いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

目が醒める

2011-10-17 16:26:03 | 超・いぶたろう日記
自分にとって、何が大切で何がそうでないか。
大切なのは、なぜか。
それを守るとはどういうことか。

苦しみ抜いた1週間だったけれど、目が醒めた。
何でも出来る、何でも許す、何でも信じる。
それは理想のようでいて、実は無関心でしかない。
相手のためのつもりで、自分のエゴだったり、虚栄だったり。
自分のためのつもりが、相手を救ったり苦しめたり。

たとえ今いる場所がどれほど優しく、温かくても、
闘わなくてよくなったわけではないのだろう。
手に入れるための闘いばかりではなく、守るための闘い。
その相手は、形こそ外にあるかもしれないが、
自分の奥底にあるものから生まれてくるのだ。

どれほど社会を憂いても、どれほど人を救っても、
自分ひとり幸せに出来ないのでは何も生まれまい。
自分が幸せになるためには、周りも幸せにしなくてはならない。
そのために、どう接するべきなのか。
いつまでも、どこまでも考え続けていくべきテーマだろう。

僕はやはり、「普通」ではなかった。
誰にも話さず、自分独りの思索の果てに、平凡な答はなかった。
僕自身、誇りの持てる結論だ。
誰に解ってもらう必要もない。
ただ、僕はこれでいいと思っている。
僕が僕らしく生きるために、これしかないと思っている。
これさえ乗り越えてしまえば、もう恐れるものなどない。

あとは、けじめ。
ごまかすつもりもぼやかすつもりもない。
僕は僕らしく、闘う。
そしてもう一生、闘うことを、やめない。

ご心配かけました

2011-10-13 22:30:10 | 超・いぶたろう日記
ここ数日、個人的に非常に辛いことがあって、
堪えきれずにここで思わせぶりにこぼしてしまいました。

それで心配した友人たちが有り難いことにメールを送ってくれて、
そこではたと気がついて、当該記事は消しました。
そうだ、ここは何でも書いていい場ではない。
背負うべきものは自分で背負わなければ。

食事は相変わらず摂れないままでいますが、
おかげで少し落ち着いてきました。
昨日は普通に寝られるようになったし。

もう少し時間がかかると思いますが、
本当に温かい友達のお陰で、自分を取り戻すことが出来そうです。

漫画の「カイジ」だったかな。
大変印象的な場面があります。
本質的に人生とは孤独で、みんなそれぞれのタイトロープを渡るようなもの。
家族も友人も、その姿は見えて、声を掛け合って励ますことはできたとしても、
自分のロープを離れてやって来ることは出来ない。
ロープから落ちる者を助けることは出来ない。

しかし、僕が思うに、声だけだっていいのです。
こんな辛い思いをしているのは、こんな厳しい条件でがんばっているのは、
自分だけではない、と思えるから。
駄目な自分、弱い自分、徹底的に絶望した自分、何もかも失った自分、
でもそれは自分のすべてではないと思わせてくれるのが、
家族や友人に他ならないからです。

本当に、ありがとう。

こういう気持ちか。

2011-10-10 16:34:25 | 超・いぶたろう日記
信じていた何もかもがウソだったとき、
ぼくはどうしていいかわからない。

支えだったすべてを失ったとき、
ぼくは生きていく術がわからない。

人は過ちを犯す。
人はウソをつく。
人は誰も自分のために生きている。

幻想を抱いて生きていたかった。
いつまでも、このまま、このまま。
だけどやっぱり現実は、底知れなく冷たかった。

そうか、こんな気持ちか。

雑感

2011-10-09 00:10:07 | 超・いぶたろう日記
「民主主義」や「言論の自由」は(日本にそんなものないけれど)、
遣う人が遣えばこれほど陳腐な言葉もない。
憲法なんか持ち出したところで、実社会と噛み合っていなければ机上の空論だ。
「家から駅まで何分かかるか」を考えるとき、
相対性理論を持ち出して厳密には質量が云々、
とやりだすことに何の意味もないのと同様に。

ともかく、情報だけは溢れかえり、たやすくアクセス出来る時代だ。
本質的な理解に乏しくとも、誰でも知ったかぶりくらいは出来る。
そして平等が社会の建前だから、発言権は等しく認められ、
失うものが何もない人ほど、何でも言える。

そんな中で自分の信じる「知的優位」を絶対視する人というのがどこにでも居て、
自分しか納得していない暴論を振りかざし、
異論反論はすべて否定し、相手の理解力のなさと置き換え、
あまつさえ知的に劣るとまで言い放つ。
そんなのは珍しい光景でもないけれど、
まあ、どこでもふつう相手にはしない。
すると誰にも相手にされないことで孤高を気取るしかなくなり、
誇大妄想をますます膨らませてゆく。
自分の信じるところの「論理」を武器とし、鎧とする。
誰もその本当の質を測ってはくれないから、決して磨かれることはない。
理解できない場合はその者に原因があるという都合のいい帰結は、
努力して他者を説得するということを前提としていない、
安易でお手軽で身勝手な論理しか生まない。
ネットにあふれかえる、それだ。

