人が全滅(内通者1名を除く)。幕府軍と合わせると40,000人が亡くなった。江戸幕府最後の戊辰戦争の死者は10,000人前後と言われる。島原の乱の次に国内で大量の戦争死者を出したのは1945年の沖縄戦で、約200,000人と言われる。

そして、島原の乱の後、天草(富岡)藩の藩主になったのが、山崎家治。徳川家による大坂城の新築を担当した石垣造りの名人と言われるが、あくまでも建物の土台としての石垣を作る(建築工事)のがうまいわけで、土木工事としての石垣は未知数。

しかし、新人大名の最初の勤務地が島原とは荷が重すぎた。元はと言えば、石高をごまかしたことから重税になったのだが、幕府としては認めたくないわけで、結局、藩の経営はうまくいかず、ちょうどバラバラになった丸亀に3年後の1643年に人事異動することになる。天草は御天領となり、石高問題はうやむやになる。37,000人の死者の怒りは山崎の背中に張り付くわけだ(怨念1)。

そして、山崎は丸亀に築城を決意し、見ての通りの絶壁に石垣を作り始める。そして石垣完成の日、山崎家治の胸には大きな不安がわきあがってくる。それは、この石垣工事の責任者だった羽板重三郎のことだった。難攻不落と思われるこの石垣を、彼はあたかも猿のように自由に石垣の上で移動しているわけだ。つまり大した石垣ではないと第三者に思われてしまうわけだ。

そして、山崎は重三郎に対して、古井戸の探索を命じ、井戸にもぐったあと、その上から大量の石を投じ、殺害してしまったわけだ。(怨念2)

山崎家治が丸亀に来たのが1643年。しかし、天守閣まで完成するには17年かかっている。まず、家治は、石垣が完成してまもなく1648年に亡くなり、息子の俊家が山崎家を継ぐ。ところがその俊家は3年後の1651年に亡くなり、その息子の治頼が3歳で家を継ぐのだが、6年後の1657年に享年8歳で亡くなっている。その結果、お家断絶は免れるも改易となる(怨念3)。

そして、1658年に京極高和が6万石大名として丸亀藩は落ち着きを取り戻すわけだ。石垣が崩壊した一昨日まではだが。


しかし、この壮絶な怨念が石垣の崩壊ということで終結するのだろうか。画像を見ていると、この高石垣が無残に崩れてしまうと、その上に立つ天守閣は無事なのだろうかと疑問が湧いてくる。というか、見れば見るほど、疑問が確信に変わっていくわけだ。

大垣城で武器を手にする

2018-02-21 00:00:22 | The 城
東海道線を西から東へと移動中に「そうだ、関ヶ原に行こう」と思ったのだが、ちょうどJR関ヶ原駅に着く数分前に、急に天は暗くなり、大粒の雨が降り始めた。なにか、私に見せたくないものがあるのだろうか。となると、代替案として二駅先の大垣にいって駅から近いところにある大垣城にでも行くかということにした。

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有名なのは、駅から徒歩10分ほどと行きやすいこと、それに平地だ。関ケ原の戦いの時に西軍出陣の本拠地となったことが有名だ。残念ながら終戦まで半月という時期に空襲により焼失。もう一つ残念なのは昭和三十年代に鉄筋コンクリートで再建された折、観光上の理由で元の大垣城ではない別の城のデザインが参考にされたのだが、「それはないだろう」ということで平成時代に、焼失前の大垣城に近づける改修が行われた。一方で木造再建の声も大きいようだ。

小ぶりな天守の意味は、平地の城なので籠城することは考えられてなく、したがって武器庫の大きさも大きくなかったからだろうか。奇抜なデザインではなくシンプルな感じである。西軍は、大垣城だけではなく石田三成の本拠である佐和山城でも激しく戦い、そして壊滅した。この城にも佐和山城にも「お宝」は発掘されていない。大垣-関ヶ原-近江佐和山のラインのどこかに埋められているのかもしれない。

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特筆すべきは、城内の武器の展示。いずれも持ち出せないように紐がついているが。まず、弓。思いのほか思い。弦を引くのに相当の力が必要だ。弓の名人として名高いのが那須与一。源平合戦の中の屋島の戦いで活躍。彼が平家の舟に立てられた扇を射抜いたとされる場所に行ったことがある。彼が乗った石も現存している。

そして源為朝。そして東海一の弓使い徳川家康。実際に弓を引いてみると家康の見方も変わってくる。腕力に自信があり、かつ長身だったということになる。狸オヤジのイメージとは矛盾する。

