いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

ポーランド戦

2018-06-29 11:49:13 | 超・いぶたろう日記
ラスト10分を巡って、あちこち侃々諤々です。
僕はサッカーあんまり詳しくないし、普段海外も国内も全然見てないけど、
W杯になると素人目にも面白いので、毎日なんとなく見てる程度ですから、
力入れて語るほどのモチベーションもないんですが。
まあこういうこと(勝敗か爽快感か)が議論になる場面は、スポーツでも時々ありますわな。

ただ、日本代表に何を求めるかということの視座の違いで、
「正しい見方」を争ってもしょうがないかな、とは思います。

つまり、
「とにかく勝ち残って決勝トーナメントに進む、ひとつでも先へ行く」という
「結果」を最優先で求める人には、昨日のやり方は当たり前だし、
合理的な戦略ということにもなるのでしょうね。
「これがサッカーだ(ドヤ)」「これが世界のサッカーだ(ドヤ)」みたいのは、
正直うっとうしいと思いますが(だって世界から批判されてんじゃんw)。

一方で、「せっかくのW杯だし、最高の試合を観て感動したい」という人にとっては、
これはもう実に気持ちよくない。僕はこっちなんですけどね。
「日本代表として恥ずかしくない試合をして欲しい」というだけのことなのに、
「汚い勝ち方するくらいなら美しく散れ」だなんて特攻隊だの旧日本軍だの言う人もいます。
まあ…貧しい発想だなと。ステレオタイプもいいとこですね。
散れだなんて言ってまへんがな。
「国を代表してんだからカッコ良く勝ちにいかんかい」と言いたいだけ。

だいたい、小賢しい戦略でなりふり構わず勝つことが最優先だなんて、
みんな実社会で散々やらされてることなんですよね。
せめてスポーツの世界くらい、夢や浪漫を楽しみたいのに、これじゃあね。
そりゃイヤになる気持ちもわかります。

前者は父性的(打算的)で、後者は母性的(直情的)にも映るけれど、
お互いに「現実を観てないバカ」「理屈ばかりでキモイ」とやり合うのは、
まあいかにも不毛ですわね。

W杯を長年ずっと観てきた人と最近観始めた人、
あるいは目の肥えた熱心なサッカーファンと、いわゆるニワカ、
という分け方もできますね。
前者は明らかに内容以上に成績・結果を求めている人が多いでしょうし、
後者はスポーツとしての爽快感、わかりやすい魅力を求めている人が多いでしょうね。
僕はやはりこっちなんですが(笑)。

「そういう見方もあるのか」という発見と、
「たしかにカッコ良くはないね」という共感、
その交換というのが一番生産的な感じがします。

ただ、ひとつだけ言えることがあるとしたら、
僕自身は日本代表監督でも選手でもなくて本当に良かったなあということだけです

排水路の記憶

2018-06-28 12:00:00 | 超・いぶたろう日記
静岡で排水路に中学生が落っこちた事故のニュース。
頭を強打して亡くなったとのこと、たいへんお気の毒。

でも…僕も一歩間違ってたらこうなったかもしれないんだよなあ…と、思い出す20年前の夏。

大学時代、僕は100人規模のバンドサークルに所属していて、
1週間泊まり込みの合宿が年に2回あった。
越後湯沢のスタジオ付きホテルに1週間こもるのだ。
朝から晩まで、楽器をいじって、曲書いて、音出して、ふざけ合って、
合間にプールで泳いだりスキーしたり、最終日はライブと大宴会。
いま思うと本当に贅沢な時間だった。

ある年、僕はクルマでこの合宿に参加し、
何人かで連れ立って真夜中の河原に遊びに行ったことがあった。
街灯もほとんどない、山麓を走る川沿いの道路。
クルマを駐め、真っ暗な中を向こう見ずな僕は
一番乗りを果たそうと河原に向かって駆け下る。

その数秒後、ふと、足下の地面が消えた。
一緒に居た友人達によれば、僕は一瞬で姿を消したという。
果たして僕は幅2m・深さ1.5mほどの排水路に落っこちたのだった。
水はほとんど無く、下まで流されることはなかったが、コンクリートの段差に胸を強打し、
しばらく呼吸ができなくなった。これはひょっとしてマジで死ぬのかと思った。

ただ、幸いなことに落ちた場所がちょうど踊り場のようになっているところで、
しかも落ち方がとてもキレイだったらしく、まったくケガらしいケガもせずに済んだ。
しばらくすると呼吸も落ち着いた。
周りもビックリしていたが、割と平気そうな僕に呆れつつ、
あ〜怖かった〜なんて言いながら帰ったのだった。

