ふとしたことからヨドバシカメラの2万円商品券をゲットしたので、
すごく久しぶりに「あきばはら」へ行った。
例の事件(があったからというわけじゃないが)
のあとは行ってなかったから、どれくらいぶりだろう。
僕は彼の地の文化に詳しくないので、あまり知ったかもできないのだが、
何て言うんでしょう、一時期の妙な、ムヤミヤタラな盛り上がりはなく、
元のそんなに誇らしげにするでもない「あきらばは」に戻った感じ。
普通の街に収まったというか。
とはいえ、やはり独特の住人の皆さんがたくさんいて、
僕はヨドバシでデジタルビデオを一通り眺めて、
そのあと定番の「じゃんがら」へ行っただけだが、
そのわずかな行程の間にも、
通り過ぎる人、すれ違う人、たいへん個性的。
いや、没個性的な個性かもしれないのだけど。
その辺の論議は置いといて。
趣味が合うかどうかはさておき、我が道を大切にされているのは伝わる。
このところ、世界的な文化レベルの評価も得られたりして、
アニメ・ゲーム・コスプレ、そして彼ら、と、
だいぶ市民権を得た感もあるけれど、
しかしまだまだ日常世界では決して肯定的な評価ばかりでもないはずで、
彼らにとってここ「ばきあはら」は変わらず大事な居場所であるはず。
「聖地」なんて簡単に言うのはきっとシロウトのヤボなんだろね。
ではこれを何と言い換えたら適切なのだろうか?
僕は「部室」ではないかと考えた。
高校時代、大学時代。
雑多な価値観にもまれながら、やりたいことがあったりなかったり、
できそうでできなかったり、お金がなくてあきらめてたり、
でも頑張って夢に近づけちゃってる「理想的な」ヤツもいて、
彼らほどにパワーもエナジーもないままに、
夢と希望とねたみと反発とがこんがらがって、
自分をどう表現していいかもよくわからず、
焦りも苛立ちもあるけれど時間もたっぷりあって、
みんなで寄り集まって無為に時を過ごしていれば、
なんとなくその辺の不安が紛らわせる気がした、
あの不思議な空間。
何があるというわけでもなく、
誰がいるというわけでもなく、
でも何かがあって誰かがいて、
そこが一番自分らしくいられる場所。
大人になって、お金はできて、時間はなくて、
仕事の場はあって、家庭もあって、趣味らしきものもあって、
しかし気がつくと「部室」を失っている。
飲み会はある、コンパもある、打ち上げもある、
しかし「部室」がない。
物理的な場所じゃなくて、心の置き場がない。
そんな風に感じている人はいませんか。
現代社会は孤独が語られがちだ。
例えば広々としたネットカフェの空間に、
いくつもの細胞のようなブースがあって、
そこにいる人々は同じ時間と場所を共有しているにも拘わらず、
決してお互いに顔を合わせて語り合うことがない。
寂しくないはずはないけれど、関わり合うことがわずらわしくもある。
そうしてわざわざ、この手段でなければ出会えなかった遠方の知人と、
面倒くさくないデジタル化されたコミュニケーションを結ぶ。
寂しがりながら人間関係に渇く。
一見矛盾しているようで、実はある一点において理に適っている。
つまり、「自分に都合の良い部分だけを切り取ったコミュニケーション」だ。
一方通行の。
今は、そういう時代になっているんだろうと思う。
で、そういうところの住人として、
いわば「身勝手で他人との接触を面倒がる」代表格として、
「彼ら」が語られる機会も多いと思うのだが、
僕は実は違うんじゃないかと思い始めている。
「あきばらは」を歩く彼らは、基本的に独りでいることが少ない。