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そして鉄砲。これも本物らしく、重い。武士は大変だ。

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さらに槍。これは大変だ。凶器になり得る。展示品の先には刃は付けられていないが鉄の板がついているだけだが、もともと何人もが一緒に突いて使うのだから恐怖の武器だろう。弓と鉄砲と槍。どれがもっとも惨忍かというと、槍なのだろうか。

茅ケ崎城再訪

2018-02-06 00:00:59 | The 城
茅ケ崎城は自宅から歩いていける二つの城のうちの一つだ。もう一つは荏田城といって、個人所有の土地を完全封鎖しているため詳細不明。茅ケ崎城も前回行った時には整備中ということで中に入れなかった。ということで出直して再チャレンジ。

その前に、茅ケ崎という地名だが、多くの人が知っている有名な茅ケ崎は東海道線の茅ヶ崎駅のあたりで、有名人の別荘が多く並んでいる高級住宅地だが、茅ケ崎城のある茅ケ崎は、横浜市の北部である。奇妙なのは、東京の五反田から荏原を通って神奈川県に入る道路の中原街道というのがある。川崎の中原区を抜け、横浜市に入ってまもなくで、この茅ケ崎城になる。荏田宿という宿もあり大山街道と中原街道が合流し分岐する場所だ。この中原街道は終点が茅ケ崎市になっている。つまり、同じ道路に2ヶ所同じ地名があるというのは、なかなか理解しにくい。

そして、戦国時代というのは一般に北条早雲以降、武田、上杉、北条、今川といったところが争うように歴史小説は教えるのだが、関東では、上杉家の内輪もめが大きなポイントになる。その他、茨城の結城氏や千葉の里見氏が陰謀をこらして勢力を伸ばしていた。

で、14世紀後半のスーパーヒーローが太田道灌。山吹の和歌をよんだことで文武両道と評価は高いが、実際には近く訪れるつもりの小机城では、敵に勝ったあと、捕虜1000人以上を皆殺しにしている。

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その太田道灌にも縁のあるのが茅ケ崎城。14~15世紀の城だが、当時の戦い方は広い関東平野を遊軍的に部隊が移動して戦っていた。ということで、立てこもって籠城するような守備力はなかったのだろう。城の乗った丘陵は高さが40mである。その位置から丘の下を眺めても、今も昔も一流感のない家が並んでいる。

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城郭整備後は空堀が通路になっていて高台が三か所に分かれている。兵士たちは城の周りに住んでいたそうで、住居があったという証拠はない。

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発掘された礎石が意味するのは、倉庫群が立っていたということで、それ以上のことは判明していないようだ。


そして、大問題が城内の井戸。茅ケ崎城は城郭の外側に居住地区があるのだが、それでも
城内に井戸がないと、いざ戦いという時にどうにもならない。どこかにあるはずと探してみると、やはり井戸の跡は見つかったのだが、通常の古城では「古井戸」というのは、重要史跡として貴重に扱われているのだが、茅ケ崎城ではそうではないわけだ。「トイレ」のすぐ横なのだ。

二条城、すべて德川家のためだったが

2018-01-23 00:00:14 | The 城
以前、かなりの文化人の方と話していた時に、お城の話になり、いわゆる残存天守閣12城の話になり、東の方から(弘前、松本、犬山、高岡、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、高知、松山、宇和島)なのだが、その方が「おかしい!二条城を忘れている」と強く言い張ったことがあった。まあ、有名な方に抵抗すると、後で食事代の支払いの時に得をしないので、お茶を濁した結果、割り勘になったのだが、単に「御城=天守閣」との誤解があるわけだ。

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ある意味、日本の城の中でもっとも立派なものは二条城であるのも事実であるが、18世紀に天守閣は火災で焼失し、再建はされなかった。江戸城の天守閣だって17世紀の中頃に焼失した後に再建されなかったのだから、当然と言えば当然。大坂の陣ではすでに大砲もどきまで出現しているのだから、城を枕に戦っても勝ち目がないことはわかっていた。

とはいえ、前に二条城に行ってからかなり長い時間が経過していて、昨年におバカ大臣が学芸員をののしったのも二条城だったし、以前のイメージと比較して自分の脳の老化程度を確認しようという無駄な抵抗もあった。

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しかし、残念ながら、以前のイメージと同じであったのだが、年を重ね、お城鑑賞に関する無駄な知識を山のように詰め込んでいるため、それなりに細部は面白い。

その前に由来だが、德川家による德川家のための城なのだ。完成したのは1603年。家康が征夷大将軍になり江戸幕府が始まった年である。もちろん天下普請といって、全国の大名から寄付金を調達。ふるさと納税と異なるのは返礼品がないこと。

