いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

目のまわるよーな

2005-12-31 01:12:16 | せんせいとよばれて
冬期講座が終わり、今年一年の仕事納め。
今ようやく帰路につこうとするところ。
連日朝10時から夜9時まで、8コマの授業を抱え、
声は枯れ、目はかすみ、偏頭痛に悩み、ハードな8日間でした。
まあ、でも達成感あるね。
真剣勝負の受験生と向き合いながら過ごすこんな空間、
割とキライじゃないしね。
しかもウチの生徒たちのいいところは、過剰な神経質さがないところ。
真剣に受け止めつつも、とっても朗らかで、まっすぐ。
泣いたり笑ったり、かわいい奴らですよ、ほんと。
あいつらのためだと思えばこそ、多少カラダがしんどいくらいは耐えられるね。

とはいえ、疲れた。
正月は、はや2日から「正月特訓」だから束の間の休息だけど、
この2日間はゆっくり静養に充てたい。
まさか今日寝て、気づいたら2日の朝なんてこたないだろうな…(笑)。

今年はまあ、言うまでもなく激動の1年でした。
思うところも色々あるけれど、まあ、後悔はないからいいか。
俺は今も俺らしく、日々を楽しんで生きています。
来年はRebirthの喪も明けるし(笑)、
何かおもしろおかしくやっていこうとたくらんでおります。

ではみんな、良いお年を。
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やっぱりね♪

2005-12-25 00:15:40 | いぶたろう日記クラシック
…というニュースを昨日、聞いた。
武士の情けじゃ。それ以上は言うまい。

ただ、すべては俺の言ったとおり。
主体性のない人間は流れ流され、
周りも自分も見えていない人間は突っ走ってはぶち当たり、
どちらも為す術なく同じ所をぐるぐると回る。
いずれにしても自分の頭できちんとモノを考えない人間は、
目先のことにこだわって、その場しのぎに終始して、
結局は他人を裏切り自分をごまかす。
それだけのことだ。

俺の感想を一言で言うならば。

天網恢恢、疎而不レ失。

俺もまた、他山の石としたい。
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年末スペシャル:いぶたろう半生記

2005-12-21 04:17:41 | 特選いぶたろう日記
1975年2月6日
 狙いすましたように午前11時11分、大阪医科大学付属病院(大阪府高槻市)で、長男として生まれる。両親は共にアナウンサー。そら喋るわな。普通の赤ん坊は手を握って生まれてくるそうだが、僕は思いっきり「パー」だったそうな。

1979年4月(4歳)
 大阪府箕面市粟生幼稚園入園。法泉寺というお寺付属の、仏教幼稚園だった。月に一度本堂で「ののさま(観音様)のうた」を歌わされたような。いもほりだの工作展だの色々やる幼稚園だったなあ。年少さん時はたんぽぽ組だった。オバラ先生、だったかなあ?

1980年4月(5歳)
 年長さんになった。うさぎ組だったな。オダガキ先生、元気かなあ。この頃から体操教室に通ってた。マット、跳び箱、鉄棒、とひととおりやったことで、基本的な運動神経が身についた。逆上がりができなくて鬼のカヤマ先生にボロクソ絞られたっけ。おかげで出来るようになったんだけど。あとマツノ先生ね。今に到るまでカチカチのわたし、地獄の股割り柔軟体操はツラかったなあ。

1981年4月(6歳)
 大阪府箕面市立豊川北小学校入学。正直言ってここでの6年間はロクな思い出がない。公立小学校というシステムは僕にとっては窮屈な牢獄でしかなかったなあ。管理側の都合で設定された「秩序」を、快適な空間だと信じさせられている多くの人々との摩擦に苦しんだ。いまも似たような価値観の軋轢、あるかもなあ。「公立小学校」的なものって、結局、「組織の和」を最高の美徳とする聖徳太子以来の「日本式全体主義」と、平等意識に縛られた思考停止とに凝縮されるもんね。僕、個人主義だし。今ならそうやって割り切れるのだが、いまだ小学生の身の悲しさ、自らを先生と名乗る思い上がった地方公務員との無益な争いに日々を費やす。「生徒たちの民主的な決定」を装った「先生の独裁」に、しょっちゅう逆らっては吊し上げられてたっけ。

1983年8月(8歳)
この頃、好きだった女の子の家へ招待してもらって、ノコノコ遊びに行って、ほっぺにかわいいチューしてもらってアタマがぽん。当時の僕にとっては天地がひっくり返るような衝撃的な出来事でした。たとえ何歳であっても女の子ってすごい。もっとも、先方は覚えちゃいないだろうけど。長い三つ編みの、つり目の、細身の、もうホントにわかりやすい僕のストライク原点みたいな、かわいい女の子でした。最近、小3の生徒なんか見てると、俺、こんなちんちくりんな頃にこんなつんつるてんに!…としみじみ。

1984年2月(9歳)
この頃、カブスカウトを始めた。これはめちゃくちゃ楽しかった。今でもきっとテントたてたり飯ごう炊さんしたり、できるぞ。一緒に入隊したお向かいの家の昆虫博士タマキくん、元気でやってるかなあ。引っ越しの時に餞別の品くれたりして、いいヤツだった。