だいたい、グループ行動だ。
そして店ひとつ選ぶにも、様々な意見を戦わせる。
そうしてやっと入った店にあっても、
誰かの選んだメニューの一品一品にまで言及することすらある。
さらには趣味の話ともなると曖昧な妥協がない。
信念に基づいて、言うべきことは言い、聞くべきことは聞く。
彼らの人間関係にはごまかしがない。
一般の人間関係では面倒くさがられ、鬱陶しがられ、
あるいは敬遠される要素かも知れないものが、
彼らの世界、彼らの関係ではいまだに息づき、尊重されている。
うわべだけの、潤滑油のような言葉に乏しい反面、
そこにあるのは「ムキになれる」熱さだ。
これは、イマドキ珍しいのではないか。
思えば、かつての学生時代の濃厚な人間関係はそれに似たものがあった。
お互いに不器用で、妙な正義感が先走り、曖昧に流して済ませることを潔しとせず、
本気で怒り、本気で笑い、本気で泣き、本気で嫌い、
本気で祝い、本気で歓び、本気で怖がり、本気で闘った。
甘酸っぱく、しょっぱく、どうしようもなくこっ恥ずかしい、
アンバランスなやり方だったけど、絆は固く深かった。
あれを、彼らは持っているのだ。
もっとおしゃれに、うわべの付き合いを楽しんでいるオトナが多数だろう。
合コンで、出会い系で、職場の飲み会で、結婚式の二次会で、
心の絆が欲しい人と、体のハケ口が欲しい人と、お金と、
複雑に欲望が絡み合う中で、夢を見たり、幻滅したり。
そこには前述の泥臭さはなくて、
それが「オトナ」の「ゲーム」の「楽しみ方」なのかもしれなくて、
そんなドラマの見過ぎな価値観引きずって、
疲れている人も多いのではないでしょうか。
そんなオトナが求めてやまないもの、それは部室。
「らきあはば」は巨大な部室なのかもしれないのだ。
一見、会社でも遊びでもうまくやっているように見える人々が、
実はきわめて希薄な人間関係を泳ぐ孤独な回遊魚で、
一見、趣味に没頭して家族ともうまくいかず、
社会から疎外されているかのように見える人々が、
実は彼らだけの「部室」で濃厚な人間関係を築けていたりして。
非常に奇妙なことだと思う。
うまくまとめられないのだけど。
・・・あ、『あきはばら』だったっけ。
すごく久しぶりに「あきばはら」へ行った。
例の事件(があったからというわけじゃないが)
のあとは行ってなかったから、どれくらいぶりだろう。
僕は彼の地の文化に詳しくないので、あまり知ったかもできないのだが、
何て言うんでしょう、一時期の妙な、ムヤミヤタラな盛り上がりはなく、
元のそんなに誇らしげにするでもない「あきらばは」に戻った感じ。
普通の街に収まったというか。
とはいえ、やはり独特の住人の皆さんがたくさんいて、
僕はヨドバシでデジタルビデオを一通り眺めて、
そのあと定番の「じゃんがら」へ行っただけだが、
そのわずかな行程の間にも、
通り過ぎる人、すれ違う人、たいへん個性的。
いや、没個性的な個性かもしれないのだけど。
その辺の論議は置いといて。
趣味が合うかどうかはさておき、我が道を大切にされているのは伝わる。
このところ、世界的な文化レベルの評価も得られたりして、
アニメ・ゲーム・コスプレ、そして彼ら、と、
だいぶ市民権を得た感もあるけれど、
しかしまだまだ日常世界では決して肯定的な評価ばかりでもないはずで、
彼らにとってここ「ばきあはら」は変わらず大事な居場所であるはず。
「聖地」なんて簡単に言うのはきっとシロウトのヤボなんだろね。
ではこれを何と言い換えたら適切なのだろうか?
