いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

ご心配お掛けしました

2017-12-14 23:44:53 | 超・いぶたろう日記
ご心配お掛けしました。
励まし、お見舞いのコメントくださった皆さん、ありがとうございます。

幸い、内科的な病変はなく、ギックリ腰で診断確定です。
重病でもないのにまさかの救急車搬送となってしまい、
ものすごく恐縮でした。

布団から1時間かけても起き上がれなかった僕を、
救急隊員が5人がかりで搬出してくれて、
総合病院の救急外来の看護師さんたちも
すごく丁寧に対応してくださいました。

たかがギックリ腰とバカにせず、痛いでしょうと気遣ってくれて、
点滴・CT・レントゲン・坐薬・車椅子・松葉杖のフルコース。
満床で入院はできませんでしたが、
まともに歩けない僕に帰りの介護タクシーまで用意してくれました。

今もとにかく痛くて、トイレに立つにもひと苦労です。
幸い、教室のスタッフがみんな気遣ってくれて、
日曜まで休みがとれました。
忙しいこの時期に、ウチの規模では考えられない話ですが、
優しく有能なウチのスタッフに感謝です。

今日は中3受験生の授業だったんですが、やむなく休講・振替実施に。
LINEを通じてゴメンなさいしました。

いやしかし、とにかく痛いやら、恥ずかしいやら、
恐縮するやらで辛い1日でしたが、貴重な経験でした。

・恥ずかしくても辛かったら救急車呼ぼう
・救急車って凄い
・これからも見かけたらすぐ道譲ろう
・病院って凄い
・相手の気持ちになるって超大切
・車椅子とか松葉杖ってホントに大変
・今度から見かけたらできる範囲で気遣ってあげよう
・健康って素晴らしい
・ちと肥りすぎた
・「とても痛いけど大したことない」今回のこれ、たぶん見えない何かによる生活改善の戒めだ

現場復帰を目指し、できるだけ早く治して、
また憎まれ口たたけるよう頑張ります!

来たか

2017-12-13 23:47:26 | 超・いぶたろう日記
教材の入った段ボールをとろうとしたら、腰にピリッと…。

「久しぶりなのねん!」
「また来たのねん!」
「しばらくよろしくなのねん!」


またか…ギックリ腰……。

鈍痛はあるが、大したことはなかろうと仕事を続けるも、
夜になるにつれてどんどん痛みが酷くなり、
立っているのもツライ状況に。
職場から外出て階段降りてたら、腰が抜けた。
そとは極地のごとく寒く、さらなる激痛が…。

いよいよ本気で歩けなくなって、深夜の路上にうずくまる。
通りがかった優しい人に大丈夫ですかと声をかけられるという
人生初のシチュエーションまで体験してしもうた。

50m先の駐車場まで、這うようにして15分かかった…
クルマ乗るのもひと苦労。
これは…前回よりヤバいな…どうしよ。

「イケメンの片鱗を残してますもんね!」

2017-12-08 23:55:00 | 超・いぶたろう日記
今週の心に沁みる名言。

先日、あまりにも首肩腰がツライので、
マッサージを受けに行ったときのこと。
施術中、担当の方に「何かスポーツやられてますか?」と訊かれ、
いまは特に何もしてないと答え、けどなんで?と尋ねたところ、
「いや、けっこうガッチリ筋肉質なので…」とのこと。
自分では筋肉なんかなくなったと思ってたのだけど、
かつては機械体操やったり空手やったり草野球やったり
ステージで走り回ったりした身、
中にはしっかり昔のレガシーが残っているらしい。

運動不足で肥る一方の昨今を思うと
意外なコメントに嬉しさも隠せず、
調子に乗って「昔バンドで歌ってたからですかねえ」
なんてカッコつけたところ、担当者もウマイ人で、
「ああ、アスリートみたいなもんですからねえ」なんて、
ますます心をくすぐるコメントを追加してくれる。

「じゃあ、こんな肥っちゃったけど、運動したらすぐ痩せますかね?」
と軽口を叩いたところ、
「大丈夫ですよ!」と太鼓判を捺してくれ、
続けて冒頭のコメント。

【片鱗】
① 一片のうろこ。
② ほんのわずかな部分。一端。

お世辞だけではなく、ちゃんと正直な人であることが判った。
心も体もリラクゼーション。ありがとうまた来るよ。

人生が二度あれど

2017-12-03 04:22:13 | 超・いぶたろう日記
井上陽水の名曲に「人生が二度あれば」というものがある。
年老いた父母が人生を振り返ると、
父は仕事に追われ、母は家族や子供のために尽くし、
人生は誰のためにあるのかわからない。
若い頃のことを夢見るように話している…というもの。

誰にだって人生をやり直したい、
あるいはもしもあの時別の道を選んでいたら…と思うことはあるだろう。
大した苦労もせず、ここまで実に気ままに生きてきた僕ですら、
さすがに人生も半ばの四十を過ぎると思うところがなくもない。
それは後悔なのか反省なのか欲張りなのかわからないけれど、
あれこれ考えてみるのも面白い。
どうせ叶わないんだから、勝手に妄想するのも楽しい。