1984年4月(9歳)
親父に騙され、私立中学受験を志す。阪急石橋駅近くにあった「関西学研大川ゼミ」に通い始める。バスもしくは電車で1時間の長旅だった。特に勉強もしてなかったのに、一番上の特進クラスにすんなり入ってしまい、もうこれですっかりナメちゃったもんだから、勉強しない。宿題やらなくてよく怒られたなあ。当時は子供が多かったから塾も殿様商売で、今の子供とは比較にならんくらい扱い悪かったよ。国語のノザキ、あいつのホッペつねって吊るす刑はホントに痛かった。コクボの説教はしつこかった。でも、その後の2年に比べればぬるま湯。あれって、生後10年にも満たない頃の話だったんだなあ。

1985年5月(10歳)
意味のないルールの強制、先生たちのその場の気分によって変わる身勝手な叱責、盲従するクラスの空気との軋轢、異端者を責め立てる人々との低レベルな争い、分かり切ったことを全員出来るまで繰り返す授業。もう本気で小学校がイヤになり、登校拒否に。そんな折、東京に校則のない自由な学校があると聞き、いよいよ本格的な中学受験を決心。その学校に入るのがどれだけ大変か知りもせずに。もちろんこの後、身をもって思い知る。大阪府内で1.2を争う超スパルタ塾へ転塾。ものすごい進学率だったが、ものすごい世界観だった。汗と涙と竹刀と鉄拳。今考えても人生で最もハードな2年間に突入。忘れられないね、ありゃ。

1985年9月(10歳)
阪神タイガース優勝。箕面駅前のドムドムバーガーから流れてくるラジオで聴いた。知らないおっちゃんたちと一緒に騒いで喜んでた。その後18年もおあずけを食らうとも知らずに。

1986年5月(11歳)
忘れもしない、タバコ事件。星空観察会で子供だけで公園に集まった折、誰かが持ってきたタバコ。数人が口をつけてみたのをきっかけに、クラスの大半の男子が見よう見まねで背伸びしてトライ。みんなゲホゲホ。しかしその後、心ないのかあるのか女子の密告で明るみに。そして気が付けばいつのまにか僕がみんなに強要していたことになっていた。宿題もやらない、先生の言うこともきかない俺のせいにしておけばみんな納得するだろうと、口裏合わせた模様。しかもそれに先生もまんまと乗っちゃうんだから情けない。この一件で僕がどれだけ傷ついたか、考えもしないでね。まあしかし小学生って残酷よね。しかも加害者側は大人になったらキレイサッパリ忘れちまうんだから。
「♪よくある~話と~人は~言う~、事実と~違うと~笑わ~れる♪」(桑田佳祐・どん底のブルース)

1986年8月(11歳)
とにかく、「超」のつく厳しい塾でした。バスと電車を乗り継いで、週に5~6日通って宿題は山盛り、おまけに各科目毎週6ページ分の暗記テスト、90点以下はその点数に応じて最大十数発竹刀でお尻を思い切りひっぱたかれるその名も「処刑台」の憂き目に。まあとにかくよくぶん殴られました。そしてこの夏、合宿でもしこたま。ふすまの開け閉めで女の子とふざけあってたのが、果たしてふすまを外してしまい、怒髪天を衝いたオオクマ先生(それまで何かとかばってくれてた先生)に拉致られ、何しに来たんだおめえは、とカラダが一回転するほどの張り手をめいっぱい頂戴しました。アレはコワかったなあ。あれ以上の恐怖を俺はいまだ知らないよ。絶対ここから生きて帰れないと思ったもん。ちなみにその女の子は大阪でお医者さんになり、Rebirthの大阪ライブも見に来てくれたことがあります。大人になってもすんごく感じのイイ人です。この秋、ご結婚されました、おめでと!

1987年2月(11歳)
麻布中学、合格。信じられなかったねえ。世界のすべてが一瞬にして黄金に塗り替えられた感じ。合格発表の日は既に帰阪して、塾で自習してたんだけど、いきなりオオクマ先生に別教室に呼び出されて「処刑台だ!」とか言われて、立たされた。訳もわからず怯える俺の少し手前で振りかざした竹刀がぴたっと止まって、さくっと言われたんだっけ。
「おまえ、うかっとったぞ、よかったな!」
粋なことするよねえ。おかげで忘れられないじゃないか。

1987年4月(12歳)
東京に転居。私立麻布中学校入学。見るモノすべてが新鮮で、輝いてて、楽しくて仕方なかった。そんな日々が6年間も約束されたなんて、信じられなかった。とかく管理ありきの体制に反抗する、納得しなければ決して従わない、そういった今まで否定・批判されてきた僕の在り方が、すべて個性という形で認められ、肯定と評価に変わったのだから幸せなことこの上ない。友達集めて夏休みに旅行に行ったり、ゲリラ新聞作ったり、最初から色んなことやったなあ。部活は下手の横好きながら念願の野球部に。しかし、よくあることで1年生は連日大声出させられるのと走らされてばっかり。さっそく気持ちが折れて、秋には「僕は野球がやりたくて入ったんだ、別に毎日走りたいわけじゃない!」なーんてでっかく書いた退部届突きつけて辞めた。こういうとこ、不変ね。エラく筋の通った根性なしというかさ。

