2010/10/11 鈴木邦男さんのブログ記事、「中国の今を、石平さんに聞く!」を読んでいた。
別の言葉で言えば、「手段の民主主義」が徹底してなかったから、「結果の民主主義」が実現できたとも言える。明治時代は、全員に投票権はない。限られた人間だけだ。国家の重要なことも、少人数で決められていた。「手段」としては民主主義ではない。
だが、その少人数の「叡智」と「責任感」によって、結果としては良い方向に行った。国家を守り、国民のためになった。つまり、「結果としての民主主義」をもたらした。
ここを読んだ時に私の頭に浮かんだのは「エリーティズム」という言葉だった、久しく忘れていたがエリート主義のことを格好付けてこう言う(^o^)
最近ではエリートという言葉すら遠慮して使わなくなっているような気がするが、「ノブレス・オブリージュ」という言葉と共に日本では死語になってきているのだろうか。「由らしむべし、知らしむべからず」もエリート側からの真摯な表現とも言える。これを曲解したエセエリートが蔓延しているのも哀しい。
だが内心で私はエリートだと思っている人々は、特に官庁、政財界、大労組やマスメディアなどには多いかも知れない。しかし彼等が「結果としての民主主義」を決してもたらしていない、彼等に「ノブレス・オブリージュ」の理念は無いらしい事が極大不幸社会の源なのかも知れない。特捜検察の自滅はその象徴ということだろう。エリートをその本意に添って動かすシステムの設計ができるエリートが不在ということだと思う。
善誘、甲府市の定義のように「よきに導く」のではなく、論語が言うように「よく導く」という教育が崩壊している姿を想像する。「エセエリートが決めた善き」に導こうとするからベクトルが一つの方向に集約されることを善きと勘違いして「手段の民主主義」を排除し「結果としての全体主義」になる。
ということで、相川地区デマンド交通実証実験に注目していきたい。山梨県の県都甲府市において壮大なる社会実験が行われる。