いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

次に爆発するものは

2018-12-18 11:38:47 | せんせいとよばれて
僕は今でこそこんな仕事してるけど、
現役学生時代、中高大とロクに勉強らしい勉強はしないで来た人間なので
あまり偉そうなことは言えないのだが。

勉強と一言に言っても色々あって、好きな本を読むのも勉強だし、
映画や旅行、友達との議論やケンカ、趣味に没頭するところから恋愛に到るまで、
それこそ生きているとすべて勉強だと言えるかもしれない。

…んだけれども、退屈な勉強の代名詞とされがちな、
いわゆる「学校の勉強」「受験勉強」もそうバカにできたもんでもなくて、
自分の好きなものだけを選択して生きていたらおそらく出会わなかったであろう知識にアクセスすることができる。
もちろん面白いかどうか、また身につくかどうかは別だけど。

で、こういった「役に立たない」と思っていたような知識が、
思わぬところで自分を助けてくれたり、何かしらの気づきをくれたり、
人との話題を豊かにしてくれたりもする。
勉強はいつどこで役に立つのかわからないのだ。

「学校の勉強なんて意味がない、役に立たない」とは、
きまって学校の勉強をちゃんとやったことがない人が言う。
目先の利益や何らかの見返りのために「しか」勉強しなかったり、
あるいは役に立つこと「だけ」を選択して「効率的」に勉強しようなんて思い込んでいたりすると、
無意識のうちに自分の限界、壁を作ってしまう。
すると自分の見える範囲のごく狭い世界の中で何でもわかった気になってしまう。
だからさっきのような台詞を臆面もなく言えるようになるのだろう。

これはサボっていた僕、好きなことしか学ぼうとしなかった僕、
その後に苦労した(…といっても大したことないけど)僕、
かつて無駄に思えた勉強の価値を後になって思い知った僕だからこそ、実感をもって言えることだ。

いまもなお、我が身を省みて勉強不足は否めない。
専門指導科目でもまだまだだなあと思わぬ日はないし、
専門外となれば自分のあまりの無知に愕然とすることもある。
相変わらず知識や話題に対する好き嫌いも激しい。

だけど、少なくとも知らないことに対して謙虚であろうとは思うし、
またそれを知ることの出来る機会に対して貪欲であろうとは心がけている。
「先生」を演じる立場にあって、生徒にそういう姿を見せることは責務だろう。

自由や平和や民主主義の本当の価値から、
密室の中でスプレー缶に穴を開けてはいけないことまで、
学校での学びがなければ理解できないことばかりだ。
その意味で現政権のありようとか、札幌の爆発事件は実に示唆に富んでいる。
学校の勉強をおろそかにしてきた人たちが、どれほど無体な行いをするか、
もっともっとクローズアップされていい。

同時に、そんな貴重な学びを与える場なのだから、
全国の小中学校は単なる冴えない地方公務員の吹き溜まりのような現状を改めて、
もっともっと魅力的な場になって欲しいと切に思う。
というより、そろそろ本当にそうならなければマズイ。
内田樹の『日本辺境論』を引くまでもなく、日本は学びによって成り立ってきた国なのだから。

教育観的な何か

2018-12-14 23:13:56 | せんせいとよばれて
僕の仕事について僕がここで話すことは、
ある種の人々にとっては、
青臭い理想論であり、お人好しの性善説であり、
甘っちょろい言葉遊びにしか映らないだろうことは、
これでもわりと自覚している。
彼らが生きる世界では、僕なんかの居場所はないだろうし、
その点で彼らが僕を鼻で笑うことも理解できる。

でも、僕が仕事をする「子供の世界」には、
僕じゃないにしてもそういう存在が必要なんだよね。

たとえどんなにビジネス的な正攻法であっても、統計的な最善策であっても、
大人の感覚や論理・常識の一方的な押し付けになってしまっていたら、
子供には必ずしも最適解をもたらさないよ。

無駄が多くても、未熟であっても、甘えていても、ワガママであっても、
矛盾があっても、廻り道していても、中途半端であっても。
それが「子供」であり、すべては成長過程。

背丈に合わせて服を買うように、
段階に応じたアドバイスやその伝え方というものがある。
どうせ大きくなるんだからと、
子供にダブダブの服を押し付けようとは思わないな。

子供サイズの大人びたお洒落な服なら、たくさんプレゼントしたいと思うけどね。

会者定離

2018-12-13 11:13:03 | 超・いぶたろう日記
いったい何がどうしたのか分からないんだけれど、
昨日だけで1300PV近く。
こんな拙文の数々をお読み戴いてありがとうございます。
ビックリしたので10年以上愛用したブログデザインを変更。
いまバイク乗ってないしね(笑)。

さて、1ヶ月ぶりに書く話題がコレかよという本日のお題。
言い方が難しいんだけれど、どうにも不快に思えてしまう人間って、
自分と言語や知性のレベルが違い過ぎることが、大きな原因じゃなかろうか。
それは「上」であっても「下」であってもね。

これは単純に(学歴とか知能テスト的な意味で)アタマがイイからエライとか、
そうじゃないから無価値だとか、そんなことを言いたいのではなくて、
あくまでもコミュニケーションが正しく成立するかどうかという観点においての話。

ケーブルで脳を繋ぐわけにもいかない他人同士が意思疎通を図る場合、
もちろん表情やジェスチャー、声なんかも無視はできないけれど、
何よりも大きいのは言葉。
どれくらい思考を言語化できるかによって、
他人とわかり合える範囲がまったく変わってくるのは間違いない。

