いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

心の闇と向かい合う

2011-01-21 10:33:51 | 読者の皆様へ
いぶろぐの開設から10年たちました。

10年間も公の場でほぼ実名さらして好き放題書いていると、
まあいろいろな事があります。
潰されかけたり、励まされたり、開き直ったり、また潰されかけたり。
だいたいその繰り返しです。

僕はいぶろぐに偽らざる心境をそのままぶつけることが多いです。
その過程で、少なからず、自分の心に潜む闇についても、
さらけ出してきたような所があります。
正直と言えば正直な生き方ですが、
損と言えばこんなに損なやり方もなく、
直接、僕自身の顔も声も知らない人が僕のテキストだけを見てどう思うか、
と考えると背筋の寒いものがあります。
はたまた直接関わり合いのある人もまた、
これがこの人の本心なのか、普段見ている姿は偽りなのか、等々、
複雑な思いにとらわれることでしょう。

ただ、内田樹氏も書いていますが、ブログやネット上のキャラクターが本当の自分、
そこでの記述が本心で、実社会が演じている虚像だなんて、思ってはいません。
どちらも僕なんだと思います。
ただ、人と向き合って話すときにはためらわれるようなきつい物言いを、
パソコンの画面相手ならいくらでも無遠慮にできる、そういうことだと思います。

現在、いぶろぐは一般人のブログとしては小さくはない規模の読者を抱えています。
僕の想定しない読者も多くいることでしょう。
中には、まったく特定の個人を想定していないのに、
その人への中傷だと受け取られることもあります。
誤解されることも多いです。

それでもまあ、良かれ悪しかれ僕らしかろうと10年続けてきました。
久しぶりに僕の記述に出会った旧友のほとんどが、
「相変わらずだね」とコメントしてくれるところを見るとそういうことのようです。

しかし、僕は本当に気分屋で、その時々の気分によって、
これがまあ同じ人格の紡いだ言葉だろうかと疑いたくなるほどに、
感情のブレがそのままテキストに表れてしまいます。
特にどうもストレス耐性が低く、
私怨私憤をまき散らすだけの、最低のテキストを書く時があります。
人前で文章を書く人間としては未熟であることもまた、自覚しています。

個人的な好き嫌い、不平不満、恨み辛み、妬み嫉み、
これは誰にでもある心の闇とも言うべき部分です。
僕はそれを理屈でもって偉そうに語ることが多いですが、
読み手の気分を考えないという点では、なんら価値のないテキストでしょう。
皮肉を言うにしたって、機知に富んだジョークまで昇華しなければ、
わざわざ公然と書き綴る必要はないはずです。

「いぶろぐ」は僕の持っているユーモアや明るさだけでなく、
自分の心のどす黒い部分、
濁り淀んだヘドロのような醜い部分をもさらけ出し、
まさに自分の心の闇と向かい合った場だとも言えるでしょう。
それらは普通に生活している分には表にはあまり出てきませんが、
日常の理不尽に疲れ、悩み、苦しみ、心に迷いが生じているような時は、
周囲のすべてにナーバスになってしまい、
普段であれば笑いに転化できるはずのことまでも、
怒りや憎しみのまま吹き溜まり、ブログに書いてしまう。
ただの八つ当たりです。

陰口をたたいたヤツに言い返したい、
俺がどれだけ苦労しているか、我慢しているかも知らないで、
好き勝手言ってる奴らをぶった切りたい。
そんな誰にでも襲ってくるマイナスの情動が僕を突き動かす。
ここからが勝負なのだと思います。
テキストを書いている間は誰も止めてはくれません。
自分自身で気をつけないと、ただ感情の赴くまま、
極めて攻撃的な、それ故に無防備な、
何の思慮もない言葉が並んでしまう。
そしてそれらは消しゴムが利かない。

こういった心の闇を、自分の理性でコントロールすること。
これができないまま、ネット上で発言し続けるのは自殺行為に等しいでしょう。

「いぶろぐ」をもう一度、整理します。
ともすれば心のバランスを欠きがちで、非常に危うい立場にある自分、
それを自覚するところからやり直したいと思います。
文章を書くことは辞めません。
辞めてしまうのはラクですが、進歩がない。
人は変われる。変われば評価も変わる。何度でも挑戦する。
どうやったらもっと高潔な文章が書けるのか、
一生かけて考え続けるに値するテーマだと思います。
僕の座右の銘、
「人間の最大の理性とは、すべてを冗談に換える力である。」
まさにこの部分が問われるのであろうと思います。

10年間ありがとうございました。
しばしの猶予を頂戴いたします。
Comments (3)
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「本物」とは単なる「好み」のことであったりするが

2011-01-17 15:12:15 | 似非哲学の部屋
何気なくつけたヒストリーチャンネルの、「アメリカの食事」が面白い。
さっきはコーンフレークの歴史、今はピザの歴史をやっている。
「イタリア発祥のアメリカの国民食」であるところのピザは、
イタリア系の移民が持ち込んだ初期の形から、
いかにもアメリカらしくアレンジされ、
現在我々が知るさまざまな種類のピザへと枝分かれしていった。

