いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

年末スペシャル:いぶたろう半生記

2005-12-21 04:17:41 | 特選いぶたろう日記
1975年2月6日
 狙いすましたように午前11時11分、大阪医科大学付属病院(大阪府高槻市)で、長男として生まれる。両親は共にアナウンサー。そら喋るわな。普通の赤ん坊は手を握って生まれてくるそうだが、僕は思いっきり「パー」だったそうな。

1979年4月(4歳)
 大阪府箕面市粟生幼稚園入園。法泉寺というお寺付属の、仏教幼稚園だった。月に一度本堂で「ののさま(観音様)のうた」を歌わされたような。いもほりだの工作展だの色々やる幼稚園だったなあ。年少さん時はたんぽぽ組だった。オバラ先生、だったかなあ?

1980年4月(5歳)
 年長さんになった。うさぎ組だったな。オダガキ先生、元気かなあ。この頃から体操教室に通ってた。マット、跳び箱、鉄棒、とひととおりやったことで、基本的な運動神経が身についた。逆上がりができなくて鬼のカヤマ先生にボロクソ絞られたっけ。おかげで出来るようになったんだけど。あとマツノ先生ね。今に到るまでカチカチのわたし、地獄の股割り柔軟体操はツラかったなあ。

1981年4月(6歳)
 大阪府箕面市立豊川北小学校入学。正直言ってここでの6年間はロクな思い出がない。公立小学校というシステムは僕にとっては窮屈な牢獄でしかなかったなあ。管理側の都合で設定された「秩序」を、快適な空間だと信じさせられている多くの人々との摩擦に苦しんだ。いまも似たような価値観の軋轢、あるかもなあ。「公立小学校」的なものって、結局、「組織の和」を最高の美徳とする聖徳太子以来の「日本式全体主義」と、平等意識に縛られた思考停止とに凝縮されるもんね。僕、個人主義だし。今ならそうやって割り切れるのだが、いまだ小学生の身の悲しさ、自らを先生と名乗る思い上がった地方公務員との無益な争いに日々を費やす。「生徒たちの民主的な決定」を装った「先生の独裁」に、しょっちゅう逆らっては吊し上げられてたっけ。

1983年8月(8歳)
この頃、好きだった女の子の家へ招待してもらって、ノコノコ遊びに行って、ほっぺにかわいいチューしてもらってアタマがぽん。当時の僕にとっては天地がひっくり返るような衝撃的な出来事でした。たとえ何歳であっても女の子ってすごい。もっとも、先方は覚えちゃいないだろうけど。長い三つ編みの、つり目の、細身の、もうホントにわかりやすい僕のストライク原点みたいな、かわいい女の子でした。最近、小3の生徒なんか見てると、俺、こんなちんちくりんな頃にこんなつんつるてんに!…としみじみ。

1984年2月(9歳)
この頃、カブスカウトを始めた。これはめちゃくちゃ楽しかった。今でもきっとテントたてたり飯ごう炊さんしたり、できるぞ。一緒に入隊したお向かいの家の昆虫博士タマキくん、元気でやってるかなあ。引っ越しの時に餞別の品くれたりして、いいヤツだった。

1984年4月(9歳)
親父に騙され、私立中学受験を志す。阪急石橋駅近くにあった「関西学研大川ゼミ」に通い始める。バスもしくは電車で1時間の長旅だった。特に勉強もしてなかったのに、一番上の特進クラスにすんなり入ってしまい、もうこれですっかりナメちゃったもんだから、勉強しない。宿題やらなくてよく怒られたなあ。当時は子供が多かったから塾も殿様商売で、今の子供とは比較にならんくらい扱い悪かったよ。国語のノザキ、あいつのホッペつねって吊るす刑はホントに痛かった。コクボの説教はしつこかった。でも、その後の2年に比べればぬるま湯。あれって、生後10年にも満たない頃の話だったんだなあ。

1985年5月(10歳)
意味のないルールの強制、先生たちのその場の気分によって変わる身勝手な叱責、盲従するクラスの空気との軋轢、異端者を責め立てる人々との低レベルな争い、分かり切ったことを全員出来るまで繰り返す授業。もう本気で小学校がイヤになり、登校拒否に。そんな折、東京に校則のない自由な学校があると聞き、いよいよ本格的な中学受験を決心。その学校に入るのがどれだけ大変か知りもせずに。もちろんこの後、身をもって思い知る。大阪府内で1.2を争う超スパルタ塾へ転塾。ものすごい進学率だったが、ものすごい世界観だった。汗と涙と竹刀と鉄拳。今考えても人生で最もハードな2年間に突入。忘れられないね、ありゃ。