1988年10月(13歳)
運動会で応援団やったことがきっかけで、空手道部の植木先輩に誘われ、入部。高校生の先輩はワルいし面白いし何かと格好良く見え、憧れたもんだった。窓も割れ、壁は落書き、床も抜けてるというスラム街の一角のような「生徒会館」の部室が健在で、入り浸ってたなあ。他にはスキー部にも入ったんだけど、季節が悪くて夏の基礎トレが嫌ですぐ辞めちゃった。器械体操部でバク転教わったり、写真部で写真一枚も撮らずに部室でファミコンばっかやってたり、音楽部入ってすぐ先輩に楯突いて辞めたり、なにやら色々やってたなあ。友達集めて企画旅行てのも休みの定番行事で、自分で時刻表とにらめっこして企画書書いて、大阪行ったり長崎行ったりスキー行ったりしてた。毎日どうやって人をびっくりさせるか、楽しいことやるかに全力を注いでいたため、勉強はまっっったくしなかった。事実、英語で「2点」をとるなど大ブレイク。しかも単語の問題の「festival」だけが正解だった。おまえらしいよと方々で言われまくった。担当教師と激しい闘争の末、書道で8点なんてのもあったな。字書けねえヤツみたいじゃねえか。

1989年4月(14歳)
生徒自治活動の盛んなこの学校で、予算委員会の副議長なんてのをやってた。まあ、肩書きだけ立派でたいした仕事しないんだけど。肩書きが好きだったんだね。そして数学ではついに中間・期末と連続で0点獲得。なのになぜかその平均値であるはずの学期成績には5点がついていた。何故だ。俺の習った数学では(0+0)÷2=0なのだが。先生曰く「0点じゃカッコつかないだろ、とっとけ!」。英語も2つあって両方赤点。化学・生物真っ赤っか。好きなことはやる、嫌いなことはやらない、我ながら徹底してるなあと思う。この年の現国や公民は90点以上をマークしているのだから。

1990年3月(15歳)
試験終了後、試験休みに友人5人を誘って野沢温泉にスキー。ところが東京からの1本の電話が事態を暗転させる。
英語のW先生「あのね、英語の点数足りないから、高校に上がりたかったら明日帰ってきて追試受けなさいね」
爆死。友人たちに謝り倒して帰京。しかもみんなつきあって一緒に帰ってきてくれたのだから泣ける友人たちだよね。

1990年8月(15歳)
空手道部第19代主将に就任。部活特有の精神論を嫌い、体育会系にありがちな理不尽な上下関係も廃した珍しいタイプの主将として誕生。実力の方は僕は全然強くなかったけどね。不祥事なんかもあって顧問が不在となり、低迷していた空手部だったが、先代から組織として少しずつ体裁を整え、僕の代になって部員が20名を超えた。とても仲がよかったし、楽しい部にはできたと思う。後輩たちもいまだに慕ってくれるしね。

1990年10月(15歳)
第43回文化祭実行委員会委員長に当選。麻布最大の伝統行事、「文化祭」の委員長は生徒会の存在しない同校にあって最高のステイタスであったが、いま思えばそれに酔いしれた未熟さ否めず。調子に乗って少なからぬ批判層も生んだ。毎年文化祭実行委員会のこの部門はサッカー部、この部門は水泳部、などの暗黙の世襲制、言ってみれば既得権益層との摩擦が背景にあった。それらの寡占状態を打破し、文化祭をオープンなものにするというのが僕の公約であり、人事決定過程の公開、目安箱の設置などいくつかの改革を行うも、組織内部の亀裂が最後までネックとなり、一部で公金横領問題が発覚するなどスパイシーな事態にまで発展。幸いにして批判数以上の支持を得たため、文化祭そのものは成功に終わったが、ここに端を発する学年内の対立は卒業まで色濃く残り、多彩な才能を多く抱えたこの学年の大きな欠点となった。だから僕、小泉首相の気持ち、ちょっと解るんだよね。

1991年2月(16歳)
初めてバンドを結成。文化祭でのステージを目指した。時まさにバンドブーム、X、聖飢魔II、BOOWY、ZIGGY、爆風スランプなどなどのコピー。今ビデオで観るともうほんとに顔から火が出る。

1991年5月(16歳)
文化祭。文化祭委員長は開会式で公開断髪式を行うしきたりがあり、生まれて初めての丸坊主。終了後はこれまた毎年恒例のスタッフみんなでプールに突入。ずぶぬれで労をねぎらい合った。そのうちにみんな泣けてきて、忘れられない思い出の1ページに。俺もなんだか泣けたなあ。あんなに泣いたことって後にも先にもないんじゃないだろうか。渋谷の宮下公園で胴上げして貰ったっけ。あれも忘れられないなあ。その後は打ち上げしてみんな泥酔して、吐くわ叫ぶわハチ公にとんでもないことするわ、あれは忘れたいなあ(笑)。
またこの月、ソ連(当時)大使館の一等書記官シェフチューク氏が来校講演。当時のソ連というのはペレストロイカ路線になったとはいえ、まだまだ得体の知れない恐ろしい国で、関係者はピリピリムードであった。ふらりと見に行った僕だったが、講演後の質疑で、せっかく来てくれたゲストに、オタクっぽい一部生徒が言葉尻を捉え、あまりにも独善的で退屈な議論を展開するのでプツン。部室に戻って空手着に着替え、会場に乱入。なんてことすんだ、という周囲のあきれ顔の中、「これが日本人の正装だ」「ロシア人は暗い」「世界を制するのは武力じゃない、エンタテイメントだ」「アメリカを見ろ、軍事力以上にハリウッド映画や音楽が世界を席巻しているだろう」「ロシアも明るくなれ」「世界にコサックを広めるんだ」とコサックダンスしながら身勝手な持論を展開。しかしこれが本人には大ウケしたらしく、「あなたの言っていることは至極もっともだ。あなたはきっと将来立派な『指導者』になるでしょう」と非常に共産圏らしい、それでいて最大級の賛辞を戴いたのだった。あれは嬉しかったなあ。心が通じた気がして。シェフチュークさん、今も元気かなあ。

