いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

都会のもやしっ子宣言

2013-02-24 01:32:53 | 超・いぶたろう日記
我が家に「洗浄便座」を設置して2ヶ月ほど。
快適この上ないのだけども、反面でこれなしではいられなくなる。
またしても文明に骨抜きにされてゆく自分に、一抹の不安。

いままで洗浄しないで居たこと、
紙でなぞってキレイになったつもりで居たことが信じられない。

来るべき大震災ののち、
僕は洗浄機能のないトイレに耐えられるのだろうか。
電動歯ブラシなしでも生きられるだろうか。
支援物資を口にしながら、
「マヨネーズないの?」とか言い出して顰蹙買ったりしないだろうか。
コンタクトもなくなるだろうし、
いまからレーシック受けといた方がいいだろうか。

知らね

2013-02-21 17:52:41 | 超・いぶたろう日記
昔は、それが何であれ知らないことは損だと思っていたし、
恥だと思っていたし、罪だとさえ思っていた。

知ることで自分を守ることもできるし、不正義を挫くこともできる、
だから僕は何でも知りたがり、それらについていちいち考えて、
自分の絶対的なスタンスを築こうともがき続けていたように思う。

二十代まではそんな感じだったかな。

「理屈じゃない」なんてのは、
考えようとしない人間の言い訳だと思っていた。
スタンスの定まらない根無し草のような人間の、
その場しのぎだと決めつけてもいた。

いわゆるアタマでっかちですね(^^)

いまはといえば。

いろんなことがあって、
僕は知らなくて良かったことまで知ってしまうことの怖さを学んだ。
知ることに疲れた、と置き換えてもいいかもしれない。
知りたくなかったことまで知ってしまうと、
考えずにはいられなくなる。
そのことが自分の心や体を蝕んでいくことだってある。

そして僕は自分でかくありたいと願うほどに強くはない。
むしろ、ある意味極めて弱い。脆い。か細い。
考え始めてしまうと死にたくなるほど論理的に、
そして明晰にあらゆる形に繋がってしまう。
しかも呪わしいほどにバリエーション豊かに。
これは最大の取り柄であると同時に、
最大の急所でもあると自覚している。

であるなら、そもそも真相にこだわって、
開けてはいけない箱を開けてしまうこと、
これ自体を放棄した方がいい。
知らないことは存在しないのと同じだからだ。
自分だけが知らなくても、
自分だけが騙されていたとしても、
それに気づいてしまうことのダメージの深さを思えば、
知らないまま人生が過ぎ去って、
幸せな錯覚のもとに幕を閉じた方が余程いい。

そもそも、「本当のこと」なんて、あるのかどうかも疑わしい。
みんな、すべては
「…ということになっている」
「そういうことにしておきたい」
というだけのことなんだろうと思う。
不正義も不道徳も罪も罰も愛も夢も、
みんなドーナツの穴みたいなもんだ。
穴だと呼ぶその場所には、
ただ何もないだけなんだ。

根無し草で、いいと思う。
根なんかあったって、引っこ抜かれりゃおしまいだ。
どこまでも流されていって、
見えなくなるまで逃げていって、
疲れたら枯れてしまえばいい。
大地に根を張って、太陽に向き合って、風雨に耐え、
それでもメゲずに生きていくなんて、
僕以外の誰かが頑張ればいいことだ。

わかってもらおうだなんて、とうの昔に諦めた。
敵も味方もなくていい。
ただ死ぬまでの間なるべく心地よく生きていく。
それだけ、がんばる。

あらふぉー

2013-02-06 11:11:11 | 超・いぶたろう日記
当たり前にあったものを失うことの辛さ。

当たり前に在り続けるものへの疑念。

決めつけていたものが解けてゆく覚醒感。


まさかと思う切なさ。

まさかと思う興奮。

取り戻してゆく充足感。


誰が何と言おうと。

解ってもらえようとなかろうと。

闘い続ける意気と覚悟と誇り。


ぬくぬくとした倦怠と屈託を抜け出して、

行く手に何も見えない不安と向き合い、

でも期待だけはある。


そんな心境で38さいスタート。

ドラえもんは生物か否か?

2013-02-04 02:26:44 | 超・いぶたろう日記
母校の入試での出題
(大問2ー問7)
FacebookではOBの間で百家争鳴、
2ちゃんなどでも興味本位で叩かれていて、
僕はとても面白いと思ったのだけども。

まあ少なくとも、この辺のシャレなのか本気なのか微妙な一線、
不愉快に思う人はこの学校には向いてないよ、
というメッセージが明確な点において、
非常に「らしく」て、いい入試問題だと思う。
後輩がFBでコメントしていたが、
大手塾の「対策」を鼻で笑ってる感じもらしくていい。

敢えてマジレスすれば
「病気で子供が産めなくなったら生物じゃないのか」
なんて批判は的外れもいいとこ。
科学的・学問的態度においては何でも「定義」は必要で、
その際に後天的な個体差はとりあえずおいて、
一般的に認められる「健常な」状態で括らないと、
例外を言い出したらキリがなくなる。

あなただったらドラえもんを「生物」として認めますか?
という問題ではない。
あくまで定義に則って判断できるかを問うているのだと思う。

ペットは家族と言えるかどうか、というのと似ている。
ペットはあくまでも動物で、人間とは区別されるべき。
だけどペットを家族のように大切にしている人の思いまでは入り込めない。

学問的態度と人間的心情とを、
どちらが大切とかいうことではなしに、ちゃんと区別して臨むこと。
ひょっとしたらいまの日本に最も求められている能力かも知れない。