翌朝、僕はどんなところに落ちたのか、明るい中で確認したくて再び現場に向かってみた。
ひと目見て、背筋が凍った。

まさに今回の中学生が落ちたのと同じような造り。
草むらに覆われた斜面が途中で消え、柵も何もなく、いきなり剥き出しのコンクリート。
よくこんなところに全速力で落ちて死ななかったなあ…という感じ。

見ると僕の駆け下りたルートはまた絶妙で、助かるとしたらここしかない!という場所に
まっすぐキレイに嵌まり込むように落っこちたのがわかった。
骨ひとつ折らずに生還した我が身の幸運に感謝せずにおれなかった。
考えられる限りの守護霊の皆さんに篤くお礼を申し上げた。

久々に思い出して、Googleでそれと思しき場所を検索してみる。
あまりくわしくは出なかったけど、たぶんここ。
あの時の恐怖が蘇る。

そんなわけで、今回の中学生が転落した原因はわからないけれど、
人ごととは思えないのだ。とにかくかわいそう。
僕のケースは軽率との誹りを免れ得ないけれども、ともかく運がよかった。
たぶん亡くなった彼との差はそこだけだ。
注意してても不注意でいても、生きるか死ぬか、運ひとつなんだろうか…とも思う。

その前もその後も色々と向こう見ずなマネをしてたっくさん怖い思いをしまして、
30歳過ぎたあたりからは安全第一です。
憎まれっ子、長生きするぞー。

頭がイイということ

2018-06-21 12:49:58 | 超・いぶたろう日記
知識だけの人は、ひけらかす。
頭のイイ人は、問いかける。

知識だけの人は、思い込む。
頭のイイ人は、確かめる。

知識だけの人は、貶して押しつける。
頭のイイ人は、褒めて引き出す。

知識だけの人は、自分の好きなように言う。
頭のイイ人は、相手に伝わるように言う。

知識だけの人は、上から喋り続ける。
頭のイイ人は、下から聴き続ける。

知識だけの人は、結果がすべて。
頭のイイ人は、過程に学ぶ。

知識だけの人は、手段にこだわる。
頭のイイ人は、目的を考える。

知識だけの人は、否定する。
頭のイイ人は、創造する。



「知識だけの人」は『ヤな先生』に、
「頭のイイ人」は『イイ先生』に、
それぞれ置き換えてもいいかもしんないね。

wish you were here

2018-06-13 03:56:07 | favorite songs
so, so you think you can tell
heaven from hell
blue skies from pain
can you tell a green field
from a cold steel rail?
a smile from a veil?
do you think you can tell?

and did they get you to trade
your heroes for ghosts?
hot ashes for trees?
hot air for a cool breeze?
cold comfort for change?
and did you exchange
a walk on part in the war for a lead role in a cage?

how I wish, how I wish you were here

we're just two lost souls swimming in a fish bowl
year after year
running over the same old ground
and what have we found?
the same old fears

wish you were here


(Pink Floyd:David Gilmour)

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そうか、君にはわかるっていうんだな
そこが天国か地獄かも
青空が隠し持つ痛みだって
緑の草原は冷たい鉄路とは違ってて
微笑んでいるのか仮面なのかも
君にはちゃんとわかってるんだって?

君は彼らの取引に乗せられたんだろ?
英雄たちは亡霊にされて
熱く燻った灰でいるより、生きた木々に戻りたくて
うだるような熱気より、涼しいそよ風が欲しくて
シラケた安らぎなんかより、変化に身を委ねたくて
みんな手放してしまったのかい?
一兵卒として闘い続けるよりも
檻の中の指導者でいたいのかい?

ああ、君がここにいてくれたなら

僕らお互い
行き場をなくした魂だね
ちっぽけな金魚鉢の中を
ぐるぐる泳ぎ回ってさ
何年も何年も
同じところを駆けずり回って
僕らいったい何を見つけたんだろう?
昔と何も変わらない
ただどうしようもなく怖いよ

君がここにいてくれたなら


(意訳:息)

分かれ道の向こう側

2018-06-11 01:58:33 | 特選いぶたろう日記
いつの間にやらすごい時代になっていて、
普段顔を合わせなくなった人でも、いまどこで誰が何をしているのか、
ネットだけで結構わかってしまうようになった。
顔を合わせなきゃいけないわけじゃないので、つながり方も色々で、
僕の場合はメッセージを交わすこともない程度の人とでも、
割と薄く幅広く受け容れている。
とりあえずなんとなくつながっているような人もいる。
現代の年賀状的なつながりというべきだろうか。

さて、なんとなくSNSのタイムラインを眺めていると、
そんなうっすらとしたつながりの人々の近況が眼に入る。
あれは面白いもので、投稿からはその人の頭の中がよくわかる。
何が好きで、嫌いで、何を考えていて、どんな語彙をもっているか。
語弊を恐れずに言えば思考レベルが丸わかりでもある。