1991年10月(16歳)
運動会で5組応援団長に。ほんとに何でもやるなあ。周囲がパフォーマンスに傾斜していく中、意外にも旧来のスタイルにこだわり、学ランに白いハチマキで三三七拍子。これはこれで楽しいモンなのよね。応援の甲斐なく優勝は叶わなかったが、最後のリレーも走るなどオイシイトコ総取りの1日。しかしどんなに目立とうとも女子はいない。
この頃、大学には行かない、バンドやりたい、と言いだした僕だったが、珍しく親父が直電話。「何やってもイイが、売れないヤツがほとんどなんだから、売れなかったときのことも考えて行動しろ。でなければ夢じゃなくて妄想だ。大学にはプロ顔負けのバンドがたくさんあるから、まずは大学でサークルに入ってそこでナンバーワンになってみろ。それもできないならあきらめるしかないし、他の道も繋がるだろ」との言葉に見事に説得されてしまう。この経験があるから、いまでも夢があるから進学しないと言い出す生徒にはその気持ちを汲みながら話ができるようになったんだろうなと思う。

1992年2月(17歳)
学校の音楽の成績は悪かったというミュージシャンは多いが、僕は当時ハマっていたYAMAHAのエレクトーンを学校までクルマで持ち込み、音楽の自由実技テストで100点取った。そらそこまですればなあ。ちなみにこのとき、ちょうど好きな時代を扱った世界史のテストでも100点を取り、成績低迷の象徴的存在である僕の突然の快挙に驚いた担任の加藤先生は、採点直後にわざわざ僕の自宅に電話して速報して下さった。そんなことってある?イイ先生だよね。

1992年5月(17歳)
1年3ヶ月続けたバンド、高校最後の文化祭で解散ライブ。最後に「東大で再結成」をブチ上げ、ハッタリとは知る由もない無邪気な観衆から「さすが麻布ね~」みたいな満場の喝采を浴びる。どうしよう。センターの科目足りねえっつうの。でもこのバンドからホントに東大入っちゃったのが2名。ナイスだ。で、そろそろ真面目に受験勉強するかと思いきや、浪人の代名詞「卒業アルバム委員」になっちゃう。しかもまた委員長とか引き受けちゃう。3浪はカタいなと噂される。

1993年3月(18歳)
やっぱり浪人。現在完了とか関係代名詞とか、なんのことだかさっぱりというような状況にありながら、とりあえず早慶4つしか受けず全滅。あまりに無謀。だって現在完了のHAVEとかぜんぶ「持つ」って訳してたくらいだもんなあ。古文も真っ白。なんで塾で先生やろうと思い立ったんだろう(笑)。就職直後はすっごい勉強したっけ。受験の結果をみんなで報告し合う卒業式では、あれだけ徹底的に勉強せず、やりたいことだけやり放題の6年間を送った僕は当然、注目の的。しかし誰に訊かれても「卒業式で発表するから」の一点張り。「ひょっとして受かったのか?」との不安とも疑念ともつかぬ周囲の疑念の中、始まった卒業式。壇上に登った僕の出で立ちは、上半身空手着に下半身は剣道の袴。日の丸のハチマキを締めて、腰にはおもちゃの刀にアルミホイルを巻き付けた二本差し。名前を呼ばれて卒業証書を受け取るや校長に斬りかかり、マイクを奪い取って一言。
「拙者、浪人でござる」
会場が揺れた。高校生活ラストを飾る空前のバカウケ。身を削ったギャグというのはいつやってもウケがいい。

1993年8月(18歳)
無料特待の早稲田予備校に通い出すも、続かず。友人の多くいた駿台にモグリ、浪人生活。正午過ぎに起きてお茶の水に行き、屋上でダベリ、日が暮れたら自習室で賭けトランプ、その後は雀荘かゲーセンというすさまじい夏。これで今、「夏を制するものは受験を制す」なんて言っちゃう図々しい僕に乾杯。この頃、学校の枠を超えて多くの友達ができたが、女友達ができたのも初めてのことで、ずいぶんとぎこちない接し方をしていたような気がするなあ。男子校の悲哀だよね。1年でだいぶ慣れたけど。この頃の友達は今でも付き合いがあり、Rebirthのワンマンとかもよく見に来てくれた。

1993年9月(18歳)
そろそろマジメにやらなきゃマズイ…と勉強開始。得意な社会を活かすべく、マニアックな出題しかない日本史をあきらめ、政治経済へ変更。英語は駿台で出会った薬袋先生の五文型を強く意識した精読技法「Frame of Reference」に感動、開眼。それまでまったくわからなかった英語が目から鱗が落ちたようにすらすらと理解できるようになった。いまでも生徒に英語を教えるときには、この影響を強く受けた解説をしているかな。駿台で、お茶の水のファーストフードで、ようやく勉強らしい勉強をし始めた。