そして、慶応3年(新暦では1868年)12月9日、この城でもっとも大きな二ノ丸御殿の大広間で德川慶喜は全国40藩に対し、「大政奉還したいが、どうか」と諮る。独断ではなく、各藩に意見を聞くとは、将軍とは思えない弱気である。異論はあったのだが、他に名案なく征夷大将軍の退職願を出したわけだ。(ところがすぐに受理してもらえなかった)

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城内の本丸エリアは築城初期の面影が残り、門にしても戦闘用である。天守閣の跡は石垣が整備されているが、手入れが良すぎる。本丸御殿は現在整備中であるが、これは江戸時代の物ではなく、御所内にあった桂宮邸を明治期に移転。二の丸御殿とのバランスは良くないと言ってもいいだろうか。

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ところで、二条城は深く15代にわたり德川宗家と関係していたのだが、その後の宗家はどうなっているのかといると、現在は18代の德川恒孝氏(1940年生)。息子さんは家広氏(1965年生)で第19代と決まっている。しかし、ベトナム人の奥様との間にお子様がいないと言われているため、20代についてはまったく決まっていないそうである。まだ52歳なのだから。あれこれ頑張ればいいと思うのだが。

和歌山城再訪

2017-11-13 00:00:36 | The 城
20年近く前だが、取引先の外資系企業の方(年上)と和歌山県へ出張したことがある。目的地は和歌山市街ではないのだが、その方は南海和歌山市駅につくやいなや、タクシーに乗り、和歌山城に向かったわけだ。ずいぶん駅前にサラ金が多いなと思っているうちに吉宗公も住まわれていた和歌山城に到着。そして直ちにきつい石段を登り始め、天守閣に辿り着いたら即、入城券を買って城内の階段を上り始め、心臓が止まりかける。

これが、私の御城探訪のきっかけなのだが、それ以来、和歌山城には行っていなかった。要するに和歌山に行くのが億劫なのと本物の天守閣は空襲の犠牲になったため再建されたものであるからである。もちろん城は天守閣だけではなく石垣や庭園や水濠や城下町の配置など見るべきものは多いが、そういうものを味わうには逆に再興天守が邪魔になるときも多い。

といっても、オリジナルは城造りのスペシャリストの藤堂高虎であるし、その後、徳川将軍8代目から14代目までが紀州藩の流れである。

今回は、JR和歌山からの出発。不思議なことに市のHPでは、城まではタクシーで行くように強く勧められているが、少し調べるとバスが沢山走っている。普通のバスに5分ほど乗ると門の前に到着。

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そしていつものように堂々と正面から登っていくと、石垣群が見えてくる。やはり藤堂高虎の初期の作品なので、石垣は改良型の野面積で小さめの石が単純に積み重なっている。よくある例だが戦災や合戦で城が焼けた場合、石垣が黒く変色しているのだが、やはり空襲で激しく燃えたことが窺われるように石垣の上部半分程度は表面が黒く汚れている。

ただし、以前来た時はもっと急な坂だった感じがあったのだが錯覚だったのだろうか。天守閣内も階段がきつかった記憶があるが、特にそうは感じない。城を見過ぎたのかもしれない。それによって感動が薄れるというのは困ったものだが。

また藤堂高虎に築城を発注したのは秀吉の弟の豊臣秀長だが、完成した時には別の城に住むことになってしまい、新居は別人の館となり、その後、薩摩藩の海路での東上を防ぐために紀州徳川藩がストッパー役として入城。

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最上層より眼下には一級河川の紀の川が見下ろせる。実は日本地図を見ると、徳島の吉野川と直線状でつながっているのだが、遠く西は熊本から大分を抜け四国を走り、東は茨城県までつながる中央構造線そのものであることがわかるだろう。一億年の歴史を持つ川なのだ。

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城内には、徳川家の記念品はあまりなく、戦火に消えたのだろうと推測がつくが、城とはまったく関係ないが明治初期の郵便配達人が所持していた『郵便保護銃』なるピストルが目を惹いた。郵便物を襲撃する事件が多かったそうだが、明治の初めから為替制度は普及していたのだから札束を郵便で送る人は少なかったはずだし、何を運んだり奪ったりしていたのだろうか。

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帰りは別の坂を下って降りると、そこはかなりの急坂で、20年近く前、急坂と感じたのはこの坂を上ったからに違いないと気付き、私を誘ったお城マニアの魂胆がやっとわかった。

出口の案内はタクシー乗り場に誘導するためのものなので、別の出口から城外に出て、バス停を探すと、城の反対側であって、一汗かくことになった。