1985年9月(10歳)
阪神タイガース優勝。箕面駅前のドムドムバーガーから流れてくるラジオで聴いた。知らないおっちゃんたちと一緒に騒いで喜んでた。その後18年もおあずけを食らうとも知らずに。

1986年5月(11歳)
忘れもしない、タバコ事件。星空観察会で子供だけで公園に集まった折、誰かが持ってきたタバコ。数人が口をつけてみたのをきっかけに、クラスの大半の男子が見よう見まねで背伸びしてトライ。みんなゲホゲホ。しかしその後、心ないのかあるのか女子の密告で明るみに。そして気が付けばいつのまにか僕がみんなに強要していたことになっていた。宿題もやらない、先生の言うこともきかない俺のせいにしておけばみんな納得するだろうと、口裏合わせた模様。しかもそれに先生もまんまと乗っちゃうんだから情けない。この一件で僕がどれだけ傷ついたか、考えもしないでね。まあしかし小学生って残酷よね。しかも加害者側は大人になったらキレイサッパリ忘れちまうんだから。
「♪よくある~話と~人は~言う~、事実と~違うと~笑わ~れる♪」(桑田佳祐・どん底のブルース)

1986年8月(11歳)
とにかく、「超」のつく厳しい塾でした。バスと電車を乗り継いで、週に5~6日通って宿題は山盛り、おまけに各科目毎週6ページ分の暗記テスト、90点以下はその点数に応じて最大十数発竹刀でお尻を思い切りひっぱたかれるその名も「処刑台」の憂き目に。まあとにかくよくぶん殴られました。そしてこの夏、合宿でもしこたま。ふすまの開け閉めで女の子とふざけあってたのが、果たしてふすまを外してしまい、怒髪天を衝いたオオクマ先生(それまで何かとかばってくれてた先生)に拉致られ、何しに来たんだおめえは、とカラダが一回転するほどの張り手をめいっぱい頂戴しました。アレはコワかったなあ。あれ以上の恐怖を俺はいまだ知らないよ。絶対ここから生きて帰れないと思ったもん。ちなみにその女の子は大阪でお医者さんになり、Rebirthの大阪ライブも見に来てくれたことがあります。大人になってもすんごく感じのイイ人です。この秋、ご結婚されました、おめでと!

1987年2月(11歳)
麻布中学、合格。信じられなかったねえ。世界のすべてが一瞬にして黄金に塗り替えられた感じ。合格発表の日は既に帰阪して、塾で自習してたんだけど、いきなりオオクマ先生に別教室に呼び出されて「処刑台だ!」とか言われて、立たされた。訳もわからず怯える俺の少し手前で振りかざした竹刀がぴたっと止まって、さくっと言われたんだっけ。
「おまえ、うかっとったぞ、よかったな!」
粋なことするよねえ。おかげで忘れられないじゃないか。

1987年4月(12歳)
東京に転居。私立麻布中学校入学。見るモノすべてが新鮮で、輝いてて、楽しくて仕方なかった。そんな日々が6年間も約束されたなんて、信じられなかった。とかく管理ありきの体制に反抗する、納得しなければ決して従わない、そういった今まで否定・批判されてきた僕の在り方が、すべて個性という形で認められ、肯定と評価に変わったのだから幸せなことこの上ない。友達集めて夏休みに旅行に行ったり、ゲリラ新聞作ったり、最初から色んなことやったなあ。部活は下手の横好きながら念願の野球部に。しかし、よくあることで1年生は連日大声出させられるのと走らされてばっかり。さっそく気持ちが折れて、秋には「僕は野球がやりたくて入ったんだ、別に毎日走りたいわけじゃない!」なーんてでっかく書いた退部届突きつけて辞めた。こういうとこ、不変ね。エラく筋の通った根性なしというかさ。

1988年10月(13歳)
運動会で応援団やったことがきっかけで、空手道部の植木先輩に誘われ、入部。高校生の先輩はワルいし面白いし何かと格好良く見え、憧れたもんだった。窓も割れ、壁は落書き、床も抜けてるというスラム街の一角のような「生徒会館」の部室が健在で、入り浸ってたなあ。他にはスキー部にも入ったんだけど、季節が悪くて夏の基礎トレが嫌ですぐ辞めちゃった。器械体操部でバク転教わったり、写真部で写真一枚も撮らずに部室でファミコンばっかやってたり、音楽部入ってすぐ先輩に楯突いて辞めたり、なにやら色々やってたなあ。友達集めて企画旅行てのも休みの定番行事で、自分で時刻表とにらめっこして企画書書いて、大阪行ったり長崎行ったりスキー行ったりしてた。毎日どうやって人をびっくりさせるか、楽しいことやるかに全力を注いでいたため、勉強はまっっったくしなかった。事実、英語で「2点」をとるなど大ブレイク。しかも単語の問題の「festival」だけが正解だった。おまえらしいよと方々で言われまくった。担当教師と激しい闘争の末、書道で8点なんてのもあったな。字書けねえヤツみたいじゃねえか。