1994年2月(19歳)
早稲田ばっかり受けまくって、社会科学部ほか二つに合格。「何だか受かる気がするんだよなー」なんて言いながら合格発表見に行ったら、本当に番号が載っててびっくりした。

1994年4月
早稲田大学社会科学部入学。朝起きなくてイイ、必修体育がない、第2外国語がない、ゼミがない、卒業論文がない、という環境は、バンドやりたくて大学に入ろうとしていた僕にとっては理想だった。奇しくも親父とまったく同じ進路だったことを入学後知る。親父は放送研究会で当時のアマチュアバンドの全国ツアーの司会者なんかをやっていたらしい。道理で(笑)。色々サークルを覗いて周り、最初に入った「ロッククライミング」という軽音サークルでRebirth初代ギタリスト・タカシと出会う。さらにそこにいたタツヤという友人の紹介で、世紀末や爆風スランプを輩出したことで有名な名門サークルWFS(ワセダフォークソング)に入会。ここが居場所になる。その他、編集出版サークル「MILESTONE」にも入会。
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アンチ福沢諭吉宣言(万札除く)

2005-12-16 04:35:32 | 似非哲学の部屋
確かに、勉強は大事だ。
それは身をもって知っている。
学歴なんていうケチなもののためだけじゃない。
「知」こそは武器だからだ。

強靱な肉体が病を遠ざけるように。
美しい容姿が異性同性を問わず憧れを呼ぶように。
豊かな心が人々を惹きつけるように。
「知」もまた自分を守る。新たな展開を呼ぶ。周囲を惹きつける。
「知っていたから救われた」「知らなかったから損をした」
なんて例は古今東西掃いて捨てるほどある。
「知」こそは人生において自分を有利に導く大きな要素なのだ。

「知」は誤解されている。
天賦のものでもあるかのように。
冷たい人間の専売特許のように。
感情の対極、「理屈」の代名詞のように。
決して、そうではない。
「知」は看板・容れ物として備わるのではない。
そこに血肉があってこそ実のあるものなのだ。

物事を正しい筋道で考えるためには、
できるだけ多くの材料(知識)と、
できるだけ多くの思考パターン(経験)とが必要だ。
「机の上だけが勉強ではない」とはよく言われるところだが、
言葉やデータを頭に入れるだけの、
いわゆる「知識」偏重では融通の利かない
「頭でっかち」な人間になってしまう。
リアルな現実社会に触れること、
自分の耳目で、身体で、心で切り取って感じること、
つまり「経験」の重要性は言うまでもない。

「経験」もまた「知」の一部だ。
ものを「知る」あるいは「識る」手段は、
なにも言葉や数式だけにとどまらない。
職場や学校での人間関係、受験やスポーツでの試練、
大恋愛・大失恋、家族や友人の死、
こういったものが人生に刻み込むものはどんな本にも勝る。
その歓びや哀しみを「知る」か「知らずにいる」かでは、
人間性の深みという面で天地ほど差が開く。
悲喜こもごもの人生経験は、使い込んだ革製品のように、
味のある人間性を醸し出す。

では「経験」しなければ、それらは決して理解できないであろうか?
また、「経験」さえすれば、それらは必ず理解できるものだろうか?

経験はただ重ねればよいというものでもない。
どう咀嚼するか、どう理解するかが大切なのだ。
このとき、「知」が大きな役割を果たす。
例えば、「失恋」を考える。

大好きだった人に思いを告げる、けんもほろろに断られる。
A)自分に何が足りないのか考える
B)相手の冷たさに幻滅する
C)相手を逆恨みする
D)手に入れられるまで追い回す
E)とっとと次を探す

その他無数の選択肢が考えられる。当然、正解などは存在しない。
誰もが頷ける「美しい答え」はAだろうが、
現実問題、B~Eはよく耳にするところだ。

恋愛というのは欲深なエゴイズムと、
マゾヒスティックな自己犠牲との危うい綱引きだから、
理屈も判断も行動もまた、利己的なものに陥りがちである。
しかし、恋愛はもちろん相手あってのものだから、
そのままではトラブルになる。
そこで「思いやり」や「客観視」、
言うなれば「社会性」の基礎となるべき思考が求められるのだ。
だが、この過程は誰でも容易に辿れるものではない。

野球でもサッカーでもいい、初心者がいきなり試合に出て、
活躍できるなんてのはおおよそ考えにくい。
そういう人種もいないこともないけれど、
多くの人間には恋愛という試合に臨む前にも、
やはり「キャッチボール」や「リフティング」が必要だ。
練習があって初めて、試合中のプレイのひとつひとつの意味がわかるし、
スムーズにこなせるというものだ。

机上に於ける「知識」の吸収は、これに当たる。
恋愛だったら恋愛をテーマにした多くの作品に触れて、
前もって実害を伴わない「疑似体験」をすることで、
同じ経験に対しても理解の及び方が全く違ってくるのだ。
少なくとも、自分の身勝手な理屈や行動に対しての感覚は鋭敏になるだろう。
こういう形で「知識」と「経験」がリンクすることで、
真の意味の「知」が形成されるのだ。