そこに集うコメントをみると、
どういう人々と付き合っているのかもよくわかる。
例えば話題はアニメやゲーム、昔のマンガ、最近のテレビばかり、
そこにうすっぺらい言葉だけの共感コメントが並ぶ。
嬉しそうにそんな話題を交換しているところを見ると、
ああ、これくらいのマインドとか関係性が心地よい人だったのか、
と発見したり再認識したり。

かつて同じチームの中にいた人であれば尚更だ。
僕がかつてあれほどに熱弁を振るって伝えようとしたことも、
果たして消費税率ほども理解してもらえたかどうか。
僕とこれだけ頭の中身も友人関係も違えば、
そりゃあ同じチームで仲良くしてられるわけないよなぁ…と実感する。
お互い、無理してたんだなあ(笑)。

念のため断っておくけれど、どちらがレベルが高いとかアホだとか、
そういうところに言及するつもりはないんだよ。
ただ、僕が関心を持ち、
普段よく話題にするところとはまったく重ならないし、
彼らが嬉しそうに語る話題の面白さが僕には理解できないというだけで。
見るからに無難で、否定言辞がなく、
見た目の調和を偏重するやりとりにも、
僕の感覚では薄っぺらくて不安に映ってしまうけれど、
彼らはそれが心地いいんだろう。

当時から話題や意見、
興味関心のツボが噛み合わないなとは感じていたし、
「そんなのそれぞれが書いたコメントなんかを見てれば違いは明らかですよ、合うわけない」
と言ってくれた人もいた。
その時はさほど自覚してなかったというか、
自分がおかしいのかなとさえ思っていたが、
チームもなくなり10年以上も時が経ったいまや、
そりゃあ無理だよなあと思うことしきり。
僕がもっと大人であればよかった?
うーん、短期的にはしのげても、
あの密度で関係性を築かなければならないとなると、難しいなあ。
何より求心力たるお金を生んでなかったし(笑)。

チームがなくなって、業務の必要上から、
義務的に顔を合わせなければならない機会から解放されると、
そういうことがよくわかってくる。
それはもう見事に連絡もとらなくなるしね(笑)。
チーム維持のために、無理して合わない人とも付き合おうとすることが、
お互いどれほどのストレスであっただろうか。
多数派を形成できた方は敵意を共有して悪口で盛り上がれるからいいが、
孤立した側は自分の姿までもが歪んで見えて、疑わしく思えてきてしまう。

考えてみれば、
僕はこういう所属組織との不調和からくる衝突や孤立を、
少なくとも小学校・大学・音楽・前職と4度は繰り返している。
これだけ見るとまるで僕が社会不適合者のようだ(笑)。
でもその一方で、多様性を前提として個を尊重してくれた環境、
具体的に言えば中高時代の友人とは今でも親交がある。
つまり、誰しも環境さえ間違わなければ歪まずに済むのだ。

同調圧力の強い日本型の組織では、
異端を徹底的に否定し陰湿に排除する。
やられた側はあまりに周りが異口同音に自分の欠点をあげつらうので、
本当に自分がおかしいのかと思えてしまう。
絶望的な孤立の中では、せっかくの個性も殺されてしまう。
自分をいたずらに卑下・否定する前に、
とりあえず環境を思い切って変えてみること。
それこそは僕がお勧めしたい「生きるコツ」のようなもの。

僕にも経験があるが、
いまいる組織を離れたらどこにも行き場がなくなるんじゃないか、
という不安に囚われて動けないでいる人は多いだろう。
でも、それは錯覚だ。
「〜でなければいけない」「〜なんてできるわけない」は、
殆どが動かない自分を正当化する言い訳で、
恵まれない自分を慰める思い込み。
思い切って抜け出して棄ててみよう。
何を棄てたって、
時が経てば意外なくらいなんでも平気になるもんだ。

だいたい組織の中で嫌いにならないように
気を遣って無理に付き合ってた人って、
組織を出てみると大嫌いな人だったことに気付くよね。
そしてそれはたぶん、僕を追い出した人々も同じかもしれない。
合わない人とは付き合わないに限る。
百人の気を遣う知人より、一人の迷惑をかけ合える親友がいればいい。

僕のいた数々の組織についても、
いまさら誰が悪いなんて言うつもりもないけど、
相性というのは間違いなくあって、
僕はそれが合わないと我慢できないというだけ。
我慢するのが大人だみたいな価値観とは相容れない。
とにかく僕の場合で言えば、
自分に軸がなく周囲に合わせることだけを気にして頭を使いたがらない人や、
勝手な「常識」を振りかざす人、
なんでも馬鹿みたいにシンプルにすればいいと思っている乱暴な論法の人とは、
まったく合わない。
合わせようとも思わない。