1989年4月(14歳)
生徒自治活動の盛んなこの学校で、予算委員会の副議長なんてのをやってた。まあ、肩書きだけ立派でたいした仕事しないんだけど。肩書きが好きだったんだね。そして数学ではついに中間・期末と連続で0点獲得。なのになぜかその平均値であるはずの学期成績には5点がついていた。何故だ。俺の習った数学では(0+0)÷2=0なのだが。先生曰く「0点じゃカッコつかないだろ、とっとけ!」。英語も2つあって両方赤点。化学・生物真っ赤っか。好きなことはやる、嫌いなことはやらない、我ながら徹底してるなあと思う。この年の現国や公民は90点以上をマークしているのだから。

1990年3月(15歳)
試験終了後、試験休みに友人5人を誘って野沢温泉にスキー。ところが東京からの1本の電話が事態を暗転させる。
英語のW先生「あのね、英語の点数足りないから、高校に上がりたかったら明日帰ってきて追試受けなさいね」
爆死。友人たちに謝り倒して帰京。しかもみんなつきあって一緒に帰ってきてくれたのだから泣ける友人たちだよね。

1990年8月(15歳)
空手道部第19代主将に就任。部活特有の精神論を嫌い、体育会系にありがちな理不尽な上下関係も廃した珍しいタイプの主将として誕生。実力の方は僕は全然強くなかったけどね。不祥事なんかもあって顧問が不在となり、低迷していた空手部だったが、先代から組織として少しずつ体裁を整え、僕の代になって部員が20名を超えた。とても仲がよかったし、楽しい部にはできたと思う。後輩たちもいまだに慕ってくれるしね。

1990年10月(15歳)
第43回文化祭実行委員会委員長に当選。麻布最大の伝統行事、「文化祭」の委員長は生徒会の存在しない同校にあって最高のステイタスであったが、いま思えばそれに酔いしれた未熟さ否めず。調子に乗って少なからぬ批判層も生んだ。毎年文化祭実行委員会のこの部門はサッカー部、この部門は水泳部、などの暗黙の世襲制、言ってみれば既得権益層との摩擦が背景にあった。それらの寡占状態を打破し、文化祭をオープンなものにするというのが僕の公約であり、人事決定過程の公開、目安箱の設置などいくつかの改革を行うも、組織内部の亀裂が最後までネックとなり、一部で公金横領問題が発覚するなどスパイシーな事態にまで発展。幸いにして批判数以上の支持を得たため、文化祭そのものは成功に終わったが、ここに端を発する学年内の対立は卒業まで色濃く残り、多彩な才能を多く抱えたこの学年の大きな欠点となった。だから僕、小泉首相の気持ち、ちょっと解るんだよね。

1991年2月(16歳)
初めてバンドを結成。文化祭でのステージを目指した。時まさにバンドブーム、X、聖飢魔II、BOOWY、ZIGGY、爆風スランプなどなどのコピー。今ビデオで観るともうほんとに顔から火が出る。

1991年5月(16歳)
文化祭。文化祭委員長は開会式で公開断髪式を行うしきたりがあり、生まれて初めての丸坊主。終了後はこれまた毎年恒例のスタッフみんなでプールに突入。ずぶぬれで労をねぎらい合った。そのうちにみんな泣けてきて、忘れられない思い出の1ページに。俺もなんだか泣けたなあ。あんなに泣いたことって後にも先にもないんじゃないだろうか。渋谷の宮下公園で胴上げして貰ったっけ。あれも忘れられないなあ。その後は打ち上げしてみんな泥酔して、吐くわ叫ぶわハチ公にとんでもないことするわ、あれは忘れたいなあ(笑)。
またこの月、ソ連(当時)大使館の一等書記官シェフチューク氏が来校講演。当時のソ連というのはペレストロイカ路線になったとはいえ、まだまだ得体の知れない恐ろしい国で、関係者はピリピリムードであった。ふらりと見に行った僕だったが、講演後の質疑で、せっかく来てくれたゲストに、オタクっぽい一部生徒が言葉尻を捉え、あまりにも独善的で退屈な議論を展開するのでプツン。部室に戻って空手着に着替え、会場に乱入。なんてことすんだ、という周囲のあきれ顔の中、「これが日本人の正装だ」「ロシア人は暗い」「世界を制するのは武力じゃない、エンタテイメントだ」「アメリカを見ろ、軍事力以上にハリウッド映画や音楽が世界を席巻しているだろう」「ロシアも明るくなれ」「世界にコサックを広めるんだ」とコサックダンスしながら身勝手な持論を展開。しかしこれが本人には大ウケしたらしく、「あなたの言っていることは至極もっともだ。あなたはきっと将来立派な『指導者』になるでしょう」と非常に共産圏らしい、それでいて最大級の賛辞を戴いたのだった。あれは嬉しかったなあ。心が通じた気がして。シェフチュークさん、今も元気かなあ。