そして「知」は「余裕」につながる。
世の中の現実というものは常に、
理想や理屈と相反する部分を抱えているから、
それらに煩わされない心のゆとりを持てるようにもなれる。
しかし悲しいかな、未熟なる「知」は「無知」を怖れ、憎み、時に害する。

かくいう僕もまた大なり小なりそういう言動をとってきた部分があるから、よく解る。
自分で認められるような「知の巨人」に対しては敬意を表するし、
逆に「謙虚な無知」には、礼をもって寛容な態度で接せられるものの、
知ったかぶり、片手落ち、自己完結、独善的でありながら
『傲慢な無知』に対しては、容赦なく批判する面を持ち合わせている。
いわば、自分もある意味、傲慢なわけだが。
僕が人から疎んじられる最大の点はそこだろうという自覚はある。
僕と袂を分かった人間のほとんどが頷くはずである。

しかしながら教師という職業は、
プロとしてこういった自分の主観を超越したところに成立させないといけない。
教師がものを知っているのは当たり前。
生徒がものを知らないのは当たり前。
だから見下すのはおかしな話。
だから間違った知識を持った生徒をただすのは教師の義務。
一方で教師が生徒にものを教わることだって、あっていい。

こういうプロとしての矜恃や美意識を持っていたかどうかで、
京都の事件を起こしたエセ塾講師と僕とは、本質的に違うのだ。
彼は真の「知の余裕」に気づかなかった故に、
自分を見失い、そして負けた。
それは勝手だが、子供を巻き込んだことが僕には本当に許せない。

いくら教えても成績の上がらない子、
いくら注意しても行動の改まらない子というのは確かに、いる。
しかし彼らはひょっとしたら、
「受験勉強」という一元的で無機質なフィールドでさえなければ、
すばらしい才能や人間性の持ち主たり得たかもしれないのだ。
この視点は欠かしてはいけない。
勉強は重要な前提ではあるが、すべてではありえない。
この点で、福沢諭吉以来の功利主義的な学問を軸に置く、
現代の学歴偏重社会の歪みを感じずにはいられない。

僕と出会えた彼らにくらいはせめて、
真の意味の「知」というものを体得してもらいたいと願うことしきりである。
塾の先生としては言うべきセリフではないかもしれないが、
僕は決して学問「だけ」をススメたくは、ない。

僕もまた、今なお真の「知の余裕」の境地を目指して闘っている。
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夜も眠れない。

2005-12-14 04:56:06 | 特選いぶたろう日記
世の中には色んな立場に立たされている人がいる。
望むと望まぬとに関わらず。
「一寸先は闇」という言葉があるが、
文字通りほんの数秒前までは予想だにしなかったような悲劇に、
いまこの瞬間、襲われた人もいるかもしれないのだ。

例えば、交通事故。
俺にも経験があるが、ほんとにわずかな一瞬の隙をねらってそれは訪れる。
そしてその一線を越えてしまうと、もうそれまでのすべてが夢のように崩れ、
残酷な現実を突きつけられてしまうのだ。
へこんだクルマ。騒ぎ立てるギャラリー。
悪くすれば血痕、あるいは死。

例えば、不倫発覚。
愛人と夢のような甘美なひとときを過ごしている。
そこに踏み込んだ鬼のような形相の妻。
修羅場ばんばばんば。
家庭崩壊。職場荒廃。しみじみ後悔。

今までと同じ時間、同じ世界のはずなのに、すべてが闇に閉ざされる。
そんな苦境に立たされた時、誰もが思うだろう。
夢であったなら覚めて欲しいと。
あの一瞬、あの判断、あの失敗さえなかったら。
自分もまた、とうてい知り得ない未来のいつかに、
そんな落とし穴が口を開けて待っているのかもしれないと思うとき、
戦慄を覚えずにはいられない。

ああ、夜も眠れない。

「61万円で1株」のはずが、
「1円で61万株」誤入力をやってしまい、
自分の会社に400億円もの損害を与えてしまったみずほ証券の担当者の、
今の心境・境遇を思うと。

400億だぜ。おい。
イチローですら40年くらいかかるぜ。
俺のバイク、5万台買えるぜ。
コンビニのバイトで返すとしたら、えーとえーと、
夜勤で時給1100円として…9時間で週に5日働いて…年に……にひゃ…く…ぜい…きん、が…てどり…………ぐう。

すかー。

ぴー。
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教えてみよう(シリーズ化)

2005-12-05 02:48:33 | 教えてみよう
新企画。
これとこれ、何が違うの?どんな意味?どう覚えるの?
それら子供の疑問に真っ向から応えるのが大人の役目。
そこでいつどんな疑問にもうまいこと答えて、
子供たちの尊敬を勝ち得るために日々修練を重ねる、教養講座。

私の出すお題について、あなたならどう教えるか、
簡単でいいので書いてみて下さい。
教科書や辞書みたいな専門的・機械的説明じゃなくて、
イメージを大切に、どうやったら子供が理解できるかがポイントです。
もちろん文体はどんなんでもかまいません。
ちょっととぼけたのも大歓迎。遊びだからお気楽に。

では第一問。

「温かい」と「暖かい」はどう違うの?

