いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

夏が来れば思い出す

2022-07-25 01:26:26 | 超・いぶたろう日記
やっぱり忙しいけど、愉しい毎日。
前職で消耗していた10年前を思うとまったく恵まれてるよなあ、と思う。
この時期なんて6勤1休だったもんね。
授業だけで朝から晩まで12時間。
そこに合宿の準備やら何やらで、毎晩残業、午前2時。
7月半ばから8月頭まで、予定の休みは2日のみ。
その貴重な休日ですら打ち合わせとかで潰されてたから、
実質20連勤でそのまま合宿入り、なんてことも。
合宿では5日間で10時間眠れれば良い方。
まあ、過労死ギリギリって感じで、よく死ななかったよなと思う。

『いぶろぐ』でもたどってみると、やはり例年この時期は死んでるね(笑)。
退職を考え始めた2012年は言葉少なになってるし、
地獄のように忙しかった2011年なんて投稿すらしてない。
2010年までさかのぼるとこんな記事に当たる。


基本、7月〜8月ってやはり投稿少ない。
追い詰められていたのだなあ(涙)
2009年は半分崩壊してる…

まいにち (2009/8/3)

あのまま前職に留まっていたら、きっといまごろは…(怖)
しかし、死んだところで何とも思わないような会社だったしなあ。
「まだ子供が幼いのに…無茶な働き方して…バカだなあ」
とか何とか、僕のせいにされてたろうな。
実際過労が祟って、他教室の責任者が入院したときがあったんだけど、
その時も散々働かせてきた社長が平気で、
「僕は休むように言ってたんだけど、自己管理ができてないねえ…」
なんて腐してたもんね。どの口が言うかと思ったよね。

彼を反面教師に、僕が独立時に掲げた経営方針は、
何より『人を大事にする』こと。
それはいまも堅持している。
全員に年間で1週間以上の連休を3回とれるように設定しているし、
休日出勤は必要最低限に絞り、手当や代休もきっちり充てる。
この夏の繁忙期でも、4勤1休で負担が少ないようにしている。
従業員も僕自身も心身共に健やかでいられるし、
何といってもイイ先生に長いこと働いてもらおうと思ったら、
精神論ばかりじゃなくて、それなりの環境を整えないとね。
休日どころか、残業や休日の手当さえなかった前職、
僕が辞めた後も櫛の歯が欠けるように良い人材から抜けていったと聞いたけど、
まだあんなやり方のまま存続しているのかしら。

ようやるわ。

自分でも8年も前に辞めたところの話なんか、もういいだろうと思うんだけど、
なんだかね、どうしてもこの時期になると思い出しちゃうんだよね。
でも、いいと思うんだよなー。
あの最悪の時期を思い出して、いまの幸福を噛みしめるってのも。
多少忙しくたって、あの頃を思えばなんてことないし、
このいまの恵まれた職場を守るためにも頑張ろうと思えるしね。

塾屋は夜が遅いから、なかなか子供たちと過ごす時間もとりにくい。
その上休みも少ないし、正月やら夏休みやらが一番忙しいという業種。
親としてはツライよね。
少ないなりに、何とか両立できるように、ワークライフバランスを考えて、
職場的にも家庭的にも健やかな環境を維持していきたいもんだ。

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内省的な思考なるもの2022

2022-07-15 14:37:24 | 超・いぶたろう日記
"You are so smart, but too pure."

みたいな人物評をいただくことがまま、ある。
いままでの所属先で、不思議なくらい異口同音に言われてきた。
「クレバーかと思ったら妙なとこで純粋」とも。
小賢しく小うるさく書生くさいということか。
褒められてるのか呆れられてるのか、
どういう顔して受け止めればいいか戸惑う。

とはいえ、自覚としては、
割と直情的でそんなに頭がイイとも思えないし、
知識にもモラルにも所々穴の空いたこじらせ中年くらいにしか思っていない。
なのに、異なる環境で評価が似通うというのは不思議だ。

おそらくは下手に語彙が多く、おまけに無駄によく書きよく喋るので、
なんとなくアホではなかろう程度の印象は与えているのだろう。
でも自分で純粋とかいうのは抵抗あるなあ。
おそらくは、権威や権力に自分の中の道理や筋道を歪められるのは、
何よりガマンならないので、その辺りかなあ。
組織や周辺に配慮して「大人になりなさいよ」と言いたげな人からすれば、
道理にこだわる「変な純粋さ」、
つまり子供じみたヤツと捉えられてしまうのか。

さらには好き嫌いがかなりハッキリしていて、
イヤなものはイヤ、とテコでも動かないところがある。
それでいて、これも父母譲りなのだが、情にほだされやすいから、
純粋と言うよりはお人好しだろう。
その辺ならたしかに自覚がある。