その過程で、新しいピザのアイデアが出されるたび、
「こんなのピザじゃない」
という保守層との軋轢がやはりあったという。
トマトソースじゃなきゃダメとか、切ってしまったらダメとか、
薪のオーブンじゃなきゃ、いや石炭だ、電気は論外だ、などなど。
今思うと、なんで?と思うような点もあるし、
ああ、今でもそういうこと言う人っているよなー、てなものまで。

たいがい、言い分としては
「あんなの偽物だ、邪道だ」「こちらが本物だ、正統だ」となるわけだが、
その認定は非常に難しいというか、実際はどうでもいい。
守旧派が噛みつく理由はこんなところだろうか。

1)本当に自分の方が美味しい、品質がいい
2)自分が慣れている味わい、価値観から抜け出せない
3)新しいものの方が優れているのが悔しい
4)新しいものを推す人々に誇りやこだわりを感じない

1)は実は2)であったりもするのだが、
長い年月の間で評価が確立していけば証明される。
だから焦ることなく、そう信じるのなら貫いていればいいことだ。
3)4)はありがちだ。
特に自分たちが苦労している面を鮮やかに省力的に解決してしまったものは、
素直に認めにくいだろう。
手間暇かけないものは魂が宿っていないとか何とか言いがかりをつけるわけだ。
伝統的なピザ屋は宅配を批判し、宅配は冷凍ピザを批判する。
しかし、魂が宿っているものを選ぶかどうかは、消費者が選択するところだ。
生産者が適当に、手間をかけず、イイトコドリの、いわばコピペ感覚でつくったものでも、
売れていればそれが現実の市場の評価ということになる。
音楽でも商品でもそうだろう、
売れているものを安易に批判するのは、消費者の否定につながる。

しかし。

市場の評価が、消費者が、常に正しいとは限らない。
それは数々の歴史が証明している。
大量生産品がもてはやされた後、手作り文化に回帰するなんてのもありがちな話だ。
「売れているからいいものだ」なんてのは、
思考停止した極端な民主主義・市場主義の狂信者の決まり文句だ。
やはり、何が本当にいいものなのか、見極める目は必要だろう。
「売れているから」という基準でものの良し悪しを語るのは、
品質を見抜く目が自分の中になく、判断の根拠もまた自分の中にない証明だろう。

というと、必ずこういう反論に出くわす。
「何が本物かなんて一概には言えない」
「人それぞれイイと感じるものは違う」
だから…何だというのだろう。
そんなものは万事議論における前提であって、結論ではない。
すぐにこういう言い方で、それまでの議論の積み重ねを突き崩すのは、
おおよそ賢明とは言えない。

世の中が多様な価値観であふれているのは自明のことであって、
その前提のもとで自分は何にベースを置いて、
何を信じて生きていくのか、ということが求められているのではないか。
それはもちろん、何が正解と言い切れないし、
選択の結果損な生き方を強いられることもあるだろう。
しかしそれも含めて自分の選んだ人生なのだ。
そういう覚悟もなく、ただ自分が貧乏くじを引きたくないばかりに、
勝ち馬に乗ろうとする、大きな流れに身を寄せようとする、
そういう小賢しさは、僕は嫌いだ。
むしろ狭小の誹りを甘んじて受けながら、
自分のこだわりに邁進する人の方にカッコ良さを覚えてしまう。

それを僕は本当の意味での「ROCK」だと考える。
単なる音楽の一ジャンルを表すものでもなく、ファッションでもない。
精神性だ。
守旧ということとも違う。
自分のこだわりを大切にして、古くても新しくても、
いいものはイイと判断し、場合によっては採り入れ、
そしてここが一番大事な点なのだが、
その過程で人の評価なんか気にしないと言うことだ。
究極的に頑固であるが故に、無尽の柔軟性を備えると言おうか。
それが僕の考える「ROCK」の至高の境地なのだ。

決して難しいことではない。
自然体で生きればいいだけだ。
これは「ROCK」か、そうでないか、そんなことも考えなくていい。
一切の基準を気にせず、自分らしく生きるというだけのことだ。
自分に正直に生きればいいし、人になんと思われようが関係ない。
自分にとって最良の(=結果にかかわらず納得のいく)選択のために、
主観と客観のバランスを取りながら、自分の位置や置かれた条件をよく考えて、
その上で自分の判断に自信と責任を持って臨めるかということだ。

しかし、この表層だけをなぞっていると、とんでもないカンチガイ人間になる。
自分独りだけで突出した生産性や、高い付加価値を生み出せるのであれば問題ない。
だがほとんどの場合、人間は協調が前提となる。
個人よりは組織であった方が、効率の面でも成果においても、
大きなものが期待できるのが普通だ。
だから、本当に自分の真価を発揮させようと思うなら、
本当の意味で自由に生きようと思うのならば、
安易な孤立を選ぶよりは、難しい舵取りの妙味を味わいながら、
自分らしく周囲と協調できる方策を探るべきだ。