Comments (7)
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受験生には

2005-12-05 02:14:10 | せんせいとよばれて
年末…クリスマスも大晦日も正月もないのだ!
…てことは。
先生には毎年欠かさずないのだ!!(涙)

そんなわけで今日も仕事なワケです。
12月~2月は受験シーズン真っ盛り、おまけに2月以降は新年度ということで、
業界的には一年で最も忙しい時期を迎えます。
でもすべての仕事はやらされる性質のモノじゃなくて、
自分で計画して必要性を感じた上でやる訳だから、納得ずく。
「無意味に思えることだけどみんなでやると決めちゃったからヤラザルヲエナイ」
という腐れ民主主義(=民主主義万能信仰)が大嫌いな俺にとっては、
実に性に合うわけです。
いろいろ本当に大変だけど、楽しんで仕事してます。
バンドと比べても遜色ない、実に幸せな仕事だな~と感じてるよ。
だけどバンドはこの腐れ民……あ、やっぱなんでもないっす(笑)。

で、今日は保護者会。
数十人の父母の前で喋ってきました。
誤解を恐れずに言えばね、
相手が生徒だろうと親だろうと、ライブの客だろうと結婚式の客だろうと、
ラジオのリスナーだろうと生の観衆だろうと、同じことです。
聞き手を楽しませること、トクしたな~と感じさせること。
究極的にはここで一致を見る訳です。

もっとも、それぞれの客層が求めているモノは違う訳で、
それに応えることを考えたら当然、提示する内容や形式は違って来るけどね。
巷の人気ラーメン店や大衆食堂と、ホテルの高級レストランとで、
それぞれ出すメニュー、店舗の雰囲気が違うのと同じだね。
その辺の違いを考えないで、どこでも同じ方法論でしか出来ないヤツは無能な訳です。
バンドでもそうだけど、ウケないのを客のせいにしたりするなんてのは論外。
この点で、教育という場でどれだけ俺が応用を利かせられるか、というテーマで挑む、
実にやりがいがある講演だと思うんだな。
親は子供のために決して少なくないお金を払うワケだし、
その分シビアな期待と責任が入り交じるよね。
「笑わせればいい」じゃ済まない。
形だけじゃなく、実のある話もしないと。
ここでそれを明らかにしちゃうのは企業秘密に触れますので(笑)、
えー、みなさんのお子さんが来るべき時を迎えたらご相談下さい(笑)。

ま、でもね、すごくいい感じだったよ。
あー俺、こういう場にもなんとか対応できるんだな~と実感できて嬉しかったな。

さてさて。
別のトコでも書いたけど、スンスケが接触やったとか。
なんか、みんなに心配されて羨ましいぞ。
俺も心配されたい。
そこで俺も昨日起きた感電事故を報告したいと思う。
朝、ドライヤーをかけようとコンセントを差したら…

どぱぁん!!!

という乾いた音と共に目の前に青い閃光が。
おかしいぞ。俺はまだ「盛り上がって下さい…いいですかっ?!」
とは言ってないはずだ。
イヤ、ていうかその前に俺はビジュアル系ではないはずだ。
「本気出してくっれっまっすっかっ?!」とも言ってないぞ。
何のこっちゃわからん人にはわからんな(笑)。
いや、そういうアホビジュアルバンド多いんだよ。
なんなんだよ、ロックで「いいですか」って。
しかもその後ドラムと楽器で必ず「どどぱぁ~~ん」ってやるんだ、キメを。
なんなんだよ。
しかも何度も何度も繰り返すの。
「いいですかっ?!」「どどぱぁ~~ん」
「いいですかっ?!」「どどぱぁ~~ん」
で、たまに変化球のつもりか、
「愛して…くっれっまっすっか?!」「どどぱぁ~~ん」
いやー、俺、あれだけはイヤだったな~。

閑話休題。
そんで気づいたら手が真っ黒になってコードが破裂していました。
びっくりしたな~ありゃ。
実は小豆のやつめが床に落ちてたコードをかじってたらしいんだ。
それで中の導線がむき出しになってたみたい。
あ~コワ。

で、俺の「うおぁっ?!」という叫びを聞きつけた妹が様子をのぞきに。
妹(やけに俺似)「どしたの?」
息(ドリフの爆発コント状態)「いや…感電…小豆がコードをかじっててさ…」
妹(やけに俺似)「うそっ?!あぶなっ!よかったね~、電気通ってない時で…」
息「え?…あ、いや、俺、感電してるから。電気、通ってたんですけども…」
妹(やけに俺似)「いや、小豆。よかったよかった~。」
息「………………………。」
妹(やけに俺似)「おかあさ~ん、小豆がね……」
母(俺の原材料)「うそっ?危ないわね~~大丈夫?小豆ちゃん、ダメよ~」
小豆(俺の愛娘)「わんっ♪」
息「………………………。」


母よ。妹よ。
俺のこともちょっとは心配しろ。
そしてそして、家族の寵愛を一身に受ける小豆よ。
次やったら俺が君をかじってやる。
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スンスケが

2005-12-04 23:35:20 | いぶライダー闘いの記録
原付で接触事故やったらしい。
タクシーの左をすり抜けようと思ったらドアが開いた、というパターン。
こわ。俺、いまならその怖さを実感伴って共有できるもんなあ。
いつぞや俺の乗ったタクシーの運ちゃんが語ったとおり、
やっぱバイクとタクシーの事故ってのは多いらしいなあ。
バイクはクルマの列があれば「本能で」すり抜けるし、
タクシーは客を見れば「本能で」瞬時に寄せるもんなあ。
本能と本能の闘いなわけだな。
俺もすり抜けたい、飛ばしたい衝動を抑えるべく、
「ここで数台抜いてトクしても十数分、しかし事故ったら何もかも終わりだ!」
と自分に言い聞かせております。