しかし、真の論理の場、
たえず磨き抜かれた戦場にあっては、
そんなメッキは簡単にはがれ落ちる。
野獣を前にしたぬいぐるみのように、
本当の知の巨人を前にしたときの偽物はみじめだ。
自分なりに研ぎ澄ませたつもりで居た牙が、
まるで歯が立たず、ぽろぽろとこぼれていく様は、
痛快を通り越して哀れですらある。
恵んで貰ったエサを大事に抱え、とぼとぼと洞穴へ引き返すしかなくなるだろう。

そんな人たちは、
きっと生まれ変わるまで、変われないのだろう。
同情の余地はないが、気の毒なまでの孤独だ。
つくづく、孤独は進歩を生まない。
退歩あるのみだ。

それにも気づけずに朽ちてゆく人生なんて、僕はまっぴらだ。
優秀な頭脳、完璧な論理、そんな自己満足なんかどうでもいい。
僕はただの屁理屈言いで、誰の上でも下でもないし、
そんなことにそもそも興味はない。
いつでもふざけながら、こいつバカだなくらいに思われながら、
家族や友達と仲良く生きていけた方が千兆倍くらいイイに決まってる。

あ、誰のことでもないよ。
僕は孤独でなくて幸せだな、というお話です。

ツイッター見てると

2011-10-08 10:05:25 | 超・いぶたろう日記
イヤになる。
まあ、もっとも自分がフォローしている人々が紡ぐTLなので、
それを改めればいい話なのだが。
何がイヤかって、放射能グチ。
しかもヒステリックなヤツ。
福島県ならまだわかるんだが、首都圏で騒ぐのはどうもなあ。

「どこそこ地区でこんなに検出!」ならまだしも、
「子どもが可哀想!」「子どもは私たちの未来の希望!」
「罪のない子どもを殺すな!」「私は親として守ってみせる!」

…って、言うだけ。
でもこれって、多分自己満足だよね。
行動って言ってもせいぜいこうやってツイートで愚痴るか、
どっかで聞きかじってきたソースの怪しい情報を元に国や自治体をこき下ろすか、
突然電話して返答に詰まったメーカーを情報公開しない悪の企業として喧伝するか、
マスクさせてない親、公園で遊ばせる親を、無知だ無神経だとバカにするか、
あとは給食拒否させて弁当持たせるか、野外の学校行事をボイコットさせるか、
くらいでしょ。

本気で子どもを守りたいなら、黙って引っ越せばいいんだよ。
除染なんて政治的にも技術的にも期待できっこないんだから。
放射性物質が実際にどれほど影響するかはこれから明らかになって行くこと。
怖いと思えば逃げればいいし、大丈夫だと思えば普通に暮らせばいい。
それは賭けみたいなものだ。
なぜ、みんな一緒である必要があるのか。
みんなにも同じようにして欲しいのは、
自分の選択や決定が間違っていないと思い込みたいからじゃないのか?
自分だけが馬鹿を見るという構図に堪えきれないからだろう?
子どものためとか親としてとか、そんな本能的な部分をわざわざ口に出すあたり、
どうもおためごかしな感じを禁じ得ない。
子どものためじゃなくて、自分のために喚いているんだろう。

マスクしようが、食事に気をつけようが、
東日本に住んでいる限り、原発由来の放射性物質から完全に逃れることは出来ない。
完全に逃れたいのなら、移住しかない。
でも、それはしないんでしょ。
仕事も辞められない、生活がある、お金がない…云々。
それは全部オトナの都合じゃないか。
本当に子どもを守ることが最優先事項なら、
借金してでも収入減ってでも、どうにか都合つければいいじゃないか。
それができない、いや、しようともせずにできないと思い込んでいるから、
何となく後ろめたくって、こうして騒ぐんでしょう。
「完全に」防げなくても、被曝量を「微量に」出来れば…
それは忌み嫌う政府の言い分とあまり変わらないよね。

だいたい、今の環境に留まりながら、
子どもの体験をセレクトするなんて、横暴だと思うがなあ。
大人にとっては些細なことでも、子どもにとっては大きなことだよ。
畑での芋掘りだって、運動会だって、遠足だって、給食だって。
大人はみんなやったことあるからいいよ。あれくらい…と思えるでしょう。
子どもにとっては一生のうち今しかできない貴重な体験だよ。
大人になってからやるのとでは根本的な意味が違う。
それを無思慮に取り上げていいのかな。
知識も判断力も未成熟な子どもたちに、
放射性物質の恐怖を必要以上に煽って、身の回りすべてに溢れかえっている、
だから学校もグラウンドもスーパーもレストランも「ばっちい」と教え込むのかな。
それってかなり危ないことじゃないか。
子どもはストレートだから、差別意識すら生まれると思うよ。
「○○ちゃん、放射能食べた~!うわ~、こっち来るな~」みたいな。
そんなのすぐやるよ。
ましてや大人が右往左往してたら、すぐだよ。