1991年10月(16歳)
運動会で5組応援団長に。ほんとに何でもやるなあ。周囲がパフォーマンスに傾斜していく中、意外にも旧来のスタイルにこだわり、学ランに白いハチマキで三三七拍子。これはこれで楽しいモンなのよね。応援の甲斐なく優勝は叶わなかったが、最後のリレーも走るなどオイシイトコ総取りの1日。しかしどんなに目立とうとも女子はいない。
この頃、大学には行かない、バンドやりたい、と言いだした僕だったが、珍しく親父が直電話。「何やってもイイが、売れないヤツがほとんどなんだから、売れなかったときのことも考えて行動しろ。でなければ夢じゃなくて妄想だ。大学にはプロ顔負けのバンドがたくさんあるから、まずは大学でサークルに入ってそこでナンバーワンになってみろ。それもできないならあきらめるしかないし、他の道も繋がるだろ」との言葉に見事に説得されてしまう。この経験があるから、いまでも夢があるから進学しないと言い出す生徒にはその気持ちを汲みながら話ができるようになったんだろうなと思う。

1992年2月(17歳)
学校の音楽の成績は悪かったというミュージシャンは多いが、僕は当時ハマっていたYAMAHAのエレクトーンを学校までクルマで持ち込み、音楽の自由実技テストで100点取った。そらそこまですればなあ。ちなみにこのとき、ちょうど好きな時代を扱った世界史のテストでも100点を取り、成績低迷の象徴的存在である僕の突然の快挙に驚いた担任の加藤先生は、採点直後にわざわざ僕の自宅に電話して速報して下さった。そんなことってある?イイ先生だよね。

1992年5月(17歳)
1年3ヶ月続けたバンド、高校最後の文化祭で解散ライブ。最後に「東大で再結成」をブチ上げ、ハッタリとは知る由もない無邪気な観衆から「さすが麻布ね~」みたいな満場の喝采を浴びる。どうしよう。センターの科目足りねえっつうの。でもこのバンドからホントに東大入っちゃったのが2名。ナイスだ。で、そろそろ真面目に受験勉強するかと思いきや、浪人の代名詞「卒業アルバム委員」になっちゃう。しかもまた委員長とか引き受けちゃう。3浪はカタいなと噂される。

1993年3月(18歳)
やっぱり浪人。現在完了とか関係代名詞とか、なんのことだかさっぱりというような状況にありながら、とりあえず早慶4つしか受けず全滅。あまりに無謀。だって現在完了のHAVEとかぜんぶ「持つ」って訳してたくらいだもんなあ。古文も真っ白。なんで塾で先生やろうと思い立ったんだろう(笑)。就職直後はすっごい勉強したっけ。受験の結果をみんなで報告し合う卒業式では、あれだけ徹底的に勉強せず、やりたいことだけやり放題の6年間を送った僕は当然、注目の的。しかし誰に訊かれても「卒業式で発表するから」の一点張り。「ひょっとして受かったのか?」との不安とも疑念ともつかぬ周囲の疑念の中、始まった卒業式。壇上に登った僕の出で立ちは、上半身空手着に下半身は剣道の袴。日の丸のハチマキを締めて、腰にはおもちゃの刀にアルミホイルを巻き付けた二本差し。名前を呼ばれて卒業証書を受け取るや校長に斬りかかり、マイクを奪い取って一言。
「拙者、浪人でござる」
会場が揺れた。高校生活ラストを飾る空前のバカウケ。身を削ったギャグというのはいつやってもウケがいい。

1993年8月(18歳)
無料特待の早稲田予備校に通い出すも、続かず。友人の多くいた駿台にモグリ、浪人生活。正午過ぎに起きてお茶の水に行き、屋上でダベリ、日が暮れたら自習室で賭けトランプ、その後は雀荘かゲーセンというすさまじい夏。これで今、「夏を制するものは受験を制す」なんて言っちゃう図々しい僕に乾杯。この頃、学校の枠を超えて多くの友達ができたが、女友達ができたのも初めてのことで、ずいぶんとぎこちない接し方をしていたような気がするなあ。男子校の悲哀だよね。1年でだいぶ慣れたけど。この頃の友達は今でも付き合いがあり、Rebirthのワンマンとかもよく見に来てくれた。