ここは世間で価値があると思われているものを携えていた方が、
人の評価を得ていた方が、後々自分を貫く上でも有利だと思えば、
それすらありだ。
それは決して妥協でも保身でもない。
大きな戦略の中での戦術だ。
僕にとっては学歴であったり、定時に出社して仕事に従事し、
求められる役割を演ずるということも、その一環に過ぎない。
いつでも絶えずピリピリチクチクやり合うのは得策ではないし、
第一生きていてつまらない。
普段は周囲と上手に折り合いをつけ、
いざというときに自分を主張し、貫けるようにしておく、
そのための陣地は堅固に構築しておきたいし、
武器や味方は無いよりはあった方がいいし、少ないよりは多い方がいい。
それだけのことだ。

だから僕は、自分のこだわりが強すぎて、
それをコントロールできずにやたらと発散し、
組織の中で浮いてしまう人間もまた、ダメだと思っている。
すべてを自分の主観の中だけで判断してしまうこともまた、
すべてを他人の影響のもとで与えられていくということと同じく、
レベルの低い生き方だと僕は思う。

世間の価値観、周囲の意見というものは非常に強力なものだ。
だからそれに易々と屈しないだけの強い自分も築く必要がある。
だから僕は、どんなに流行っていても、売れていても、
僕の目でいいと思わなければ絶対に評価しない。
お前ごときに何がわかると揶揄されても屈しない。
人の意見を参考にはしても、依存はしない。
最終的に僕は僕の感覚を信じる。

これを僕は僕だけの特別な生き方だとは思わない。
「本物の」人間の在り方だと信じている。
今後も僕は本物だと思えるものを選び抜き、
本物だと思える人間と付き合っていきたい。
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感慨

2011-01-05 23:36:49 | せんせいとよばれて
年末年始に浮かれる世間を横目に、
8日間連続で入試問題に挑戦する厳しい冬期講座も、
正月早々2日からみっちり行われる特訓授業も乗り越え、
本日は「模擬面接」。
本番同様に教室内の配置も変えて、
入口には張り紙までして、それっぽい雰囲気。
生徒たちもわざわざ制服着用で、本番同様の緊張感で臨む。

受験生には正月などなく、するってえと先生には毎年なく、
一方で受験生のケアだけじゃなくて、新年度への営業も始まり、
何かと憂鬱にも陥りがちなこの季節だけど、
僕はこの「模擬面接」がキライじゃない。
長年かわいがってきた生徒たちの真剣な言葉に触れることが出来るからだ。

もちろん珍解答もある、ぎこちないお辞儀もある、ぐだぐだな返答もある。
けれど、大半の子たちについては、
「立派になったよなあ…」との感慨を深くする。
思えば、一番古い子は小4からの付き合いだ。
6年間は彼らにとってはここまでの人生の4割にあたる。
僕ら大人にとっても充分に永い時間だ。
この大事な時期に与えた影響の大きさを思うと身が締まる。
大きなカバンを抱えて元気よく教室へやって来てたあの子もこの子も、
いまや立派な中3生だ。
どうしても、最初の幼い印象が強く、どの子を見てもじーんと来てしまう。
なんだか、卒業式のようだ。

うちの塾は塾と言うより寺子屋に近い感じだ。
どの子も通塾年数が長いから、
受験のテクニックだけじゃなくて、人間的な面にも触れる機会が多い。
そうして関係を築いて来た子たちの旅立ちに当たっては、
やはり感慨深いものがある。
どの子もそれなりに頑張ってきた。
頑張ったからと言ってその全てが報われるとは限らない、
最初の厳しい試練になるわけだが、
それでも何とか、受かってもらいたい。

最初の試験まであと10日あまり。
後悔を残さぬようにやってくれれば、と思う。
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30年ぶりくらいの

2011-01-02 06:04:45 | 新・いぶたろう日記
喪中で迎える新年です。
正直、どう過ごしたらいいのかわかりませんので、
とりあえずおめでとうという言葉を使わないで、
戴いたメールの返信をしております。

十年くらい前かな、虚礼廃止で年賀状をすっぱり辞めてしまったので、
喪中だからと、特に何かをするしないということはないのだけども。

大晦日と元日は浜松の田舎で過ごしました。
毎年おばあちゃんの作るあんころ餅が美味くって、
今年もたくさん喰ってお土産にももらってきました。

小さい頃から仲のいい、従弟が社会人になってBMWを買いまして、
あまりの乗り心地の良さに、このまま東京まで行っちまえ!
と、ついさっき帰ってきました(笑)。
新年早々実に快適なドライブでした。
言い出す俺もさることながら、付き合う従弟もイイ根性してます。

仕事始めは今日からです。
受験生にとっちゃあ、正月ってより「入試2週間前」だもんね。
塾屋の年越しはまだ先です。

みなさま今年もよろしく。
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