いぶろぐでも時々やる、非常に内省的な、公開自分語りである。
この投稿にいったいなんの益があるのか、自分でもよくわからない。
でも我が心にうつりゆく由なしモヤモヤを言語化する、
その一点では気持ちがスッキリする。
読み手にどう思われるかは、知らない。
よほど暇なら読み流すぐらいはしてくれるだろう。
暇つぶしになれば嬉しい。
僕だって病院待ちの暇つぶしにこれを書いているのだ。
月は隈なきをのみ観るものかは。

閑話休題。

さて、もしこの人物評が当たらずといえども遠からず…ということであれば、
僕のいまの仕事[独立した学習塾]は、
かなり天職に近い適性があるのではなかろうか。
「賢そうに見える」と「子供の前で本気で理想を語れる」のは、
なかなかこの業界向きのスキルではある。
何よりこの飽きっぽい僕が20年も続けられているのだし。

でも、なんてバカにされやすいスキルなんだろう。
堀江とかひろゆきみたいな価値観からすればカスみたいなもんか。
社会的認知度よりも心の自由。
自分をコントロールしろと小うるさいビジネス本的価値観からも程遠い。
同業者でありながら、前職では経営者から、
「ピーターパンでいたいんだろう」
とか言われたっけ。
いや全然上等だけど。いまの体重で飛べるかな。
飛べない豚は……なにを失礼な。くぅれなぁいダァァァァ!!!

いつも同じようなことを言ってるような気がするけれど、
成功とかステイタス、名声や収入を得ることが「目的化」してしまうと、
かえって自分の資質や適性に合わない制約やストレスが増えるばかりで、
あまり幸せになれないような気がしている(僕は)。

なんかいっつも同じようなことを言っている気もするが、
成功とかステイタス、名声や収入を得ることが「目的化」してしまうと、
かえって自分の資質や適性に合わない制約やストレスが増えるばかりで、
あまり幸せになれないような気がしている(僕は)。
だから、僕は就職活動なんかしなくて正解だったし、
バンドは売れなくてよかったのである。

名声も収入も、自分があくまで自然体でやりたいようにやり、
その「結果」としてのボーナスであればよいのだが、
はじめから自らに課したゴールにしてしまうと、
なかなかそこに辿り着けない自分にイライラするだろうし、
他者の様子をうかがっては焦ったり嫉妬したりして、
むしろ不幸の種になるのではないか(僕には)。

何かを失いたくない一心で、何かを演ずるというのも窮屈な話だ。
自分の良識を、人格を、理性や品性を、
人によく思われたいという目的でいくら演出しても、
その助平根性は滲み出る。

幸不幸の基準は他者との比較には、ない。
あくまでも自覚によるものだ。

僕は賢くも純粋でもないかもしれないが、
誰と比べるべくもなく、いつだってとても幸せなのである。
少なくとも、自分の幸福を自覚する達人であることは、大いに自負している。
揺るぎなき自己肯定感の大魔王と呼んでいただきたい。

Rebirthの退散から明日で17年が経つ。
早いもんだ。
この17年、僕は相変わらず僕なんだなあと自分でも思う。
みんなにもそう思ってもらえてたら嬉しい。
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安倍死すともカルトは死せず

2022-07-11 23:41:08 | この国の憂鬱
僕は自他共に認めるアンチ安倍晋三で、
彼の完全な政界からの退場をずっと願ってきた人間ではあるけれども、
それでも、今回のような事態が起きたらそれは絶対マズいよなとは思っていた。
そして実際こうなってみて、やはり大きな危機感を覚えている。

「民主主義社会において、何人に対しても、暴力やテロは許されない」
それは決してただのお題目ではない。
「気に入らないアイツが消える社会」の心地よさは、
「いつ自分が消されるかもしれない」恐怖を上回るものではないはずだ。
90年ほど前、言論を無視した暴力の連鎖がどんな破滅的な展開を呼ぶか、
既に日本は経験済みで、よ〜く知っているはずじゃないか。

ただ、多くの政治家が便利に使い回しているが、
今回の一件をもって単純反射で「民主主義への挑戦」とするのは、
なんだか引っ掛かる点が多い。
民主主義は多くの概念を内包するが、暴力と対義関係にあるのは言論だろう。
安倍は言論を軽んじ続けた人間だ。
様々なことばの意味も、憲法も法律も、対立する者の言辞も、
勝手に定義を変え、決めつけ、語彙や論理を破壊し続けた。
説明責任も果たす果たすと言うばかりで、
その実はいつも逃げて、ごまかして、もみ消して、ウソをついてきた。
反論や追及には一方的に勝手な言い分をまくし立て、
時には感情的に恫喝し、無視し、ことさらに嘲笑して見せた。
そんなことで「説明責任」を果たしたことにした。
発言や行動に矛盾があろうと、明らかな誤謬があろうと、
「私は内閣総理大臣なんですから」の一言で押し切り、
閣議決定などという陳腐なやり方で日本語の意味や定義さえ歪めた。