確かに慎重な行動が求められるのはわかる。
ただし、それは理性によるべきだ。
出来るだけ多方面から正確な情報を集める努力をして、
様々なリスクとメリットを勘案して、判断する。
大人の理性こそが子どもを救うんじゃないか。
このままじゃ、社会的・情操的な経験に乏しいまま、
何でもかんでもヒステリックに疑ってかかる、
頭でっかちで独善的な子どもがわんさか世に出てくるよ。
そういう大人たちを見て育つからね。

放射能対策は重要だけど、
たった一度しかない「いま」を生きている、
子どもからの視点というのも考える必要があるんじゃないか。
大人の独善でかき回してはいないか。
僕には、彼らが口で言うほどの「親子愛の美しさ」を感じられないんだよね。
そこには親としての醜いエゴしか、ない。
子どものためだと疑わず、そのために思考停止に陥っている。
つまりは自分のためだからだ。

「あんたは人の親になったことないから」
「親になってみればわかる」
「親というのは理屈じゃない」
そんな言い訳も多い。
親だから子どものことはすべてわかるというのは身勝手な妄想だ。
むしろ、そう思い込んでいる親の元に育つ子どもこそ不幸だ。
それは仕事柄、経験上よく知っている。
親が子に対して抱く感情というのも、かなりエゴイスティックなものを含んでいる。
それは自分の一部だという認識から抜けきれないからだ。
子どもにあれこれうるさく要求する親も多いが、
自分の出来なかったことを子どもに肩代わりさせようとして、
思うようにいかなかったり、
自分のイヤな部分まで見せつけられたりするから、腹が立つのだ。
子どもは子ども。似てはいても別人格なのだ。
そこを軽んじるから摩擦が生まれるのだ。
親子関係だって、客観的な視点は必要だ。
「親というのは感情だけじゃダメ」
というのが僕の反論だ。

「国や東電のプロパガンダにダマされて、みんな普通の暮らししちゃってる!」
なんてのもねー。
違うよ、みんなわかってる。
でも、普通に暮らしていくしかないからだよ。
小手先の対策でどうなるもんでもない。
いつの間にどこでどう体に影響するのか、すべては仮説に過ぎない。

食べ物選んだつもりになって、偽装にダマされるか、
給食ボイコットして先生とも友人とも険悪に(ならざるを得ないのが日本社会だからね)なるか、
とにかく外に出さないでヒキコモリを育てるか、
放射性物質に気を取られて、添加物その他の化学物質にやられるか、
まあどんな道を選んでも必ずそこにリスクはある。
いっそすべてを棄てて逃げ出すか、普通に暮らしていくか、
それより他にどうしようもないじゃないか。


思い込み

2011-10-07 00:29:20 | 超・いぶたろう日記
小沢一郎入院を嬉々として批判する人がいる。
どうも新聞・テレビのメジャーストリームメディア
(いや、もう旧メディアと呼んでいいと思うんだけど)
しか情報源のないおじさん世代、あるいは若年寄に多いようだ。

彼らは皆一様にこう言う。
腰痛ぐらいで救急車なんて政治家様はいいですねえと。
公判が始まってすぐ、のタイミングからして、政治家お得意の病院エスケープだろうと。
仮病のくせに「豪華な病室」で安穏としているのだろうと。

安直だなあと思う。
まんま、記者クラブの作り上げた小沢像を丸呑みしている。
そういう人に限って、小沢の何が問題になっているのかわかっていない。
とにかく「国民の血税」で「私腹を肥やした」と思っているのだろう。
自己証明の術を失い、何者にもなれず、
空っぽの俗物だったと認めざるを得ないショボイ自分を受け容れられず、
いい目を見ていると思しき「特権階級」をでっち上げ、叩くことでしか気分は晴れない。

新聞やテレビくらいで、わかった気になってはいけない。
小沢が何故これほど悪人扱いされるのか、マスコミは何故こぞって彼を叩くのか、
記者クラブによる新聞記事やテレビ番組の形成過程を知らずして、
とにかく悪い奴なんだと決めつけてしまうのはあまりにも蒙昧だ。