僕の嫌いな三大因子、「思考停止・予定調和・同調圧力」。
そんな中でもしなやかに自分のやりたいことをできる人が、
大きなことを成し遂げられるのかも知れないけれど、
あいにく僕はその器じゃなかった。
窒息してしまいそうになる前に、抜け出すので精一杯だった。

ただ、例えばバンドを長続きさせるために、
あるいは安定的な収入を得るために、
そしてどこにおいても孤立しなくて済むために、
もっと自分が鈍感でものを考えない人間であったらなあなどとは、
夢にも思ったことはないし、微塵も感じたことはない。
僕にとって最優先すべきは、
サクセスよりもストレスフリーだ。
イヤだなと思ったことには黙ってないし、
ここはダメだなと思ったら、
後ろ指を指されながらでも抜け出した。
そうして環境を変えるたびに、
僕は確実に自由に、幸せになれた。
つまり僕は間違ってなかった。

そして、こういう風に肯定的に振り返れるのも、
少ないながらも理解してくれる人々がいてくれたおかげだと思う。
本当にワガママで尖って生意気な人間だったと思うけれど、
自分なりの誠意を携え、筋を通していれば、必ず認めてくれる人はいる。
お追従を言ったり、嘘をつかない分、信頼感は深いかもしれない。
僕はそういう人々を大切に生きてきた。
辛いとき、苦しいとき、孤立したときに、
そういった人々がどれほど自分の救いになってくれたか。
甘っちょろい慰めや安易な共感のフリじゃない。
自分の足りないところ、間違っているところは遠慮なく指摘もしてくれる。
おかげで修正もできる。
繰り返すけれど、百人の知人より一人の親友だ。
SNSは普段忙しくてなかなか会えない、
こういった貴重な知己達との絆を再確認させてくれる。
僕もまた、彼らに恥じない人間でありたいと思う。

…一方で、道を違えた人々の行く末を、成れの果てを、
可視化させてしまうのがSNSの怖いところでもある。
おかげで何年か経って冷静に振り返っても、
自分の感覚や選択は間違っていなかったと再確認できるのはいいが、
悪趣味な醍醐味と言うべきかもしれない。
我ながら低俗だなと思うけれど、
僕の主動力は反骨精神なのだからしょうがない。

ヘンコなもので2

2018-06-04 10:59:01 | 超・いぶたろう日記
半年ほど前の、とある人のとある物言いに、
ずっと何か喉に魚の小骨が引っかかったような違和感を覚えており、
そうか、こういうことだ、と思い当たる。

どうも僕は、ルーツとしては遠く小学校の昔にまで遡るんだけど、
「単なる個人の好き嫌いやこだわりに過ぎないこと」を、
「あたかも世間全体の総意・常識であるかのように」説き、
「実際の問題点よりもそれを説く自分の『良識的な姿』」が優越しちゃう、
または正しい自分にうっとりするあまり思考が停止しちゃう、
そんな人や組織が嫌いなんだなあ、と気づく。

たぶんその人は絶対的に正しいことを言っているつもり。
しかしその根拠は「私の周りではみんなそうしている」しかない。
つまり、ことの是非を論じることよりも、
これを僕に言うことで「多数派」である自分に
「少数派」の僕を屈服させることが目的化している。
だから単純な提言では済ませず、必要以上に理論武装して臨んでくる。

また大前提となる自分とその感覚を正当化するために、
わざわざ「自分の周囲では常識」とかいうものを持ち出してくる。
僕は別にその人のいわば「意識のお高い」グループに属しているわけでも、
また属したいわけでもないのだけれど。

だいたい、そういう人って
「私だけじゃなくてみんなそう思ってる」
「あなただけがおかしい」って、
まつろわぬ者を仲間はずれにしたがるよね。
いわゆるムラ社会。
自分の軸をもっておかしいことはおかしいと主張する人間よりも、
自分を殺して過剰に調和への忖度をはかる人間が評価される環境。
その一方で感覚を共有しない人間にはとことん冷淡。
良識を謳う割には、ひとつ掛け違うと排他的。
そして自分の気持ちより人の気持ちを考えろというその人が、
同じ口で僕への遠慮会釈は一切なく、冷たい言葉のナイフを突きつけてくる。
なぜなら僕は「非常識」な「罪人」だから(笑)。

思えば「まつろわぬ者」ばかりが集った中高6年間を除けば、
僕はずっとそういうムラからの爪弾きや孤立の歴史だ(笑)。
まあ、むしろいまでは誇りにさえ思うけどね。
いまなお、ムラには入らず自分の脚で立って生きていることにも、ね。
ムラでしか生きたことのない人には、わかるまい。
まあ交わらなければ済むことではあるのだけどね。