「募ってはいたが募集はしていない」
「『そもそも』には『基本的な』という意味もある」
「私は立法府の長だ」

などとオツムの程がしれる頓珍漢な答弁をくり返し、
歴史認識もムチャクチャ、まるで無知無学。
そのくせ同じ舌で対立者に「もっと勉強した方がいいと思いますよ」などと、
平気な顔でのたまえるのだ。まともな神経じゃない。
おおよそ、恥というものを知らない。厚顔という言葉でも足りない。

論理がまったく通じない。ましてや科学的思考など絶対に無理。
そんな人間を8年間もありがたがって宰相にいただいて、
言論による政治が一体この国のどこにあったのか。
検察も裁判所も内閣法制局も、みんなズブズブになし崩し。
日本の民主主義など、とっくの昔に機能不全に陥っており、
それが可視化されただけではないか。
それでも見えないという人は一体どこで何を見ているのか。
見たいものしか見ようとしていないのか。

暗殺実行犯は、対立勢力の一員ではなかった。
その意味では、厳密な意味の政治テロではないし、
「日本の民主主義への挑戦」とは言えないかもしれない。
正常な判断が出来なくなった人の突発的な犯罪であったかもしれない。

しかし、権力者の裁かれるべき罪がきちんと裁かれないと、
こうして私的制裁を企てる連中が跋扈するのを後押ししてしまう、
それは否定できないのではないか。
たまたま今回は個人による犯行だったけれど、
この「選挙も検察も除けない『巨悪』を、暴力なら簡単に排除できた」
という前例は、果たして今後、
この不安定な日本社会にどんな影響を及ぼすだろうか。
その意味で僕は、政治権力と癒着し、責任逃れに終始し、
政権側にとことん甘い日本の司法や検察が今回の事態を招いたと理解している。
誰かがTwitterで言ってたけど、
「ちゃんと牢獄にいればこんなことは起きなかった」はずなのだ。

安易に敵味方をハッキリと塗り分け、時間をかけた誠実な話し合いを厭い、
相互理解に価値をおかず、法や理念を軽んじ、目的のために手段も選ばない。
そんな政治手法の象徴的存在が、こういう形で最期を迎えたのは、
もう皮肉だと言うほかはない。
あの短絡で無責任極まりないスタイルは、いまや日本社会全体に浸潤し、
粗雑で厚かましく図々しく、暴力的なほどに世の中を変質させてしまった。
維新もN党もその他のカルト政党も、みんなある意味安倍一派の亜流だ。
開き直った無知・無学。反知性・反科学・反論理。
やってしまえばこっちのもの。押し切って逃げ切ったものの勝ち。
改竄・捏造・隠蔽・廃棄、後は開き直って野党と中韓の悪口言ってればOK。

そして今日、この参院選の結果。
日本はついにここまで退行したのかと嘆息、いや、戦慄する。

安倍の今までのあれこれはみんなこれでチャラ。
公文書の改竄も、経済の重要な統計の偽装も、モリカケも、サクラを始めとする有権者買収も、暴力団に選挙妨害を依頼したことも、西日本豪雨のさなかに宴会やってたことも、馬鹿のひとつ覚えで円安をごり押して物価を高騰させたことも、社会保障を理由に消費増税を強行したのに法人減税の穴埋めに流用して社会保障を縮小したことも、国会で虚偽答弁を数百回重ねたことも、何百億円もの血税を劣悪な布マスクに浪費したことも、みーんな、チャラ。

もう安倍が生きて断罪され、罪を償うことは未来永劫ない。
これ以上、罪を重ねることも、隙を見せることも、失言さえもできない。
金日成のように「偉大な指導者」として語り継がれてしまうのだろう。
テレビでは連日「悲劇の最期」が情緒的に語られている。
生前の「功績」も人格も最大限美化され、
そのうちに英雄視され神格化されていくのだろう。
自民党と安倍の手先、さらにその信者たちはさらに先鋭化するだろう。
三原じゅん子のあの芝居がかったアピールは見るもおぞましかった。
ああいうのがウヨウヨいるのだ、自民党には。
そして人を疑うことを知らない、多くのミーハーで「純粋な」有権者たちは、
ただ感情に流されるまま、政権のイメージ戦略に操られるままに投票する。
行き着く先は、自民党のあの悪夢のような草案通りの憲法改正だ。

もう、最悪という言葉でも足りない。まるで戦前と同じじゃないか。
子供たちの生きる未来の日本はどうなってしまうのか。
憂鬱だ。とにかく憂鬱だ。
僕が最も忌み嫌っていた政治家が突然退場したその日から、
こんなに憂鬱な思いを強いられるとは。
なんて皮肉なんだろう。
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