1993年9月(18歳)
そろそろマジメにやらなきゃマズイ…と勉強開始。得意な社会を活かすべく、マニアックな出題しかない日本史をあきらめ、政治経済へ変更。英語は駿台で出会った薬袋先生の五文型を強く意識した精読技法「Frame of Reference」に感動、開眼。それまでまったくわからなかった英語が目から鱗が落ちたようにすらすらと理解できるようになった。いまでも生徒に英語を教えるときには、この影響を強く受けた解説をしているかな。駿台で、お茶の水のファーストフードで、ようやく勉強らしい勉強をし始めた。

1994年2月(19歳)
早稲田ばっかり受けまくって、社会科学部ほか二つに合格。「何だか受かる気がするんだよなー」なんて言いながら合格発表見に行ったら、本当に番号が載っててびっくりした。

1994年4月
早稲田大学社会科学部入学。朝起きなくてイイ、必修体育がない、第2外国語がない、ゼミがない、卒業論文がない、という環境は、バンドやりたくて大学に入ろうとしていた僕にとっては理想だった。奇しくも親父とまったく同じ進路だったことを入学後知る。親父は放送研究会で当時のアマチュアバンドの全国ツアーの司会者なんかをやっていたらしい。道理で(笑)。色々サークルを覗いて周り、最初に入った「ロッククライミング」という軽音サークルでRebirth初代ギタリスト・タカシと出会う。さらにそこにいたタツヤという友人の紹介で、世紀末や爆風スランプを輩出したことで有名な名門サークルWFS(ワセダフォークソング)に入会。ここが居場所になる。その他、編集出版サークル「MILESTONE」にも入会。
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9 Comments

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ふぉーっ! (たっきゅん)
2005-12-22 00:21:24
青春だねぇ。

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ぬゃー! (とらふぐ。)
2005-12-22 12:05:32
・・・尊敬します。心から。
返信する
ぬゃー! (とらふぐ。)
2005-12-22 12:05:35
・・・尊敬します。心から。
返信する
 (とらふぐ。)
2005-12-22 12:06:07
ミスったぁー!!orz
返信する
ああ面白い (RUMMY)
2005-12-24 05:28:55
何か笑えた。ここまで自分主義を貫けるってすごいな。羨ましいな。それにしても、私前々からRebirthのメンバーの人生史には関心があったので、読んでとても良かった?
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Unknown (ゆり)
2005-12-24 09:01:05
息吹さんと小豆ちゃんのツーショット。

まるで親子(恋人?)の様で微笑ましいですねv

私も負けじとひなとラブラブしようっと(笑)

あ、そうだ。報告が・・・

私、今結婚を前提にお付き合いしている方が居てまだいつとか決まってませんが、早くて来年?出来たらと言う感じです{/hearts_pink/

まさか、自分にこんな話が舞い込んでくるとは思ってなかったので驚いてます。花嫁修行しなきゃって感じです(笑)



返信する
なるほどね! (ポンセ)
2005-12-24 15:34:24
「息吹ここに有り!」みたいな感じだ!

その激闘の中に息吹さんに出会っていたら?…何だか面白い事出来たかな?(照笑)

例えば?生中継ジャック(笑っていい○○スタジオアルタ前で?エンディングパフォーマンスとか?ズームイン○とか…放送事故には成らなかったけど…笑)

身を削った瞬間芸(技)は最高の緊張感と達成感が有りますよね?!

僕は卒業式に!後輩に向けて「キャンディシャワーとクラッカー」で体育館を去りました。



では、この辺で去らせて戴きます。
返信する
す・て・き・・・ (えろもと)
2005-12-27 12:05:11
シェフチュ-ク氏事件の件は、大ウケなんですけど・・・旦那も爆笑してました

てか、旦那から質問!

その時彼のSPはいなかったのか・・・?



私もそこんところ気になります



それにしても、思ってた以上にすごい人だったんすね、あなた様は・・・
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2児の母になっちゃった。 (サハラ@沼津)
2005-12-27 18:04:58
久しぶりだね、息吹ちゃん。

懐かしいね~、93年から94年頭。

女子高の私とずいぶん仲良くしてくれたよね。ぎこちなくなんかなかったと思うけど…

それって私が女扱いされてなかったってことね?!



某大学と今は無きダ○キン、思い出深いわ。
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