僕は「部室」ではないかと考えた。
高校時代、大学時代。
雑多な価値観にもまれながら、やりたいことがあったりなかったり、
できそうでできなかったり、お金がなくてあきらめてたり、
でも頑張って夢に近づけちゃってる「理想的な」ヤツもいて、
彼らほどにパワーもエナジーもないままに、
夢と希望とねたみと反発とがこんがらがって、
自分をどう表現していいかもよくわからず、
焦りも苛立ちもあるけれど時間もたっぷりあって、
みんなで寄り集まって無為に時を過ごしていれば、
なんとなくその辺の不安が紛らわせる気がした、
あの不思議な空間。
何があるというわけでもなく、
誰がいるというわけでもなく、
でも何かがあって誰かがいて、
そこが一番自分らしくいられる場所。
大人になって、お金はできて、時間はなくて、
仕事の場はあって、家庭もあって、趣味らしきものもあって、
しかし気がつくと「部室」を失っている。
飲み会はある、コンパもある、打ち上げもある、
しかし「部室」がない。
物理的な場所じゃなくて、心の置き場がない。
そんな風に感じている人はいませんか。
現代社会は孤独が語られがちだ。
例えば広々としたネットカフェの空間に、
いくつもの細胞のようなブースがあって、
そこにいる人々は同じ時間と場所を共有しているにも拘わらず、
決してお互いに顔を合わせて語り合うことがない。
寂しくないはずはないけれど、関わり合うことがわずらわしくもある。
そうしてわざわざ、この手段でなければ出会えなかった遠方の知人と、
面倒くさくないデジタル化されたコミュニケーションを結ぶ。
寂しがりながら人間関係に渇く。
一見矛盾しているようで、実はある一点において理に適っている。
つまり、「自分に都合の良い部分だけを切り取ったコミュニケーション」だ。
一方通行の。
今は、そういう時代になっているんだろうと思う。
で、そういうところの住人として、
いわば「身勝手で他人との接触を面倒がる」代表格として、
「彼ら」が語られる機会も多いと思うのだが、
僕は実は違うんじゃないかと思い始めている。
「あきばらは」を歩く彼らは、基本的に独りでいることが少ない。
だいたい、グループ行動だ。
そして店ひとつ選ぶにも、様々な意見を戦わせる。
そうしてやっと入った店にあっても、
誰かの選んだメニューの一品一品にまで言及することすらある。
さらには趣味の話ともなると曖昧な妥協がない。
信念に基づいて、言うべきことは言い、聞くべきことは聞く。
彼らの人間関係にはごまかしがない。
一般の人間関係では面倒くさがられ、鬱陶しがられ、
あるいは敬遠される要素かも知れないものが、
彼らの世界、彼らの関係ではいまだに息づき、尊重されている。
うわべだけの、潤滑油のような言葉に乏しい反面、
そこにあるのは「ムキになれる」熱さだ。
これは、イマドキ珍しいのではないか。
思えば、かつての学生時代の濃厚な人間関係はそれに似たものがあった。
お互いに不器用で、妙な正義感が先走り、曖昧に流して済ませることを潔しとせず、
本気で怒り、本気で笑い、本気で泣き、本気で嫌い、
本気で祝い、本気で歓び、本気で怖がり、本気で闘った。
甘酸っぱく、しょっぱく、どうしようもなくこっ恥ずかしい、
アンバランスなやり方だったけど、絆は固く深かった。
あれを、彼らは持っているのだ。
もっとおしゃれに、うわべの付き合いを楽しんでいるオトナが多数だろう。
合コンで、出会い系で、職場の飲み会で、結婚式の二次会で、
心の絆が欲しい人と、体のハケ口が欲しい人と、お金と、
複雑に欲望が絡み合う中で、夢を見たり、幻滅したり。
そこには前述の泥臭さはなくて、
それが「オトナ」の「ゲーム」の「楽しみ方」なのかもしれなくて、
そんなドラマの見過ぎな価値観引きずって、
疲れている人も多いのではないでしょうか。
そんなオトナが求めてやまないもの、それは部室。
「らきあはば」は巨大な部室なのかもしれないのだ。
一見、会社でも遊びでもうまくやっているように見える人々が、
実はきわめて希薄な人間関係を泳ぐ孤独な回遊魚で、
一見、趣味に没頭して家族ともうまくいかず、
社会から疎外されているかのように見える人々が、
実は彼らだけの「部室」で濃厚な人間関係を築けていたりして。
非常に奇妙なことだと思う。
うまくまとめられないのだけど。
・・・あ、『あきはばら』だったっけ。