僕は別に擁護しようというつもりはないが、
いまはそんなことよりも優先すべきことが他にあるんじゃないかという気持ちの方が強い。
この非常時にあっては、どんなにクリーンでも能のない政治家なんてお呼びじゃない。
多少ダーティでもイイから、とにかく四方八方閉塞した今の日本をどうにかブレイクスルーして欲しい。
震災復興も、放射能汚染も、日本経済も。
小沢一郎ならどうにかできるなんて、呑気な期待をしているワケじゃないが、
建国以来の危機に、優先順位が違うんじゃないのかな。
真の意味で総力を結集しようという発想はないのかな。
どうも政治家も官僚も東電もマスコミも既得権益を守ることだけに必死だ。

そもそも何にも知らずに、新聞テレビも疑わずに、
先入観だけで「小沢は汚い」なんて安直に言う旧世代感覚の人は、
今の日本の危機的状況についても認識が乏しいんだろうな、と思う。

世界中で

2011-10-06 23:23:00 | 超・いぶたろう日記
その早すぎる死を惜しむ声が満ちあふれている。

彼の偉大な足跡は天才という言葉ではとても足りないし、
個性的な言動は異端という言葉にも収まらない。
何よりどんなライバルからも、
「寂しい」という言葉が聞かれるように、
その鮮烈なキャラクターは彼の残した多くの作品と同じく、
堪らない魅力でもあった。

彼の切り拓いた輝かしい地平を思うとき、
いまそこにいられることへの感謝の念は尽きない。
彼の作った素晴らしい作品がなければ、
僕もまたこうしてブログを書いていることもなかったろう。
大学時代、windowsPCにどうしてもなじめず、
ずっと避けていたコンピュータの世界。
「パソコンを覚える」なんてことを意識することなく、
ごく自然に、そしてあっという間に引き込まれた、
魔法のようなMachintoshの魅力に僕はいまのいまも虜のままだ。

遠い異国の名もないいちユーザーだけれど、
こうしてあなたに感謝の念を捧げている人は、
きっと僕以外にも世界中にたくさんいますよ。
あなたのおかげで僕らは未来に立てている。
それも、他の何よりもわくわくする、
ただそこにあるだけで楽しくなるようなツールと共に。

ありがとう、Steve Jobs。

外国人はそれをきっと、嘘つきと呼ぶ

2011-10-02 22:34:31 | 超・いぶたろう日記
どんなに小さな交差点にも信号があり、
どんなに夜遅い時間で、どんなに通りがなくとも、
粛々と交通整理をしている。
そしてどんなに小さな道路にも、ちゃんと路側帯(もしくは歩行者ライン)が
きちんと描かれている。

それは、「一見ムダなようだけれど、危険だから」。
これぞ日本、象徴的だなあ、と思う。
このきめ細やかさ、神経質なまでの徹底ぶり、そして過保護さ。

深夜なんて大通り以外は点滅にして、
各自が安全に気をつけて効率よく通ればいいのに、
そんなのハナから信じない。
何かあったら警察のせい、自治体のせい、国のせい。

せま~い道路に、ムリヤリ路側帯引いて、
せま~い歩行者ゾーンにどど~んと巨大な電柱がそびえ立っている。
実際、歩道として使い物にならない。
だから誰も通ってない。
より狭くなって危険を増した車道の角を歩く。
本末転倒甚だしいが、誰も疑問に思わない。

日本で最も大事なもの。
安全でも自覚でも効率でも、なおさら自立でもなく、

建前。
ただひたすらに、建前。

震災だろうが原発事故だろうが、同じこと。
何のフシギもないね。

イタイイッパイ

2011-10-01 22:37:15 | トラ、トラ、トラ。
「タイガース、反撃も一歩及ばず、敗れました!
実に痛い、痛すぎる一敗です!」

何を…今さら…

ここ一番での対ヤクルト3連戦3連敗を、
2度続けて犯した時点で、もうトラの今季は当に終わっているのだ。
無死満塁から犠牲フライひとつもうまくいかないで、勝つ気あるの??
巨人にも中日にも勝ちきれず、CSなんて夢見てはいけないのだ。
出たところで短期決戦、勝てないのもわかってんだから。

痛い一敗?
いやちがう、
「痛い」がすでに「一杯」だよ。

なさけねー。
夢も見られないチームになっちゃったなあ。
勝てないまでも、せめていいゲームしてくれよ。ハラハラ出来るような。
優勝逃してもさ、昔の近鉄みたいに、語り草になるようなさ、
意地を見せて欲しいんだよね。ドラマつくって欲しいんだよね。
なんか、淡々とやってる感じがするんだよ。

監督だけのせいには出来ないけど、
負け方見てると責任は免れ得ないよなー。
落合みたいに勝ちに徹するか、仰木みたいにドラマつくるか、
星野や岡田みたいにとにかく応援したくなる空気つくるか、
真弓さんには残念ながら、どういうチームにしたいのか、ビジョンが感じられないんだよ。
せめて打倒巨人くらいはこだわってくれよー。
それこそがアイデンティティなんだから。

つまんねーぞー!
何とかしてくれー。