…が、なかなか言うことききません(笑)。
こないだ真っ昼間に下北沢から40分で帰ってきました。
この時間帯、クルマなら1時間半はかかるでしょう。
電車並みの時間で移動できるのは大きな魅力だね。

バイクに乗るようになって実感したのが、
「クルマはバイクをクルマ扱いしていない」ということ。
もうすっごくジャマそうにしてるんだよね。
わざと隙間ふさいだりするのもいるしね。
で、とにかく周りを見てない。
思いつきでいきなり進路変えてきたりするから危なくてしゃあない。
まあでも逆にクルマに迷惑かけまくってるお馬鹿ライダーもいるしなあ。
クルマがどうのバイクがどうのというくくり方では語れないかな。
クルマしか乗ってなかった頃は俺もバイクジャマだな~と思ってたし、
結局エゴだと言えばそれまでだしな。
事故にさえ遭わなければいい訳だし、
四の五の語るより貧乏くじを引かないように気をつけよう。
ちなみに、俺の今のクルマの運転はとってもライダーに優しいです(笑)。

今日は残念ながら久々の雨で乗れなかったけど、
とにかく乗れる日は乗っております。
こないだなんか駅前に髪切りに行くのに乗ってったしね。
結構面倒なんだよ?
ウェア着込んで、メット被って、グローブはめて、ブーツはいて。
カバー外して、カギ2個外して、シート下にカギしまって、
ネットに鞄押し込んで、暖機して。
で、ゴーだ。総計10分はかかる。
でもね、このもどかしさが良かったりもするんだよな。
本当にねえ、いいよ、バイク。最高。寒いけど。
冬は寒いし、夏は蒸れるし、ほんとに根性の乗り物だよね。
夏はまだ体験してないけど、ここ最近は割と昼間暖かかったじゃない?
冬の陽射しでも直射で浴びると結構キツいんだよね。メットの中。
寒さより暑さに弱いからなあ…どうだろう、夏。
でも走ってさえいれば、すんげー気持ちよさそうだよね。
誰かさ、俺とツーリングクラブ作らない?

走行キロ数は目下1324キロ。
まもなく鎌倉幕府が滅びようとしております(笑)。
「正中の変」の起きた年だな。後醍醐天皇の第1回倒幕計画。
この「走行キロ数を歴史年号に見立てて興奮する」は俺の密かな楽しみとなっております。
2005キロまでの限定プランだからねえ。
信号待ちなんかで気づくたび、
「…あっ!大化の改新だっ!」
「おお!墾田永年私財法が出されたぞ!」
「うん?遣唐使廃止かあ…」
「いい国作れるかな…?」
「しまった!承久の乱見逃した!」
てな調子です。オタクっぽいな(笑)。
…違う違う!!職業病だって!!

年末進行で休みがなく、どこにも遊びに行けそうにないけど、
そろそろ慣れてきたし、ちょっと遠くまで行ってみたいなあ~。
Comments (2)
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最近、ハマっているモノ。

2005-12-02 02:39:24 | いぶたろう日記クラシック
1)言うまでもないがバイク。
  もうウェアからグッズから買いまくり。
  ヒマさえあればバイク用品ショップへ行ってます。
  半年前には考えられんことだな。

2)言うまでもないがあずき。
  最近ますますイタズラに拍車がかかってとんでもないです。
  でも散歩行くとリードがなくてもどこまでもついてきて、
  道ばたにしゃがむとその膝の上にちょこんと飛び乗ってくる、
  違法なまでにかわいいヤツです。

3)初めて言うが液体歯磨き。
  ずっと抵抗あったモノにトライしてみようというのが30代の余裕なのか、
  先日試供品を貰ったことから始まって、いまやすっかり必需品です。
  朝、口の中ネバネバしないのがいいね~。
  口内炎のヒドい時も殺菌効果の成せる業か、痛みが治まるもんな。

4)巷でも流行ってるんだが、ジン、ジン、ジンギスカン。
  近くにいい店を見つけて、ここんとこアホみたいに通ってます。
  あんなにオイシイのに、魚肉並みのコレステロールとカロリー。
  同僚諸氏にもお勧めしたところ、大ヒット。
  揚州商人に続き、確かな味の水先案内人、
  外食界のコロンブスとして評価が定まりつつあります。

5)チョコラBB&キューピーコーワi
  こう書くとまるでマイナーなプロレス団体のコンビ名のようだが。
  ビタミンBがとってもいいようです。
  肌荒れがなくなったし、持病とも言うべき口内炎もなりにくく、治りも早い。
  また肩こり・偏頭痛・眼精疲労もかなり改善。
  毎日近くのセブンで「農協野菜ジュース」のパックを買うことも習慣づけ、
  なんだか健康的な様な気がしてます。
  いつでもライブできるよなあ…しないけど(笑)。

6)聖飢魔?再ブーム
  先日ライブを見に行ったせいか、再評価が始まってます。
  いや、すげーいいです。うまいし。
  最近ずっとロクに音楽聴いてなかったから、すっと入ってきました。
  まだ聴いてないアルバムなんかも聴いてみようかと。
  
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