ただ、来し方の是非に思いをはせるとき、
「到底自分にできもしないこと」を
「そうしていたら」と都合よく考えてしまいがちだ。
あの時遅刻しなかったら、
あの時2分の1の選択の逆をとっていたら、
なんていうのならともかく、
「あのときもっと勉強していたら」とか、
「もっと練習に励んでいたら」とか、
そういう努力を要するものは、
「していたら」なんてカンタンに言えないんじゃなかろうか。
「できないのにしていたら、いまごろ〜だったのに」
という反実仮想で成果を期待しちゃう発想はあまりにもムシが良い。
「貯金していたら」「節制していたら」なんかも同じだろう。

そして、そういう発想って、
実は親が子供に与える過大な期待や、
有形無形のプレッシャーの背景にあるんじゃないかと思い当たる。
「自分ができなかったこと」を子供に押しつける親はすごく多いと感じる。
また自分の人生で後悔していることを、
子供にさせたくないという親心が強すぎて、
子供への束縛が強くなってしまっているケースも多く見かける。
自分にできないこと、向いていないことは、
かなりの確率で子供にもできないと思われるのに、だ。
実は親のエゴかもしれないのに、その自覚なく、
子供にはできるだけのことをしてやりたいと思ってしまう。
ここに親子関係の難しさがある。

僕思うに、努力するかしないかは
向き不向きも含めた「性格」であって、
また努力できるかどうかは
好き嫌いも含めた一種の「才能」ではないかと。
つまり「選択」ではないわけだ。
子供は「選択」ができていないのではなく、
無意識に自然と向かうべき方向へ流れているのだ。
それを無理矢理親の思うとおりに動かそうとするから歪みが生じるし、
親の支配から逃れた瞬間にガタガタと崩れるなんてこともよくある話だ。
子供の人生を使って、自身の反実仮想のifを見ようとするなんて、
いささか身勝手な話ではなかろうか。

話を戻して、この経験や知識を元にして、
仮に自分の人生をやり直せることになった場合、
果たしてうまくいくのだろうか。
一度若い頃を過ごして中年になったいまだから、
やっておけばよかったと痛感するけれども、
実は若い頃にふと戻れたとしたって、
最初は意気込むかも知れないが、
結局やりたくないことはやらないだろうし、
次第に時間を持て余してしまうだろうとも思うのだ。

思えば僕も、浪人中は毎日遊び呆けてたし、
大学に入るとバイトとバンドに明け暮れて、
随分時間を無駄にしたと思う。
その後のバンド時代だって、
果たして全身全霊を音楽に傾けていたかと言えば甚だ怪しい。
30からは仕事漬けだ。
一体自分の人生で、何を成し得たのだろうかと思うこともある。

でも、僕はリセットややり直しをを望むかと言えばそうでもない。
なぜなら、たしかに無駄も多い人生だったけど、
総じて自由で楽しかったから。
特に有名にも金持ちにもなってないけど、
運と健康と出会いに恵まれて、
42年半、笑いっぱなしで生きてきた。
文句言いで有名な僕だけど、
言いたいことはすべて言葉にして遠慮会釈なく吐き出してきた分、
ストレスは溜め込まずに済んだ(周囲に随分迷惑をかけた気もするが)。
それでいて、元気で楽しく食えている。
他人との比較には意味がないし、
少なくとも自分で思うにこんな恵まれた人生はないと感謝こそすれ、
後悔の余地はあまりない。

そして、たいていのことは必死に努力しなくても、
それなりに形にできる
(けど図抜けたものにはできない中途半端な)
要領の良さだけで生きてきた僕は、
そのせいで努力を厭う人間になってしまったと自覚している。
ここでいう「努力」は苦しく、面倒で、
イヤなことでもコツコツ取り組むという狭義でのもので、
好きなことにのめり込むのは努力とは言わないという前提でのことだ。

そんな僕が若い頃に戻れたって、
きっとまた同じような人生を辿るに違いない。
もうバンドはやらないかも知れないし、
漫画やゲームに時間を費やすこともないだろうけど、
きっと他の何かでダラダラ生きるに違いない。
良きにつけ、悪しきにつけ、何度やっても僕は僕だ。

だとしたら、いまの人生のままでいいじゃないか、と。
人生をやり直して、
前の人生では出会えなかった人々に出会えるかも知れないが、
そのせいで数々の味わい深い思い出を共有する
「今つながる人々」との関係がリセットされてしまうのはとても寂しい。

…と思えるということはやはり、僕の人生、
だいたいここまではOKなんじゃないか。
それは成功自慢のようなことじゃなくて、
「足るを知る」という、
いわば幸福の神髄のようなものに触れられているという意味でのことだ。
少なくとも、自分が幸せだと無邪気に信じられる限りは、
結構幸せなんじゃないかと思う。

親子でも同様に「親が思う幸福」ではなくとも、
子供にとっては幸福な人生だってありうるし、
それを肯定してやることは大事なことじゃないだろうか。
繰り返すが、他者との比較になんて本質的には何の意味もないのだ。

てなわけで、僕を放っておいてくれた両親にはとても感謝している。
ただ、このまま不摂生を続けていると健
康面からそれが崩れる可能性がありそうなので、
後半生のテーマは「健康維持」で行こうと思う。
それさえ気をつければ、あとは大概、なんとかならあな。