「言葉なんかなくてもわかり合える」のは幻想。
皆無だとは言わないけれど、それに依拠した関係は非常に危険。
無意識のウチに自分に都合の良い相手像を描き、
それが少しでも自分の期待と食い違うと、
裏切られたとか相手が変質したとか言い出してしまう。
と同時に、そういう自分自身の在り様も客観視できない。
あたりまえに思えることであっても、言語化は大事だし、
絶えず相手と意思の疎通を図る努力は必要だ。

たとえば恋愛初期なんかだと、言語よりも外見で惹かれてたりして、
すると身体的なコミュニケーションの強烈な刺激の前には、
相互理解のための言葉を要しないケースも多い。
だけどしばらく付き合ってみると、
いわゆる「感覚」や「考え方」が全然ちがった、
なんて理由で「醒めてくる」なんてこともありがち。

だから外見の美醜とか、性的な関心や欲望とか、
もちろん地位とか経済力とか、
そういうものを一切抜きにして人間関係を考えた場合、
やはり同じまたは近いレベルで物事を考えられ、
かつきちんと言語にできるというのはかなり大きいんじゃないかな。

「言語や思考が自分よりちょっと上」の相手は尊敬できるし、
「ちょっと下」の人はかわいらしく思えるんだろうね。
でもその差が大きいことが判るとかなり鬱陶しくなる。
親子とか、先生と生徒とか、師弟とか、
そういう役割とか関係性が大前提となっていれば別だけど。

先天的な部分も否定はできないけれど、
思考や言語の力というのは決して固定されたものでもなくて、
訓練や経験により成長も劣化もするもの。
だから昔の友達に残念な思いを抱いたり、以前の恋人に幻滅したり、
付き合っているウチにギクシャクしてきたりするのは、
この間の環境・刺激・熟慮・議論・咀嚼・反芻・反省の経験値に差があって、
お互いの思考のギャップが大きくなっているから、
というのが大きいんじゃないかと。

いつも同じことばかり言っている。
考え方に進歩がない。
聞く耳を持たない。
語彙が乏しい、表現が拙い。
そうしたら退屈な関係になってくるのはあたりまえ。
会話が成立しないというのは、もう関係を構築も修復もしようがない。

逆はどうだろう。
どんどん言うことが変わってゆく。
次々に新しいことを考える。
何でも相手の考えを聞きたがる。
語彙が豊か過ぎて時々何を言っているのかわからない。
表現が難解。
こういう人がいつでも最良のパートナーかと言えば決してそうは思えない。
だから結局、彼我のバランスが大事なんだろう。

思考や言語が貧しい人が、
豊かな人を小賢しく疎ましく感じるのと同じように、
思考や言語が豊かな人は、貧しい人に対して相当のストレスを感じる。
僕自身がどちらなのかは判らないが、
少なくとも現政権に対する苛立ちは相当なものがある(笑)。

来し方を振り返ると、あくまで主観に過ぎないけれど、
僕はこの人アタマいいなあ〜と思った人とはケンカしたことがない。
僕のケンカ・モメ事歴は相当なもんだが、
おそらく普通の人ならガマンする、あるいは見ないようにしている部分が、
僕には堪えられないというだけのことだったかもしれない。
ちょっとした言葉遣いや、乱暴で粗雑な思考にアレルギーが強い。
端から見れば単に面倒くさいヤツでしかないことも自覚しては居るけれど(笑)。

エラそうに聞こえたら申し訳ないけれど、僕は友達は選びに選んでここまで来た。
もちろん僕は僕の友人で居てくれる人々をみな尊敬しているけれど、
「『素晴らしい人間』ばかりを選抜した」なんて言うつもりは毛頭ない。
僕という癖の強い人間と相性が合うかどうか。
きちんと僕の言うことを受け止めて考えてくれるか。
きちんと言葉にしてくれるか。
対して僕はその人の言葉を正しく受け止められるか。
そしてせめて同じレベルで応答することができるか。
そういったお互いの「相性」を考えて、
合わなさそうな人とは積極的に関係を持たないようにしたというだけで、
まさか人間の価値なんて恐れ多いことに言及できるわけがない(笑)。

だから思うのは、友達が多ければエライというもんでもないし、
それは我慢が巧いというだけのことなのかもしれないね、ということ。
大人だなあとは思うけど、ストレスも多そうだ。
僕は友達は数よりも質。合わない人は気にしない。
出会いや別れは必然であって、誰のおかげでも誰のせいでもない。
愛別離苦。怨憎会苦。そして会者定離。

いまはすごい時代になっていて、
ずいぶんご無沙汰な人、以前道を違えた人、かつて袂を分かった人、
こういった人々の動静もSNSを通じて知ることができる。
すると「まーだこんなこと言ってんのかー」と思うことも多い。
それらを懐かしく思えればきっといまでも友達。
鬱陶しく感じるならば、もはや自分には過去の人。てか他人。
相手の見えなかった部分が見えるようになったのか、
実は昔から見えていたのに目をつむっていたのか、
お互いに進歩がないのか、はたまたお互いに成長した結果なのか。

いずれにせよ、一度友達になった、あるいは付き合ったからといって、
何があっても義理立てしなきゃいけないなんてのはおかしな話だし、
また実は自分に都合よく利益をもたらすことばかりを期待したに過ぎない
「人脈づくり」なんてのにあくせくするのもいかにもせせこましい。
大事なのは自然体で付き合える人間関係づくり。

そしてお互いの理解に必要なものは言葉の力。
言葉を捜すきっかけは思考への渇望。
そういったものに鈍感・怠慢な人は、周囲の人に対しても不誠実な気がするよ。